高力清長 | 「仏高力」と呼ばれた徳川家臣の実像

目次

はじめに

「仏高力(ほとけこうりき)」。
徳川家康に仕えた武将、高力清長(こうりき きよなが)につけられた呼び名です。
戦いで焼けた寺から仏像やお経を拾い集めて返したから、仏のような人だと領民が呼んだ。そう説明されるのが定番です。

ところが、あだ名の由来が書かれた本が世に出たのは、清長が亡くなってから約250年後でした。

では、清長自身が確かに書き残したものには、何が記されていたのでしょうか。
それは「市場での取引を禁止する命令書」です。

やさしい人という評判と、取り締まりの文書。
伝説として語られてきた部分と、史料で確かめられる部分を分けながら見ていきます。

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note(ノート)
高力清長 | 「仏高力」と呼ばれた男は、本当に仏だったのか|hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 はじめに 戦国から江戸へと時代が移るあいだに、「仏」と呼ばれた武士がいました。 高力清長(こうりき きよなが) 徳川家康に仕えた古参の家臣です。 三河一向一揆のあと...

高力清長とはどんな人物か

高力清長は享禄3年(1530年)、三河国額田郡高力郷──いまの愛知県額田郡幸田町にあたる場所で生まれました。
父は高力安長、祖父は高力重長といい、代々松平氏(のちの徳川氏)に仕える家柄です。

清長が6歳だった天文4年(1535年)、織田信秀が三河へ攻め込み、父と祖父が戦死します。
清長は叔父の重正に育てられました。

その後は徳川家康に仕えます。
家康が今川氏の人質として駿府にいた時期から従っていたとされ、清長は家康より12歳年上でした。

できごと
1530年(享禄3)三河国高力郷に生まれる
1563〜64年(永禄6〜7)三河一向一揆に家康方として従軍
1582年(天正10)伊賀越えに随行、駿河田中城を与えられる
1584年(天正12)小牧・長久手のあと秀吉への使者を務めたと伝わる
1590年(天正18)武蔵国岩槻2万石に入る。浦和郷1万石も預かる
1592年(文禄元)肥前名護屋城で軍船の建造を担当
1601年(慶長6)岩槻の市場に「市掟」を出す
1608年(慶長13)79歳で死去(1604年説もあり)

清長は合戦での手柄よりも、輸送、建築、造船、交渉、町の運営といった「支える仕事」で名前が出てくる人物だとわかります。


「仏高力」というあだ名は、いつ生まれたのか

「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」

家康の三人の家臣を並べた俗謡です。
穏やかな高力清長、厳しい本多重次、公平な天野康景。
リズムがよく、覚えやすい言葉です。

この俗謡が文献に現れる最も早い例は、新井白石の『藩翰譜』とみられます。
成立は元禄15年(1702年)で、清長が没したとされる年から約100年後です。
幕府がまとめた『東照宮御実紀附録』にも同じ俗謡が載っていますが、出典として「藩翰語」を挙げています。
つまり、白石の本から引用しているのです。

「焼けた寺から仏像やお経を拾って返した」というエピソードのほうは、『寛政重修諸家譜』という家系図の本に書かれています。
完成は文化9年(1812年)。永禄年間のできごとから、250年ほど後です。

三本の調査報告はどれも、同時代の史料でこの話を裏づけるものを見つけられませんでした。
出てくる寺の名前も、本宗寺・善宗寺・義宗寺と一定していません。

ただし、「裏づけがない」ことと「嘘だ」ということは違います。
戦国時代の三河について残っている文書は、そもそも数がとても少ないのです。
事実として断定する根拠がいまはない、というだけの話です。


「三河三奉行」は本当にあったのか

永禄8年(1565年)、家康は寛容な高力清長、厳格な本多重次、公平な天野康景という性格の違う三人を奉行に任命した──いわゆる「三河三奉行」です。
バランスの取れた人事の例として、いまでもよく紹介されます。

