はじめに
「真田より活躍したのに、真田ほど知られていない武将」がいることを知っていますか。
その名は毛利勝永。
大坂夏の陣で徳川家康を本陣まで追い詰めながら、教科書にはほとんど登場しません。
しかも調べていくと、「勝永」という名前自体、本人が名乗っていたかどうかも定かではないことがわかります。
この記事では、毛利勝永という武将の生涯を、確認できる事実と、まだ確認できていない伝承とに分けながら、わかりやすく紹介します。
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毛利勝永ってどんな人?
毛利勝永は、戦国時代から江戸時代初めにかけて活躍した武将です。
豊臣秀吉の家臣だった父・毛利勝信(森吉成)の子として生まれ、豊臣家に仕えました。
関ヶ原の戦いでは西軍について領地を失い、その後は土佐(今の高知県)で10年以上を過ごします。
そして最後は、大坂の陣で豊臣方の主力武将として戦い、大坂城で最期を迎えました。
大坂の陣といえば真田信繁(幸村)の名前が真っ先に挙がります。
しかし実際の戦いぶりを史料でたどると、勝永も信繁に劣らない、あるいはそれ以上ともいえる戦果を挙げていたことがわかってきます。
それにもかかわらず、なぜ勝永の名前はここまで知られていないのでしょうか。
その理由は、名前そのものの成り立ちにも関係しています。
本当の名前は「勝永」ではなかった?
驚くことに、本人が書いた文書に残る署名は「勝永」ではなく「吉政」です。
「毛利勝永」という名前は、江戸時代に広まった軍記物という読み物を通じて定着した、後世の呼び名である可能性が高いとされています。
ただし、この点は資料によって断定の強さが異なり、はっきり決着しているわけではありません。
この記事では、確実な署名として残る「吉政」を基本にしながら、広く知られている「勝永」も合わせて使います。
血のつながりのない「毛利」という名字
「毛利」と聞くと、中国地方の大大名・毛利元就の一族を思い浮かべる人が多いはずです。
しかし勝永の家は、もともと尾張(今の愛知県)出身の「森」氏で、毛利元就の一族とは血のつながりがありません。
1587年、父・吉成が豊前国(今の福岡県東部)で6万石の領地をもらった際、豊臣秀吉の命令で「森」から「毛利」に名字を変えたとされています。
関ヶ原の戦いで勝ったのに、負けた
1600年の関ヶ原の戦いで、勝永は父とともに西軍につきました。
伏見城を攻めた戦いでは大きな戦功を挙げ、ほうびとして領地を増やしてもらったとも伝わります。
ところが、関ヶ原の本戦では目立った活躍の場がないまま、西軍全体が敗れてしまいました。
目の前の戦いには勝っても、全体の勝負には負ける。
この構図は、のちの大坂の陣でもう一度くり返されることになります。
西軍の敗北によって、勝永たちは領地をすべて没収されてしまいました。
これを「改易」といいます。
大名としての地位も収入も、一瞬で失ってしまう厳しい処分です。
この時点で、毛利家は大名として終わったかのように見えました。
土佐での十数年
領地を失った勝永は、まず加藤清正に、その後は土佐藩の山内家に預けられました。
山内家とは以前からの知り合いだったとされ、手厚く扱われたと伝わります。
勝永は高知城の近くの村で静かに暮らし、1610年には妻を亡くして出家しました。
翌年には父も亡くなり、大名としての人生はここで終わったかに見えました。
大坂城への命がけの帰参
流れが変わったのは1614年です。
豊臣秀頼から呼びかけを受けた勝永は、土佐からの脱出を決意します。
見張り役をだまして許可を取り、息子とともに船で大坂城へ向かいました。
この決断は、土佐に残された家族に大きな危険をもたらした可能性があります。
大坂城では、豊臣家に長く仕えてきた家柄であることから他の武将たちの信頼を集め、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親、明石全登とともに「大坂五人衆」と呼ばれる主力武将の一人になりました。
多くの大名が味方につかない中、豊臣方は主に主君を持たない武士(牢人)をかき集めて軍を編成しており、勝永はその中心となる指揮官の一人だったのです。
天王寺の戦いで家康を追い詰める
その前日の5月6日、道明寺の戦いでは味方の後藤基次らが討死する厳しい展開になりました。
勝永はここで無理をせず、部隊をまとめて大坂城へ整然と引き上げさせています。
そして翌5月7日、天王寺の戦いで勝永は真田信繁とともに最前線に立ちました。
徳川方の先鋒・本多忠朝隊を鉄砲と突撃で打ち破り、忠朝を討ち取ります。
さらに応援に駆けつけた小笠原秀政・忠脩父子の部隊など、複数の部隊も次々に打ち崩し、家康の本陣近くまで迫ったと記録されています。
当時の様子を伝える記録には、家康が自害を覚悟したとも読み取れる証言が残っているとされます。
もっとも真田隊が敗れると戦況は崩れ、勝永も城内へ退くことになりました。
最期と、後世の評価
翌5月8日、大坂城は落城し、豊臣秀頼は自害しました。
勝永も息子や弟とともに、城内で自ら命を絶ったと伝わります。
享年は37とも39ともいわれ、正確な生年がわかっていないため確定していません。
「勝永が秀頼の介錯をした」という話も広まっていますが、これは確かな記録ではなく、あくまで一つの説にとどまります。
江戸時代の随筆には、勝永の活躍が真田信繁に劣らないのに、後世にはあまり語られなかったことを惜しむ内容が残されているとされています。
近年は研究や大河ドラマをきっかけに、少しずつ知られるようになってきました。
まとめ
毛利勝永は、目の前の戦いでは勝ち続けながら、全体の勝負には勝てなかった武将でした。
本名も、家系も、最期の詳しい様子も、実ははっきりしないことだらけです。
それでも、天王寺の戦いで徳川家康を追い詰めたという事実だけは、複数の記録が伝えています。
教科書には載らなくても、確かに歴史の転換点に立っていた人物だといえるでしょう。
参考文献
- 「【市指定】豊臣秀次朱印書状 1通」北九州市
- 「毛利勝永」「天王寺・岡山の戦い」「大坂五人衆」ウィキペディア日本語版
- 今福匡『真田より活躍した男 毛利勝永』(宮帯出版社、2016年)
- 神沢杜口(貞幹)『翁草』(国文学研究資料館 国書データベース)
- 高知県立歴史民俗資料館「歴史万華鏡コラム」(高知市)
- 岐阜市歴史博物館 館蔵品図録

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