本庄繁長 | 二度謀反しても許された戦国武将

目次

はじめに

戦国時代、主君を裏切った家臣の末路はたいてい悲惨です。
討たれるか、一族もろとも滅ぼされるのが普通でした。
ところが、越後(今の新潟県)に、二度も主君に反旗を翻しながら、二度とも許されて城代にまで返り咲いた武将がいます。
本庄繁長(ほんじょうしげなが)です。

なぜ彼だけが特別扱いされたのか。
そして「越後の鬼神」とまで呼ばれた彼の武勇伝は、どこまでが本当のことなのか。
史実と伝承を分けながら、その生涯をたどっていきます。

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本庄繁長 | 二度失脚し、二度復帰した男 |hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 はじめに 主君に一度背いた家臣が、再び以前と同じような地位へ戻ることは、戦国時代であっても容易ではありません。 ところが戦国時代の越後に、一度は主君・上杉謙信に反...

1. 本庄繁長とはどんな人物か

本庄繁長は、越後国岩船郡小泉庄(現在の新潟県村上市)を治めていた国人領主です。
彼のような領主たちは「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれ、越後の阿賀野川より北の地域に割拠し、越後の支配者に対して強い独立性を保っていました。

繁長は、単なる上杉家の家臣ではなく、自前の土地と兵力を持つ半独立の領主でした。
この立場を頭に入れておくと、彼が何度も反乱を起こしながら生き残れた理由が見えてきます。

2. 十三歳で家督を取り戻した逸話

繁長は天文8年、本庄房長の子として生まれました。
生まれる直前に父が亡くなり、叔父にあたる小川長資が本庄氏の実権を握ります。

広く伝わる話では、天文20年(1551年)、父の十三回忌の法要が営まれた寺で、当時十三歳だった繁長が長資を襲い、自害に追い込んで家督を取り戻したとされています。
ただし、この劇的な場面設定については、同時代の史料による直接の裏付けが乏しいとする指摘もあります。
「若くして実権を取り戻した」という大枠は確からしいものの、細部は後世の物語化が加わっている可能性がある、と理解しておくのが安全です。

3. 上杉謙信への反乱「本庄繁長の乱」

家督を回復した繁長は、その後、越後の実力者・長尾景虎(後の上杉謙信)に臣従します。
しかし、謙信のもとでの遠征は、繁長のような在地領主にとって直接の領地加増につながりにくいものでした。

永禄11年(1568年)、繁長は謙信の命令に従って敵対勢力を討ったにもかかわらず、十分な恩賞を得られなかったことなどを理由に、甲斐の武田信玄と手を結んで謙信に反旗を翻します。
これが「本庄繁長の乱」です。

この反乱の存在は、伝承だけでなく史料でも裏付けられています。
信玄が同年7月16日付で送った書状には、「本庄弥次郎(繁長)が輝虎(謙信)に敵対している」とはっきり書かれているのです。
ただし、反乱の本当の動機については、恩賞への不満のほかに、同族との確執が根本原因だったとする見方もあり、単一の理由には絞り切れません。

4. なぜ滅ぼされずに済んだのか

繁長は本庄城に籠城して抵抗しますが、頼みの武田軍は思うように進軍できず孤立してしまいます。
最終的に他勢力の仲介で降伏し、跡取り息子を人質に出すことで、本庄家そのものは存続を許されました。

主君に弓を引いた領主の家が取り潰されず生き残る。
これは決して当たり前のことではありません。
揚北衆としての実力を持つ繁長を力ずくで排除すれば、周辺の他の領主たちの離反を招きかねない。
上杉家にとって、繁長は「潰すより使うほうが得な相手」だったと考えられます。

5. 御館の乱と新発田重家の乱

天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、跡継ぎをめぐって上杉景勝と上杉景虎が争う「御館の乱」が起こります。
繁長は景勝側につきましたが、皮肉にも自分の息子は景虎側についてしまいました。
景勝が勝利した後、息子は跡継ぎの資格を失う形で命だけは助けられます。

