松平家忠 | 家康を支え、『日記』に戦国の日常を残した男

目次

はじめに

城を修理し、戦場へ向かい、連歌や茶の湯にも親しむ。
松平家忠の『家忠日記』には、そんな戦国武士の日々が記されています。

家忠は徳川家康の一族で、三河の深溝松平家を継いだ武将です。
関ヶ原の戦いを前に伏見城で戦死しましたが、今日、その名を伝えているのは戦歴だけではありません。
日記には、家康の呼び方の変化から、初鰹の振る舞い、人魚の絵まで、思わず目を留めたくなる話題が残っています。

まずはその生涯をたどり、続いて日記のページをのぞいてみましょう。

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note(ノート)
松平家忠| 戦い、城を造り、日々を記した男|hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 はじめに 主君の名を、日記には「家康」と書く。 やがて「家康様」「殿様」という呼び方が増えていく。 松平家忠の『家忠日記』には、そんな小さな言葉の変化が残っていま...

長篠の戦いで父を失い、家を継ぐ

松平家忠は1555年に生まれました。
本領は三河国深溝、現在の愛知県幸田町です。
深溝松平家は家康と同じ松平氏の一族で、家忠はその第4代当主にあたります。

家を継ぐきっかけとなったのは、1575年の長篠の戦いでした。
父の松平伊忠が戦死し、その後を家忠が継ぎます。
家忠自身も長篠をはじめとする合戦に参加し、家康に仕えました。

「松平」という姓が示すように、家忠は家康の一門に連なる人物です。
同時に、主君の命令に応じて出陣し、城の整備にも携わる家臣でした。
その働きぶりは、華々しい合戦だけを追っていては捉えきれません。

城普請と刈田――武将が担った仕事

家忠の経歴には、岡崎や浜松などで城普請に従事したことが挙げられます。
普請とは、城を築いたり、修理したりする仕事です。

合戦に加わる一方で、城を整える役目も果たす。
家忠は、戦う場所を支える仕事にも関わっていました。

戦場での行動には、現代の読者にはなじみの薄いものもあります。
その一つが「刈田」です。
敵地の田畑の作物を刈り取る行為を指します。

国立公文書館の展示解説によると、天正6年(1578)8月22日と26日、家忠は田中城攻めに際して刈田に赴きました。
田中城は、現在の静岡県藤枝市にあった武田方の城です。

城をめぐる戦いは、城壁の内側だけで終わるものではありませんでした。
周囲の田畑や収穫物も軍事行動の対象となります。
城普請と刈田を並べると、戦国武将の仕事には、建物を整える役目と、敵地の生産を脅かす行動の両方があったことがわかります。

三河から忍、上代、小見川へ

1590年、家康の関東移封に伴い、家忠も三河を離れて武蔵国の忍へ移りました。
忍は現在の埼玉県行田市です。

その後、1592年には下総国の上代へ、1594年には小見川へと拠点を移します。
現在の地名では、上代は千葉県旭市、小見川は千葉県香取市にあたります。

深溝、忍、上代、小見川。家忠の生涯をたどると、家康の勢力の広がりとともに、活動の舞台が東へ移っていきます。

現存する『家忠日記』の記録は、1577年10月から1594年9月頃までです。
三河にいた時期に加え、関東へ移ってからの年月も含まれています。
一人の武将の日記を通して、徳川氏の移封を家臣の側から追えるところにも、この記録の特色があります。

『家忠日記』に残る食事と文芸

日記の話題は、出陣や普請ばかりではありません。
家族や親類、贈り物、人の集まり、法事や寺詣など、身近な出来事も数多く登場します。

西尾市岩瀬文庫の解題が紹介する天正12年(1584)2月2日条には、連歌師の長尊から『伊勢物語』を聞いたという記事があります。
軍事の務めを担う家忠は、古典の物語にも接していたのです。

食べ物の話もあります。天正15年(1587)4月4日条には、御城で初鰹の振る舞いがあったことが記されています。
合戦名や移封の年が並ぶ経歴の中に、こうした季節の一品が加わると、家忠の過ごした一日がぐっと身近になります。

さらに目を引くのが、余白に描かれた絵です。
岩瀬文庫の解題は、1581年4月の人魚、1584年4月の猿蟹合戦などを紹介しています。
武将の自筆日記に、おとぎ話でおなじみの題材まで現れるのは意外ではないでしょうか。

文芸、食事、絵。『家忠日記』には、戦国の人々が暮らした世界への、いくつもの入り口があります。

「家康」が「家康様」になる

日記には、家忠と家康の関係を考えるうえでも興味深い変化があります。

家康の呼び方です。

初めは「家康」と記すことが多かったのに対し、小牧・長久手の戦い以降、1585~1586年にかけては、「家康様」「殿様」といった敬称を使う傾向が強まります。

歴史研究者の久保田昌希氏は、この変化を家康の地位上昇と結びつけて説明しています。
一族の人物であり主君でもある家康が、政治的に大きな存在になっていく。
その変化が、日記の短い呼び方にも表れているという見方です。

ただし、1586年7月19日にも「家康」と記した例は残っています。
呼び捨てと敬称が入り交じる時期を経て、呼び方の傾向が変わっていったのでした。

伏見城での最期と、受け継がれた日記

家忠は1599年から伏見城の守備にあたり、1600年、西軍の攻撃を受けて戦死しました。
鳥居元忠らとともに城を守った最期でした。

現在残る自筆日記は1594年までのものです。
伏見城での戦いはそこには記されていませんが、家忠が書き留めた日々は、その死後も子孫へ受け継がれました。

孫の忠房の時代には日記が整理され、忠房自身が跋文、つまり後書きを添えています。
また、忠冬によって『家忠日記増補追加』が編まれました。
本人の日記に、後世の人々が歴史を伝える仕事を重ねていったのです。

1897年には坪井九馬三・日下寛の校訂による刊本が出されました。
現在、自筆日記7冊は駒澤大学に所蔵され、2020年9月30日には重要文化財に指定されています。

家忠は天下を取った武将ではありません。
それでも、彼の日記を開くと、家康の歩みを支えた家臣の仕事も、物語を聞き、初鰹の振る舞いを記す日々も、一人の人物の営みとしてつながります。
『家忠日記』が伝える戦国時代は、合戦の続く時代であると同時に、人々の暮らしが続いていた時代でもあるのです。


参考文献

  • 吉田信也「松平家忠と『家忠日記』 歴史を継承するということ」『広報しまばら』平成25年8月号。島原市ウェブ掲載。
  • 文化庁「松平家忠日記」文化遺産データベース。
  • 国立公文書館「31.家忠日記」デジタル展示「歴史と物語」。
  • 岩沢愿彦「家忠日記の原本について」『東京大学史料編纂所報』第2号、1967年、1–23頁。参照1–3頁。
  • 西尾市岩瀬文庫「家忠日記」古典籍書誌データベース、資料番号112-76。目録・解題を参照。
  • 駒澤大学「第4区 久保田昌希先生『文書や日記から「戦国時代」を探る』」『駒大PLUS』、2016年11月4日。
  • 駒澤大学「駒澤大学図書館所蔵『松平家忠日記』が国の重要文化財に指定」大学プレスセンター、2020年3月29日。人物略歴を参照。
  • 東京大学史料編纂所「大日本史料総合データベース」、松平家忠関連綱文。
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