しかし現代の研究は、この話に疑問を投げかけています。
歴史学者の本多隆成氏は、根拠が江戸時代の家系図や編纂物ばかりであり、「三奉行」という呼び方も便宜的なものにすぎないとして、制度としても実態としても存在しなかったと論じました。

三本の調査報告は、いずれもこの見方を確認しています。
同時代の文書に「三河三奉行」という役職名は見当たりません。
三人の顔ぶれについても、本多重次ではなく植村正勝を挙げる説があります。

さらに『東照宮御実紀附録』は、三人の人柄は書いていますが、「性格の違う三人をわざと組み合わせた」という家康の意図までは書いていません。
この部分は、後の時代に付け足された解釈だと考えられます。


史料に残る清長の姿:天正18年の鎌倉

では、清長本人の文書はまったく残っていないのでしょうか。
そんなことはありません。

天正18年(1590年)7月26日のものと推定される「高力清長書状案」が、神奈川県立公文書館所蔵の帰源院文書のなかに伝わっています。
研究者の梯弘人氏が2025年の論文で全文を紹介しました。

秀吉の側近から、鎌倉の寺社の領地を現状のまま認めるという方針が清長に伝えられます。
清長はそれを受けて江戸へ行き、家康に報告しました。
さらに、検地を担当していた伊奈忠次にもこの方針を伝えています。

書状には清長自身の言葉として「則拙者江戸へ罷越、具家康へ令申候」とあります。
「すぐに私が江戸へ参り、詳しく家康へ申し上げました」という意味です。
清長が豊臣政権と徳川家をつなぐ連絡役を任されていたことが、伝説ではなく本人の文書としてわかります。


岩槻の町を立て直す

同じ天正18年、家康の関東移封にともなって、清長は武蔵国岩槻2万石を与えられました。
あわせて、足立郡浦和郷1万石を「預け地」として管理します。
預け地とは、主君である徳川家の直轄地を家臣が預かる土地のことです。

清長が入ったとき、岩槻の城下町は荒れていました。
同じ年の5月、浅野長政を総大将とする軍が岩槻城を攻め落としており、町は戦火を受けて住民が散り散りになっていたのです。

清長がとった手は三つでした。
第一に、屋敷地にかかる税(地子)を免除します。
対象は4万2145坪、およそ14ヘクタールです。
第二に、逃げ出した町人を呼び戻しました。
第三に、毎月1と6のつく日に開かれる定期市(六斎市)を復活させています。

税を軽くして、人を戻し、市を再開させる。
町の経済をもう一度動かすための、順序立った手順です。
この市で扱われた木綿は、のちに「岩槻木綿」と呼ばれる特産品になりました。


慶長6年の「市掟」に書かれていたこと

清長の統治を最もはっきり示す文書が、慶長6年(1601年)11月1日付の「市掟」です。

宛先は「岩付市宿 肝煎中」。肝煎とは町や村の代表者を指します。
差出人は「高力河内守」、つまり清長本人で、名前の下には黒い印が押されています。

3か条の内容は次のとおりです。

  1. 上宿の市が開かれる日に、下宿で品物を売ったり、よそから来た人や馬を引き止めて取引したりすることを固く禁じる
  2. ふともの・ゆたんといった木綿類は、上宿の市神「松堂」の前で売り買いすること
  3. そのほかは従来どおりとする

読んでみると、これは救済の文書ではありません。
取引する場所を決め、それ以外を禁止する、取り締まりの文書です。

この掟の読み方は、報告のあいだで分かれます。
上宿と下宿の争いに対し上宿有利の裁定を下したと解釈する立場がある一方、争いを示す史料は確認できないとする慎重な立場もあります。

なお、後世の記録「古事新来之覚書」(1740年)には、久保宿の住人が高力の配下と争って袋叩きにし、怒った清長のもとで久保宿が逃散したという話が伝わります。
市宿町に有利な立場の記録という限界はありますが、新しい領主と住民のあいだに摩擦があったことをうかがわせます。