その後、今度は景勝に反旗を翻した新発田重家という別の領主が現れます。
繁長はこの討伐で戦功を挙げました。
かつて自分も謀反を起こした人物が、今度は上杉政権の側で反乱鎮圧に活躍する。
この立場の変化が、繁長という武将の生き方をよく表しています。

6. 庄内進出と十五里ヶ原の戦い

繁長は、出羽庄内(現在の山形県庄内地方)の大宝寺氏と長年の同盟関係にありました。
天正16年(1588年)8月、繁長は次男とともに庄内へ進軍し、十五里ヶ原の戦いで最上義光方の軍勢に勝利します。
この勝利によって庄内は上杉方の勢力圏に組み込まれました。
この戦場は現在、山形県の史跡に指定されています。

7. 二度目の失脚、改易と大和配流

天正18年(1590年)頃、繁長は上杉家中でのいざこざをきっかけに、庄内で起きた一揆を裏で扇動したとの疑いをかけられ、改易のうえ大和国(今の奈良県)へ追放されてしまいます。
これが二度目の失脚です。

ただし、実際に一揆を扇動したことを直接示す証拠は見つかっていません。
「疑いをかけられて処分された」ことと「実際にやった」ことは、切り分けて考える必要があります。
それでも文禄元年(1592年)、朝鮮出兵への参陣を機に赦免され、繁長は再び上杉家に迎え入れられました。

8. 最前線の守将として迎えた最期

慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津へ移封されると、繁長は伊達氏との国境に近い守山城、続いて福島城の城代に任じられます。慶長5年(1600年)10月、伊達政宗の軍勢が福島に攻め込んできた際、繁長はこれを防衛しました。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利した後、上杉家は大幅に領地を減らされます。
繁長自身の所領も大きく減らされましたが、それでも彼は福島城代を務め続け、上杉家の再建を支えました。

9. 語り継がれた「松川合戦」の真実

慶長5年10月の福島での戦いは、後に「松川合戦」として語り継がれ、少ない兵で大軍の伊達勢を挟み撃ちにして大勝利した、という華やかな逸話として広まりました。

しかし、この物語には注意が必要です。「松川合戦」という名前自体、合戦から約80年後に成立した軍記物に由来するものです。
しかも、伊達政宗自身が戦いの当日に書いた手紙には、政宗の軍勢が敵を追い払ったうえで、その日の夕方には別の場所へ引き上げて陣を構えた、という趣旨が記されています。
これは「上杉方が伊達軍を大敗走させた」という物語と食い違う内容です。

福島で戦いがあったこと自体は事実です。しかし「圧勝した」という部分は、後の時代に作られた物語による誇張だと考えられています。

10. まとめ

本庄繁長の生涯を一言でまとめるなら、「二度反逆しても、二度とも許された男」ということになります。
1568年の謙信への反乱、1590年前後の改易という、二度の大きな挫折を経験しながら、そのたびに家を存続させ、自らも復権を果たしました。

その理由は、彼が単なる家臣ではなく、代わりの利かない実力を持つ在地領主だったからだと考えられます。
同時に、後世に伝わる「越後の鬼神」という華々しいイメージの多くは、江戸時代以降に作られた物語によって膨らんだものでもあります。
史実として確かな部分と、後から付け加えられた物語の部分を分けて見ることで、本庄繁長という人物の実像がより立体的に見えてきます。

参考文献

  • Wikipedia日本語版「本庄繁長」
  • Wikipedia日本語版「揚北衆」
  • Wikipedia日本語版「十五里ヶ原の戦い」
  • コトバンク「本庄繁長」(日本大百科全書・講談社日本人名大辞典)
  • 福島市公式サイト「福島城の変遷」
  • 武田信玄書状 勝興寺(顕栄)宛(永禄11年7月16日)、ADEAC
  • 村上市観光協会「むかしの昔のことせ!」第25回
  • 山形県指定史跡「十五里ヶ原古戦場」解説
  • 本間宏「『松川合戦』論の問題(1)」福島県史料情報第27号、福島県歴史資料館
  • 渡辺三省『本庄氏と色部氏』(戎光祥出版、2012年)
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