金森長近 | 信長・秀吉・家康に仕え、飛騨高山を遺した戦国武将

目次

はじめに

「義理を守って散った武将」よりも「時代を読んで生き残った武将」のほうが、実は多くのものを後世に遺せることがあります。
飛騨高山の古い町並み、美濃市の「うだつの上がる町並み」──これらを作った人物が、戦国から江戸初期に活躍した金森長近(かなもり ながちか)です。
本記事では、金森長近の生涯と功績をわかりやすく解説します。


👇金森長近についてはこちらもどうぞ!

金森長近ってどんな人?

金森長近は1524年(大永4年)、現在の岐阜県多治見市に生まれました。
父の代に近江国(現在の滋賀県)へ移住し、「金森」という地名から金森氏を名乗るようになりました。

18歳で尾張の織田信秀に仕官し、のちに信長の直属精鋭部隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」に選ばれます。
赤い飾りを背負った信長の親衛隊で、武勇に優れた者だけが選ばれる特別な部隊でした。

長近の最大の特徴は、「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」という三人の天下人すべてに仕え、それぞれの政権で重用され続けたことです。
84〜85歳で亡くなるまでの長い生涯で、越前大野・飛騨高山・美濃上有知と、三つの城下町を作り上げました。


越前大野でのまちづくり

1575年(天正3年)、長近は越前の一向一揆鎮圧に功績を挙げ、越前国大野郡の3分の2を信長から拝領します。

長近はすぐに亀山(標高約249m)に城(越前大野城)を築き、山の東側に計画的な城下町を整備しました。
この城下町の設計はとても合理的なものでした。

  • 碁盤目状の道路:東西・南北各6筋の道路で街区を整然と区画
  • 上水道:道路の中央に用水路を引いて生活・防火用水を確保
  • 寺町:城下の東・北・南端に寺院を集め、外敵を防ぐ防衛ライン

この城下町は現在も「北陸の小京都」と呼ばれ、当時の骨格が今に引き継がれています。

また長近は天正3年12月26日付で鍛冶職人の組合に「安堵状」を発給し、職人を城下に集住させました。
中世の「座」(業者組合)を廃して職人を城下で管理する、近世的な都市政策の先駆けです。


主君が変わっても生き残った理由

1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が横死します。
長近の嫡男・長則も信長の嫡男に近侍していて同日討死しました。

清洲会議後、長近は柴田勝家側に立ちますが、1583年の賤ヶ岳の戦いで形勢不利を悟り、前田利家らとともに撤退して豊臣秀吉に降伏しました。

これは「裏切り」ではなく「現実の見極め」でした。
長近の生き残りの本質は、時代の変わり目を素早く判断し、そのたびに確かな功績を残せたことにあります。
秀吉のもとでも、家康のもとでも、長近は「役に立てる人物」であり続けました。


飛騨高山を作った城主

1585年(天正13年)、秀吉の命令で飛騨の姉小路(三木)氏を平定した長近は、翌1586年に飛騨一国3万8700石の国主として飛騨に入府します。

最初は鍋山城を拠点としましたが、城下町の発展に不向きと判断し、1588年(天正16年)から天神山に高山城の築城を開始。
慶長5年(1600年)に本丸・二の丸が完成しました。

高山城下の設計で特筆すべきは、町人地の広さです。

  • 全国平均:武家地7割・町人地3割
  • 高山城下:町人地が武家地の1.2倍

商業を城下の中心に据えた、当時としては革新的な発想です。
越前大野や近江など各地から商人を招き、東西南北の街道を城下に引き込んで飛騨の政治・経済の中心としました。
現在、この旧市街の一部は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


鉱山開発で財政を強化

飛騨は表高(石高)こそ3万8700石でしたが、山林と鉱山の資源が豊富でした。
長近は越前の商人・糸屋彦次郎(後の茂住宗貞)を鉱山奉行に抜擢し、和佐保銀山・茂住銀山(現・飛騨市神岡町)などを開発させます。

この鉱山収益のおかげで、関ヶ原の戦いでは3万8千石の大名でありながら「6万石並み」の約1100人を動員できたといわれています。
なお、この茂住銀山は現在、ノーベル賞を受賞した「スーパーカミオカンデ」が置かれた神岡鉱山の前身です。


宗教との向き合い方

長近は一向宗(浄土真宗)への対応を、地域の状況によって変えました。

越前大野では、加賀の一向一揆の影響が強かったため、門徒に強制転宗を命じるなど厳しい統制を行いました。
一方、飛騨では武力だけでは統治が難しいと判断し、白川郷にあった照蓮寺を城下に移転させ、寺側と起請文を交わして協力関係を築きました。
城と向かい合わせに真宗の拠点を置くことで、農民の心を安定させながら城下の防衛にも役立てたのです。

この照蓮寺は現在「高山別院」として地域に親しまれています。


関ヶ原で77歳で参戦

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、長近は養子の可重とともに徳川家康の東軍に与しました。
76〜77歳という高齢でありながら自ら約1100人を率いて本戦に参加し、石田三成勢と戦いました。

戦後、家康から飛騨本領の安堵に加え、美濃国上有知2万石と河内国金田3000石を加増され、合計約6万1700石の大名となりました。


最後の城下町・美濃上有知

隠居地として選んだ美濃上有知(現・岐阜県美濃市)でも、長近は城下町づくりに取り組みます。
慶長6年(1601年)より長良川沿いに小倉山城を築き、「目の字通り」と呼ばれる整然とした城下町を設計。
長良川に「上有知湊」を開いて美濃和紙の流通を支える水運の拠点としました。

この城下町は後世、富を得た商家が防火壁「うだつ」を競って設けるようになり、現在の「うだつの上がる町並み」の原型となりました。
1999年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

1608年(慶長13年)8月12日、長近は京都伏見の別邸で死去。84〜85歳の生涯でした。


金森長近の遺したもの

金森長近が残したものを整理すると、次の三点になります。

① 三つの城下町
越前大野・飛騨高山・美濃上有知。いずれも現代まで受け継がれる町並みです。

② 時代を読む眼と実務能力の組み合わせ
三人の天下人に仕えながら、それぞれの時代で「必要とされる人物」であり続けました。

③ 茶の湯を通じた文化の継承
千利休に師事した長近の茶の精神は、孫の金森宗和へと受け継がれ、「宗和流茶道」として花開きました。

「うだつが上がらない」という日本語のことわざの語源ともなった「うだつの上がる町並み」──その礎を作ったのが、戦国時代を巧みに生き抜いた武将・金森長近でした。


参考文献

  • 門井直哉「大野の城下町プランと町名について」(福井大学地域環境研究教育センター研究紀要、2007年)
  • 高山市『高山市歴史的風致維持向上計画 第2章』
  • 越前大野城公式サイト
  • 飛騨高山観光コンベンション協会「飛騨高山の基礎を築いた金森長近公」(2024年)
  • 高山市「金森長近~生誕500年~ゆかりの地を紹介します」(飛騨高山まちの博物館、2024年)
  • ADEAC飛騨高山デジタルアーカイブ「飛騨の鉱山発見者 茂住宗貞」
  • 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所「金森長近の美濃市城下町」(2020年)
  • Wikipedia日本語版「金森長近」
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