「仏」と呼ばれた統治にも、対立と裁定がありました。
荒れた土地を立て直す仕事は、そもそも摩擦なしには進みません。


逸話と、高力家のその後

清長には、お金にまつわる有名な逸話が二つあります。
浦和の預け地1万石の年貢に一切手をつけず江戸へ運ばせたという話と、軍船を造るために預かった資金のうち金20枚が余ったので家康に返そうとしたという話です。

どちらも公私の区別を厳しく守る人物像を示します。
しかし三本の調査報告は、いずれも原典を確認できませんでした。
江戸時代の書物に載るもので、当時の会計記録による裏づけはありません。
一方で、浦和1万石を預かったことと、名護屋城で軍船の建造を担当したことは、複数の資料が一致して伝えています。
土台は事実で、その上に載った美談だけが確かめられないのです。

慶長4年(1599年)、跡取りだった嫡子の正長が父より先に亡くなります。
清長は関ヶ原の戦いののちに隠居し、孫の忠房に家督を譲りました。
継承の時点については、1599年、1600年、1608年と資料によって説が分かれます。

忠房は岩槻藩の2代目となり、のちに遠江浜松藩へ移ります。
そして寛永年間、島原の乱の直後に肥前島原4万石へ移され、荒れた農村の復興にあたりました。
祖父が武蔵の城下町を立て直し、孫が肥前の農村を立て直したことになります。


まとめ:伝説と史料をどう分けるか

伝説の層は、「仏高力」の俗謡、一向一揆後の仏像・経典の保護、制度としての三河三奉行、豊臣姓の下賜、預け地の年貢の話、軍船の残金の話です。
すべて江戸時代の書物に由来し、同時代の裏づけがありません。

史料で確認できる層は、天正18年の鎌倉の寺社をめぐる書状、慶長6年の市掟、粕壁新宿へ旧住民を集めるよう命じた文書です。これらは清長の名と印で残っています。

興味深いのは、この二つが正反対の人物を描いているわけではないことです。
伝説が語るのは「壊れたものを元に戻す人」でした。
史料が示すのも「壊れたものを元に戻す仕事」です。
散った住民を呼び戻し、止まった市を再開させ、宿場に人を集める。

違いは、そこに「慈悲」という色がついているかどうかだけでしょう。
史料の清長は、やさしさを言葉にしません。
ただ、税を免じ、人を戻し、売り買いの場所を決めているだけです。

歴史を学ぶとき大切なのは、どこまでが確かめられて、どこからが後の時代に付け加えられたのかを見分けることです。
高力清長は、その練習にちょうどよい人物だといえるかもしれません。


参考文献

  • 「高力清長書状案」天正18年7月26日比定(神奈川県立公文書館所蔵 帰源院文書)
  • 「粕壁新宿取立の文書」高力清長発給(関根家文書、『越谷市史』所載)
  • 「定掟之事」高力清長市掟、慶長6年11月1日(勝田家文書/さいたま市指定文化財。『新編武蔵風土記稿』所載本を『越谷市史』が転載)
  • 江戸幕府編『寛政重修諸家譜』(1812年)/『徳川実紀』『東照宮御実紀附録』巻十八「岡崎の三奉行」
  • 新井白石『藩翰譜』(1702年)/諏訪頼永『藩鑑』(国立公文書館所蔵)/『寒松稿』/「古事新来之覚書」(1740年)/『新編武蔵風土記稿』
  • 梯弘人「帰源院文書からみた鎌倉の寺社に残された秀吉朱印状の意義」(2025年)
  • 本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)/宮本義己「三河三奉行の実像に迫る」(『歴史読本』52巻3号、2007年)
  • 煎本増夫「高力清長」(『改訂新版 世界大百科事典』)/『日本人名大辞典+Plus』
  • 『越谷市史』/『新編埼玉県史』/さいたま市「岩槻城跡を探る」「慶長六年霜月一日『高力清長市掟』を読む」/島原市「ふるさと再発見『第3代島原城主 高力忠房』」(2021年)
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