相馬盛胤 | 伊達氏と50年戦った戦国武将

目次

はじめに

戦国時代の東北といえば「伊達政宗」が有名ですが、その伊達氏に50年間も屈しなかった武将がいたことをご存じですか?
福島県浜通りを治めた相馬氏の15代当主・相馬盛胤(そうま もりたね)は、伊達の血を引きながらも伊達と戦い続け、一族を守り抜いた人物です。
この記事では、盛胤の波乱に満ちた生涯をわかりやすくまとめます。

相馬盛胤とは?

相馬盛胤は1529年(享禄2年)に生まれ、1601年(慶長6年)に73歳で亡くなりました。
父は相馬氏14代当主・顕胤、母は伊達稙宗(だて たねむね)の娘です。
つまり盛胤は、伊達氏の血縁者でもありました。

相馬氏は鎌倉時代から福島県の浜通り地方(宇多・行方・標葉の三郡)を治めてきた武家で、平将門の子孫を称する名門でもあります。

天文の乱──対立のはじまり

盛胤の人生を決定づけたのが、1542年に起きた「天文の乱」です。
これは伊達稙宗と息子の晴宗が争った内乱で、東北地方全体を巻き込む大きな戦いとなりました。

盛胤の父・顕胤は舅にあたる稙宗の味方につきましたが、最終的に晴宗が勝利。
稙宗は丸森城(現在の宮城県丸森町)に隠居することになりました。

1549年、父の死を受けて盛胤が家督を継ぎます。
このとき盛胤は重要な外交判断を下しました。
妹を三春城主・田村清顕に嫁がせ、領地の一部を化粧料として譲ることで、田村氏との友好関係を築いたのです。
これにより南方からの脅威を減らし、北の伊達氏との対決に集中できる体制を整えました。

伊具郡の攻防──城を奪い、守り抜いた18年間

1565年に伊達稙宗が丸森城で亡くなると、盛胤はその隠居領の領有権を主張して伊具郡(現在の宮城県南部)へ侵攻します。

盛胤は段階的に攻略を進めました。

  • 1566年:亘理元宗と連携し、家臣・藤橋胤泰が小斎城を奪取
  • 続いて金山城を暴風雨の夜の奇襲で制圧
  • 1570年:丸森城を攻め落とし、伊具郡の主要三城をすべて支配下に

各城には信頼できる家臣を城代として配置し、防衛体制を整えました。

伊達輝宗はこれらの城の奪回を図り、1576年に大軍で攻め寄せましたが、盛胤は地形を活かした防衛戦で撃退しています。
相馬側史料によれば、同年7月の矢野目・冥加山の戦いで大勝を収めたとされています。

しかし1581年、小斎城代の佐藤為信が伊達方へ寝返るという痛手を負います。
この離反をきっかけに戦況は不利に傾き、1583〜84年に田村清顕の仲介で和睦が成立。
丸森城・金山城を伊達氏に返還する代わりに、相馬氏の本領は守られました。

約18年間にわたり、圧倒的な伊達氏の攻勢を跳ね返し続けた防衛戦は、盛胤の軍事的手腕を示すものといえます。

親子で戦う「二屋形制」

1578年、盛胤は49歳で息子の義胤に家督を譲りました。
しかし隠居後も政治や軍事に関わり続けています。

研究者の岡田清一氏は、盛胤と義胤が異なる城を拠点としながら連署書状(二人の署名入りの文書)を出していたことに注目し、「二屋形制」と名付けました。
これは父子が役割を分担して統治する体制で、前線の指揮を義胤が、後方支援を盛胤が担うという実務的な仕組みでした。

外交の力──佐竹・蘆名との連携

相馬氏は単独では伊達に対抗できないため、周辺の大名と連携しました。
常陸の佐竹義重や会津の蘆名氏と協力し、伊達を複数方向から牽制する外交戦略をとっています。

1585年の人取橋の戦いでは、義胤が約300騎で佐竹・蘆名連合軍に加わり、伊達政宗を追い詰めました。

ところが1589年の摺上原の戦いで蘆名氏が壊滅すると、相馬氏の同盟網は崩壊。宇多郡北部の重要拠点を次々と奪われ、滅亡の危機に直面します。

滅亡の危機と生き残り

1590年、伊達政宗の総攻撃が目前に迫る中、豊臣秀吉の小田原征伐が始まりました。
政宗はこちらへの対応を迫られ、相馬攻めは中断されたとも伝わります。
義胤は小田原には参陣せず、その後、宇都宮で豊臣秀吉に出仕したと考えられています。
石田三成ら豊臣政権中枢との関係も背景に、検地を経て、宇多・行方・標葉三郡を中心とする本知分4万8,700石を安堵されました。

こうして相馬氏は近世大名として生き残り、江戸時代を通じて相馬中村藩として存続しています。

1601年10月16日、盛胤は73歳で没しました。

まとめ──盛胤が遺したもの

相馬盛胤の生涯は、「勝てない相手にどう向き合うか」という問いへの一つの答えでした。

  • 正面決戦を避け、地の利を活かした防衛戦で時間を稼ぐ
  • 田村氏との友好、佐竹・蘆名との連携など、外交で伊達を牽制する
  • 親子で役割分担する「二屋形制」で統治力を維持する

盛胤が培った「独立の気風」は息子・義胤に受け継がれ、相馬中村藩の礎となりました。
また、相馬氏が守り続けた伝統行事「相馬野馬追」は現在も国の重要無形民俗文化財として1,000年以上の歴史を伝えています。

参考文献

  • 岡田清一「相馬氏の受給文書と『相馬西殿』」東北福祉大学研究紀要 第45号、2021年
  • 丸森町教育委員会「小斎城」解説資料
  • 南相馬市「同慶寺にねむる相馬家当主エピソード集」
  • 「相馬盛胤(十五代当主)」Wikipedia日本語版
  • 「相馬義胤(十六代当主)」Wikipedia日本語版
  • 華盛頓「伊達・蘆名・佐竹の狭間で!滅亡の淵から一族を救った男、相馬盛胤の半世紀」Yahoo!ニュースエキスパート
  • 文化庁 国指定文化財等データベース「相馬野馬追」
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