はじめに
戦国時代、鳥取の小さな城の主でありながら、東南アジアと貿易をしていた武将がいたことをご存じでしょうか。
その名は亀井茲矩(かめい これのり)。
主家を失い、後ろ盾もないところから、鹿野城主、そして朱印船貿易を行う大名へと成り上がった人物です。
この記事では、亀井茲矩がどんな人物で、何をしたのかを、史料に基づいてわかりやすく紹介します。
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亀井茲矩はどんな人物か
亀井茲矩は、1557年(弘治3年)に出雲国(現在の島根県)で生まれ、1612年(慶長17年)に56歳で亡くなった戦国武将です。
もともとは尼子氏という大名の家臣の家に生まれましたが、婚姻によって「亀井」という家名を継ぎました。
その後、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕え、鳥取県の鹿野城主となります。
「琉球守」という珍しい名前を名乗り、朝鮮出兵にも参加し、最終的には東南アジアと貿易をする大名にまでなりました。
小さな領地から出発しながら、海外にまで視野を広げた点が、この人物の大きな特徴です。
主家を失い、秀吉に仕えるまで
茲矩がまだ「湯(ゆ)」という名字を名乗っていた少年のころ、主家である尼子氏は、有力な戦国大名・毛利元就に滅ぼされてしまいます。
行き場を失った茲矩は、しばらく苦しい時期を過ごしたようですが、この時代の詳しい記録はあまり残っていません。
1574年(天正2年)、茲矩に転機が訪れます。
尼子氏の再興を目指していた山中幸盛という武将の養女と結婚し、断絶していた「亀井家」の名前を継いだのです。
これによって「亀井新十郎茲矩」と名乗るようになりました。
しかし1578年(天正6年)、尼子氏を再興しようとする戦いは、上月城というお城で大きな敗北を喫し、失敗に終わります。
茲矩はこのとき秀吉の軍にいたため、命を落とさずに済みました。
そして、そのまま秀吉に仕えることになります。主君と仲間を失いながらも、新しい道を選んで生き延びたことになります。
鹿野城主になり「琉球守」を名乗る
1581年(天正9年)、秀吉が鳥取城を攻め落とすと、茲矩はこの戦いでの功績によって、鳥取県の鹿野城主に任命されました。
もらった石高(土地の広さを表す単位)は、資料によって「1万3,500石」または「1万3,800石」とされており、正確な数字は定まっていません。
このころ、茲矩は「琉球守(りゅうきゅうのかみ)」という珍しい名前を名乗り始めます。
よく知られている話として、秀吉が「何か欲しいものはあるか」と尋ねたとき、茲矩が「琉球国が欲しい」と答え、秀吉が扇に「琉球守」と書いて渡した、というエピソードがあります。
ただし、これは江戸時代に作られた記録に見られる話であり、当時の一次資料でこの場面そのものを確認することはできません。あくまで「言い伝え」として扱う必要があります。
一方で、「琉球守」という名前が実際に使われていたことは、当時の手紙や文書からわかっています。
その後、茲矩は「台州守(たいしゅうのかみ)」という、中国の地名にちなんだ名前も名乗るようになりました。
日本国内の地名ではなく、海外の地名を名前に取り入れていたこと自体が、茲矩の関心が海の外に向いていたことを示しています。
朝鮮出兵と、意外な経営者としての一面
1592年(文禄元年)、秀吉による朝鮮出兵が始まると、茲矩は水軍として朝鮮半島に渡りました。
ある海戦では、朝鮮の武将・李舜臣の軍に敗れ、秀吉からもらった扇を奪われてしまったという記録も残っています。
意外なことに、茲矩には「商人のような領主」という一面もありました。
大坂で働いていた時期に書いた自筆の手紙には、「北国の米があまり取れないらしい」「大坂の米の値段が上がりそうだから、船を急がせろ」といった、まるで商売人のような指示が書かれています。
船の帳簿や積み荷のリストを細かくチェックし、米の値段が上がりそうな場所を予測して売る場所を変えていたのです。
武士でありながら、経営者のような感覚を持っていたことが、この手紙から見えてきます。
関ヶ原の戦いと大井手用水
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、茲矩は徳川家康の東軍につきました。
戦いのあと、その功績によって領地が大きく増え、合計3万8,000石の鹿野藩の初代藩主になります(増えた石高は、資料によって「2万4,200石」または「2万4,500石」とされています)。
領地が増えたあと、茲矩はそのお金を無駄遣いせず、「大井手用水」という大きな水路を作ることに使いました。
千代川という川の水を引き込み、乾燥しがちだった土地を豊かな田んぼに変えたのです。
この用水路の長さは「約16km」または「約20km」とされ、着工した年も「慶長5年」説と「慶長7年」説があり、資料によって数値が異なります。
とはいえ、この用水路が現在も地域の農業を支え続けていることは間違いありません。
東南アジアとの貿易にも挑戦
晩年の茲矩は、さらに大きな挑戦をします。
1607年(慶長12年)以降、幕府から海外渡航の許可(朱印状)を受け、シャム(今のタイ)との貿易を始めたのです。
刀剣や金銀細工を輸出し、絹織物や象牙、香木などを輸入していました。
さらに1608年(慶長13年)には、当時としては巨大な西洋型の帆船を造る計画も立てました。
この計画は完成しなかったとされていますが、徳川家康に次いで西洋型の船を自分で造ろうとした大名として知られています。
九州以外の大名としては珍しく、海外との貿易に本格的に取り組んだ人物でした。
隠居と最期
1609年(慶長14年)、茲矩は息子の政矩に家督を譲って隠居しました。
そして1612年(慶長17年)1月26日、鹿野城で56歳の生涯を終えます。
茲矩の死後、息子の政矩の代である1617年(元和3年)に、亀井家は石見国(現在の島根県西部)の津和野へ領地を移されます。
以後、亀井家は明治維新まで津和野藩主として続いていきました。
まとめ
亀井茲矩は、主家を失うという苦しい出発点から、婚姻・武功・経営の才覚・海外貿易といった、さまざまな手段を組み合わせて生き延びた戦国武将でした。
「琉球守」という名前や、東南アジアとの貿易は、当時の武将としてはかなり珍しい発想です。
石高や用水路の長さなど、細かい数字には資料によって差がありますが、逆境をきっかけに視野を広げていったという生き方そのものは、多くの資料で共通して確認できます。
参考文献
- 鳥取県公式サイト「とっとり文化財ナビ」
- 鳥取県立公文書館「県史だより」第158回
- 鳥取市歴史博物館やまびこ館
- 農林水産省「大井手用水の祖 亀井茲矩」
- 佐賀県立名護屋城博物館 テーマ展「亀井家に伝わった異国のかけら」
- コトバンク「亀井茲矩」
- 亀井茲矩公没後400年記念事業公式サイト

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