はじめに
戦国時代というと、派手な合戦で活躍した武将ばかりが注目されがちです。
しかし、目立たない実務をこなしながら、天下人が変わるたびに生き残った武将もいます。
それが長谷川秀一(はせがわ ひでかず)です。
織田信長の小姓として仕え始め、徳川家康の命を救う場面にも立ち会いながら、その2年後には味方であるはずの家康の書状によって「戦死した」と誤って記録されてしまいます。
それでも生き延び、最後は10万石を超える大名にまで出世しました。
この記事では、そんな長谷川秀一の生涯を、史実に基づいてわかりやすく紹介します。
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1. 長谷川秀一はどんな人物か
長谷川秀一は、尾張国(現在の愛知県一宮市周辺)の生まれとされる武将です。
父は織田家の家臣・長谷川与次で、幼いころは「竹」と呼ばれ、若くして織田信長の小姓になりました。
生年ははっきりわかっていません。
インターネット上には「1562年生まれ」という記述もありますが、これは後で説明する没年からの逆算にすぎず、確実な証拠があるわけではないため、この記事では「生年不詳」として扱います。
秀一の名前が史料に初めて登場するのは、天正3年(1575年)のことです。
伊勢長島城の復旧工事のために、人夫の宿を手配したという記録が残っています。
合戦の武功ではなく、地味な後方支援の仕事から歴史に登場するところが、後の彼の生き方をよく表しています。
2. 信長の側近として――検使・代官・宗論警固
天正6年(1578年)、秀一は播磨の神吉城攻めで「検使」という役目を務めました。
検使とは、主君の代わりに戦場へ派遣され、戦いの様子や兵の働きを見届ける役割です。
複数の側近が交代で担当しており、秀一もその一人でした。
翌年には、安土で行われた「安土宗論」という宗教論争の警固も担当します。
これは浄土宗と法華宗が争った論争で、負けた法華宗側が謝罪の文書を提出した際、その受け取り役の一人が秀一でした。
さらに天正9年(1581年)には、近江国の代官に任命され、恐喝事件を起こした一味を捕らえて処罰した記録も残っています。
武力だけでなく、地域の統治や裁判にも関わっていたことがわかります。
3. 家康の命を救った「伊賀越え」
天正10年(1582年)、秀一の人生は大きく動きます。
徳川家康が安土城を訪れた際、秀一は接待役の一人に選ばれ、その後の京都・大坂・堺の見物にも案内役として同行しました。
ところが、その直後の6月2日、本能寺の変が起こります。
信長の死を知った家康一行は、地理に不案内なまま、大変危険な状況に置かれました。
秀一は自分の人脈を頼りに一行を助け、家康は桑名から船で尾張の熱田へと無事にたどり着きます。
これがいわゆる「神君伊賀越え」です。
なお、道案内の詳しい経路については、江戸時代に書かれた後の資料に基づく部分もあり、どこまでが確実な事実かは今も慎重な検討が必要とされています。
4. 家康の書状で「戦死」させられた男
信長が亡くなったあと、秀一は羽柴秀吉に付き従いました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、兵2,300を率いて参戦したとされます。
ここで興味深い記録が残っています。
この戦いのあと、家康が味方に送った戦勝報告の書状には、討ち取った敵として「長谷川竹(秀一の幼名)」の名前が記されていたのです。
しかし秀一は実際には生きており、味方の撤退を守る役目を果たしていました。
命の恩人を、当の家康自身が誤って「戦死者」として報告してしまったことになります。
これは、戦場では正確な情報がすぐには伝わらないことを示す、印象的な出来事だといえるでしょう。
なお、この時期に秀一が「近江肥田城の城主になった」とする説もありますが、これを確かな事実として採用するかどうかは、資料によって判断が分かれています。
5. 越前東郷の大名へ
天正13年(1585年)、紀州征伐での功績もあり、秀一は越前国東郷(現在の福井県福井市)の領主に取り立てられました。
信長の小姓だった人物が、ついに自分の領地を持つ大名になったのです。
この東郷領の石高については、資料によって10万石、11万石、15万石と数字が異なっており、現時点でどれが正しいかは決まっていません。
その後、秀一は朝廷から従四位下・侍従という位を受け、秀吉から「羽柴」の名字を与えられて「羽柴東郷侍従」と呼ばれるようになりました。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加しています。
6. 最期をめぐる2つの説
文禄元年(1592年)から始まった文禄の役では、秀一は朝鮮へ渡り、晋州城の攻略戦などに参加しました。
率いた兵の数は「5,000」とされることが多いのですが、この数字は江戸時代の軍記物に見られるだけで、確実な証拠は今のところ見つかっていません。
秀一が亡くなった時期についても、意見が分かれています。
多くの辞典や地方の歴史資料は「文禄3年(1594年)2月に朝鮮で亡くなった」としていますが、研究者の黒田基樹氏は「文禄2年(1593年)5月14日、32歳で亡くなった」と推定しています。
どちらが正しいかは、今のところ確定していません。
また、秀一の死後に家がどうなったかについても、従来は「跡継ぎがおらず断絶した」とされてきました。
しかし近年の研究では、実の子とみられる人物や、弟による一時的な家督継承の可能性が指摘されており、単純な断絶とは言い切れない部分が残っています。
まとめ
長谷川秀一は、信長の小姓から始まり、検使、代官、外交の案内役、そして大名へと、さまざまな役割をこなしながら生き抜いた武将でした。
信長という主君を失っても、実務の力で新しい政権に生き残った点は、現代の私たちにも通じるところがあるかもしれません。
生年も没年も、石高さえもはっきりしない部分を多く残しながら、それでも確かな足跡を歴史に刻んだ人物として、覚えておきたい存在です。
参考文献
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus「長谷川秀一」項目(講談社、コトバンク)
- 『福井県史』通史編3 近世一「長谷川氏領の消滅」(福井県文書館)
- 『福井県史年表』1581年~1600年(福井県立図書館・文書館)
- 河合敦「小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由」(WEB歴史街道)
- 長久手市「長久手古戦場物語」(長久手市公式サイト)
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(KADOKAWA)
- 中野等「『対馬』からみた文禄の役」(九州大学機関リポジトリ)

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