遠藤慶隆 | 領地を2度奪われても、2度取り返した男

目次

はじめに

戦国時代、一度領地を没収された武将は、そのまま歴史の表舞台から消えていくことが少なくありません。

しかし美濃国郡上(現在の岐阜県郡上市)を治めた遠藤慶隆は違いました。
13歳で家督を継ぎ、同族との内紛、織田信長への疑い、豊臣秀吉による改易と、次々に危機を経験しながらも、最後は関ヶ原の戦いを機に自らの手で旧領を取り戻しています。

この記事では、遠藤慶隆という一人の武将の生涯を、史実に基づいてわかりやすく紹介します。

13歳での家督相続

遠藤慶隆は1550年、美濃国の木越城で生まれました。
父・遠藤盛数は、郡上の実権を握っていた東家を攻め滅ぼし、八幡城を築いた人物です。

1562年、父が戦死すると、慶隆はわずか13歳で家督を継ぎます。
しかし混乱はすぐに訪れました。
従兄弟の遠藤胤俊が城を奪い、慶隆兄弟の暗殺まで企てたのです。
慶隆は家臣に救われて逃れ、後見人の援軍を得て翌年に和睦し、なんとか城主の座を取り戻しました。

少年当主にとって、これは強烈な洗礼でした。
以後、慶隆は有力者の娘を次々に正室・継室に迎え、複数の家との縁を結ぶことで自分の立場を守ろうとします。

織田信長のもとでの苦しい前線

斎藤氏が滅びると、慶隆は織田信長に従います。
1570年の姉川の戦いでは信長から感状を受けましたが、同じ年の志賀の陣では浅井・朝倉軍に敗れ、従兄弟を失い、兵の大半を失う大敗を喫しました。

さらに1572年、遠藤氏は武田信玄・朝倉義景・本願寺などの反織田勢力と連携していました。
翌年信玄が急死すると、信長は武田方に通じた遠藤氏への懲罰として出兵します。
遠藤氏は降伏して再び織田方に従いました。

巨大な勢力にはさまれた小さな領主が生き延びるための、綱渡りの外交だったといえます。

秀吉による突然の改易

本能寺の変のあと、慶隆は織田信孝に従い続けました。
1583年の立花山の戦いでは、秀吉方の大軍に包囲されて兵糧が尽きるほどの窮地に陥り、最終的に降伏しています。

そして1588年、突然の改易が慶隆を襲いました。
理由は「立花山の戦いなどで秀吉に反抗した経歴」によるものとされています。この結果、郡上の領地2万石余りがまるごと没収され、慶隆は7,500石にまで減らされてしまいました。
家臣の3分の1が離散し、代わりの領地もすぐには与えられず、慶隆は困窮した生活を送ったといいます。

なお、一部の資料には「秀吉に仕えながら、裏で織田信雄と通じていたことが発覚したため」という説もありますが、これを直接裏づける資料は見つかっていません。
しかも慶隆は翌年の戦いで秀吉方として戦っており、この説とはつじつまが合いません。
そのため、この記事では「立花山の戦いによる処罰」を採用しています。

関ヶ原の戦いと旧領奪還

領地を大きく減らされてもなお、慶隆は軍役を果たし続けました。
1590年の小田原征伐や、1592年の朝鮮出兵にも兵を送り、軍功を積み重ねています。

そして1600年、石田三成が挙兵すると、美濃の多くの大名が西軍に加わるなか、慶隆はいち早く東軍(徳川方)につくことを決断しました。
旧領を取り戻したいという強い思いがあったとされています。

家康から旧領の回復を約束された慶隆は、娘婿の金森可重とともに八幡城を攻撃。
一度は和議が成立したものの、帰還した敵将に夜襲を受けて多くの家臣を失いながらも、なんとか持ちこたえました。さらに西軍についていた同族を降伏させ、家康のもとに戦況を報告しています。

東軍が勝利すると、慶隆は加増を受けて2万7000石の領主となり、12年ぶりに郡上への復帰を果たしました。

郡上藩主としての晩年

藩主となった慶隆は、郡上城の改修や城下町の整備に力を注ぎます。
また、江戸城や名古屋城など、幕府が命じた大規模な工事にも継続的に協力し、新しい政権への忠誠を示し続けました。

1614年の大坂冬の陣には65歳という高齢で出陣しましたが、跡継ぎの息子が陣中で病気になり、翌年28歳の若さで亡くなるという悲劇に見舞われます。
それでも慶隆は同じ年の夏の陣に出陣し、大きな戦功をあげました。

跡継ぎを失った慶隆は、孫にあたる人物を養子に迎え、家の存続を確かなものにします。
そして1632年、83歳でその生涯を閉じました。

まとめ

遠藤慶隆の生涯は、劇的な下克上でも華々しい天下取りでもありません。
13歳での家督相続、同族との争い、織田政権下での苦しい前線、秀吉による突然の改易、そして関ヶ原という好機を逃さない決断力。
一つひとつは地味な出来事の積み重ねですが、その先に慶隆は郡上藩の初代藩主として83年の生涯をまっとうしました。

何度も領地を奪われながら、最後まで諦めずに自分の手で状況を切り開いた一人の武将の記録として、遠藤慶隆の生涯には今も学ぶところが多いのではないでしょうか。

参考文献

  • 「遠藤慶隆」Wikipedia日本語版
  • 「八幡城の合戦」Wikipedia日本語版
  • chibasi.net「郡上藩主遠藤家 〜古今伝授を伝える家〜」
  • 『美並村史』通史編上巻(美並村、1981年)
  • 郡上市公式サイト 歴史紹介ページ
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