中条藤資 | 上杉謙信を支えた越後の武将

目次

はじめに

「上杉謙信」の名前を知らない人は少ないでしょう。
しかし、謙信が家督を継ぐ場面で力を貸した家臣の名前まで知っている人は、あまり多くないはずです。

中条藤資(なかじょう ふじすけ)は、今の新潟県にあたる越後国の北部を治めていた武将です。
長尾為景・晴景・景虎(謙信)と、3代にわたる当主に仕え続けたと伝わっています。
ところが調べていくと、「中条藤資」という一人の人物として語られてきた物語そのものに、研究者の間でも意見が分かれる大きな謎があることがわかってきました。
この記事では、その謎も含めて、できるだけわかりやすく紹介します。

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中条氏はどんな一族?

中条氏のルーツは、鎌倉幕府の御家人だった三浦和田氏です。
1192年、この一族の三浦和田宗実が、越後国奥山荘(現在の新潟県胎内市あたり)の地頭という役職に任命されました。
これが中条氏の始まりです。

その後、一族の所領は分けられ、中条・黒川・関沢という3つの家に分かれます。
中条氏はそのうちの本家として、数百年にわたって奥山荘を治め続けました。
つまり中条氏は、戦国時代になって急に力を持った家ではなく、もともと独自の土地と兵力を持つ、由緒ある領主だったのです。

なお、中条氏のように越後国の阿賀野川より北側を拠点にした国人領主たちは、まとめて「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれます。
色部氏や本庄氏、黒川氏なども揚北衆の一員で、それぞれが独自の軍事力を持ちながら、時には協力し、時には争うという関係にありました。

藤資が歴史に登場するまで

藤資は中条定資の子として生まれました。
生まれた年は1492年ごろとされていますが、これを裏づける確実な史料は見つかっていません。
1494年、戦死した父の跡を継いで、鳥坂城の城主になったと伝わっています。

長尾為景を支えて力をつける

藤資が大きく歴史に関わるのは、1507年の政変です。
守護代の長尾為景が、守護の上杉房能を倒して実権を握ったこの事件で、周りの武将の多くは為景に反発しました。
しかし藤資は、いち早く為景の味方につきます。
この判断によって恩賞を得た藤資は、以後も為景との関係を、情勢が変わるたびに誓約を結び直しながら維持していきました。

一度きりの服従ではなく、必要に応じて何度も約束をつくり直す。
これが、藤資の生き残り方だったと言えるでしょう。

実は「藤資は2人いた」説がある

ここが、この記事でいちばん伝えたいポイントです。

歴史学者の前嶋敏氏は、中条氏の当主が発給した文書のサイン(花押)を分析しました。
すると1535年までは「藤資」という署名がある一方、その年の9月以降、藤資の署名がある文書がぱたりと見つからなくなることがわかりました。
代わりに「藤資は病気のため、サインできない」という意味の文が残されています。
そして数年後には、当主の署名が別の名前に変わっているのです。

前嶋氏は、この時期に藤資が亡くなるか引退するかして、跡を継いだ人物がいたのではないかと考えています。
ところが、その跡継ぎの本当の名前は記録に残らず、江戸時代につくられた系図が、2人の当主を1人の「藤資」としてまとめてしまった可能性があるというのです。

もしこの説が正しければ、1548年以降に「藤資」の功績とされている出来事の多くは、実は跡を継いだ別人の功績かもしれません。
ただし、この説は複数の研究者の解釈にとどまり、決着がついているわけではありません。
実際、別の調査記事ではこの論点にまったく触れず、1573年まで生きた1人の人物として説明しているものもあります。

伊達氏との養子作戦と謙信擁立

1538年ごろ、越後の守護・上杉定実の跡継ぎとして、東北の大名・伊達稙宗の息子である時宗丸を養子に迎える計画が持ち上がります。
藤資はこの計画を後押しした中心人物の1人とされています。
しかし伊達家の内部対立や越後国内の反対によって、この計画は失敗に終わりました。

1548年には、長尾晴景とその弟・景虎(のちの上杉謙信)が家督を争う事件が起こります。
一般には、藤資は景虎を支持する勢力の中心人物として、若き景虎の家督相続を後押ししたとされています。
ただし、藤資がどこまで主体的に動いたのかを直接示す資料は見つかっておらず、この点も評価が分かれています。

川中島の戦いと最後の忠義

1561年、藤資は第4次川中島の戦いに参加し、多くの家臣を失う激戦を経験したと伝わります。
戦のあと、主君から功績をたたえる文書(感状)を受け取ったとされ、これは「血染めの感状」と呼ばれています。
ただし、この感状を実際に受け取ったという事実そのものが確認できないとする調査結果もあり、断定はできません。

1568年には、家臣の1人が謀反を起こした際、中条氏がいち早く主君・上杉輝虎(謙信)にその情報を伝えました。
輝虎はこの忠節に感謝し、「一生忘れない」という内容の誓約書を送ったとされています。
この文書は現在も山形大学附属図書館に現存しており、中条氏と上杉家の強い信頼関係を示す資料として知られています。

まとめ

中条藤資は、鎌倉時代から続く名門の力を背景に、長尾氏・上杉氏という新しい支配者たちと粘り強く渡り合った武将でした。
しかし同時に、「藤資」という1人の人物像そのものが、実は複数の謎を抱えていることも見えてきました。
当主が2人いたかもしれないという説、感状や日付をめぐる資料の食い違い、亡くなった年をめぐる異説。
歴史上の人物を1つの物語としてまとめたくなる気持ちは自然なことですが、史料を丁寧に見ていくと、まだ解決していない疑問がいくつも残されていることがわかります。

参考文献

  • 山形大学附属図書館「中条家文書」データベース
  • 新潟県立歴史博物館 収蔵品データベース「越後文書宝翰集」
  • 前嶋敏「越後享禄・天文の乱と長尾氏・中条氏」『中央史学』37号、2014年
  • 長谷川伸「越後天文の乱と伊達稙宗」『国史学』161号、1995年
  • 「中条藤資」「中条景資」Wikipedia日本語版
  • 「中条越前守藤資」川中島の戦い・主要人物(長野市公式サイト)
  • 文化庁 文化遺産オンライン「中条家文書」
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