堀尾吉晴 | 国宝・松江城を建てた実務武将の生涯

目次

はじめに

堀尾吉晴は、戦国時代から江戸時代初めにかけて活躍した武将です。

豊臣秀吉に仕え、後に徳川家康の時代を生き抜きました。
通称は茂助で、温厚な性格から「仏の茂助」と呼ばれたとされます。
一方で、戦場では勇敢だったため「鬼の茂助」とも語られました。

しかし、堀尾吉晴の本当の魅力は、戦の強さだけではありません。

彼は城を作り、領地を整え、町の仕組みを作った人物です。
浜松城を石垣の城へ変え、最後には松江城と城下町の建設に関わりました。

この記事では、堀尾吉晴の生涯をわかりやすく整理します。

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堀尾吉晴の出身

堀尾吉晴は、1543年に尾張国丹羽郡御供所村、現在の愛知県大口町付近で生まれたとされます。
父は堀尾泰晴です。

堀尾家は、尾張の岩倉織田氏に仕えた家でした。
しかし岩倉織田氏は織田信長に敗れ、吉晴は主家を失います。
その後、吉晴は信長に仕え、やがて木下藤吉郎、後の豊臣秀吉の配下として働くようになりました。

吉晴には、岩倉城の戦いで初陣を飾り、一番首を取ったという伝承があります。
ただし、このような初陣の細かい話は後世の家譜に基づく部分があるため、史実としては慎重に見る必要があります。

それでも、吉晴が尾張の在地武士から出発し、秀吉の出世とともに自分の地位を上げていった人物であることは確かです。

秀吉のもとで出世する

吉晴は、秀吉のもとで着実に出世しました。

本能寺の変の前後には、丹波氷上郡で6,000石余を得たとされます。
1585年には近江佐和山4万石となり、1590年には遠江浜松12万石へ移りました。

佐和山は、交通や軍事の面で重要な場所でした。
浜松は、徳川家康が関東へ移された後の旧領を押さえる重要拠点です。
どちらも、ただの地方の城ではありません。

吉晴がこうした場所を任されたのは、戦場で戦えるだけでなく、領地や人を管理できる人物だったからだと考えられます。

たとえば、1589年には三つの村の水利争いを裁いた文書があります。
農業用水は、村の生活に直結する大切な問題です。吉晴は、それぞれの村から担当者を出させ、ルールを守らせる仕組みを作りました。

このような実務能力が、吉晴の大きな強みでした。

浜松城主としての仕事

1590年、小田原征伐の後、吉晴は浜松城主になります。

浜松城は、もともと徳川家康ゆかりの城です。
家康が関東へ移された後、秀吉は東海道を押さえるために、自分に近い大名を配置しました。
吉晴もその一人です。

浜松では、吉晴が城を石垣や瓦葺建物を備えた近世城郭へ改修したと考えられています。
浜松市の発掘調査では、堀尾氏の時代とみられる石垣や瓦が確認されています。

ただし、浜松城の天守については、直接の一次史料が十分ではありません。
出土瓦などから存在が推定されますが、断定には注意が必要です。

また、浜松時代の吉晴は、寺社の竹木伐採を禁じる制札を出したり、塩浜や町屋敷、検地、蔵入地の管理に関わったりしています。

つまり吉晴は、城を作るだけでなく、地域のルールや税の仕組みを整えていました。

豊臣政権末期の調停役

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権は不安定になります。

徳川家康、前田利家、石田三成らの関係は緊張し、政権内の対立が深まっていきました。
この時期、吉晴は調停役として動いたとされます。

吉晴は「三中老」の一人と呼ばれることがあります。
三中老とは、五大老と五奉行の間を調整する役職とされるものです。

しかし、この三中老が本当に公式制度として存在したかは、研究上の問題です。
同時代史料で明確に確認しにくいため、本文では「三中老だった」と断定せず、「調停役として活動した」と表現します。

吉晴が家康と豊臣方の間で調整に動いたことは、複数の資料で示されています。
戦国時代の終わりには、戦う力だけでなく、対立をおさめる力も必要でした。

関ヶ原と池鯉鮒事件

1600年、関ヶ原の戦いが起きます。

この直前、吉晴は三河国池鯉鮒、現在の愛知県知立市付近で事件に巻き込まれました。
酒宴の席で、加賀井重望が水野忠重を殺害し、吉晴にも斬りかかったとされます。

吉晴は加賀井を討ちましたが、自身も重傷を負いました。
このため、関ヶ原本戦には出陣できませんでした。

この事件については、西軍側の密命だったという説もあります。
しかし、確実な根拠が弱いため、未確認として扱うべきです。

関ヶ原では、吉晴の子・堀尾忠氏が東軍として戦いました。
戦後、堀尾家は出雲・隠岐24万石へ移されます。これは大きな加増でした。

吉晴自身は本戦に出られませんでしたが、堀尾家としては徳川方につき、政権交代の時代を生き抜いたのです。

松江城を築いた理由

関ヶ原後、堀尾家は最初、月山富田城に入りました。

月山富田城は、尼子氏以来の名城で、山城として非常に有名です。
しかし、近世の領国経営には不便でした。
山城は守りには強くても、広い城下町を作りにくく、水運や商業の中心にも向きません。

1604年、忠氏が若くして死去します。
家督を継いだ忠晴はまだ6歳でした。
そのため吉晴が後見役として実質的に政治を支えます。

吉晴は、本拠を松江に移すことを進めました。

松江城の築城は1607年に始まり、1611年頃に完成したとされます。
築城地は宍道湖畔の亀田山です。
周囲には低湿地が多く、そのままでは町を作るのが難しい場所でした。

そこで吉晴は、山を削り、堀を掘り、湿地を埋め立てました。
堀は防御のためだけではありません。
排水路であり、物資を運ぶ水路でもありました。

松江城と城下町は、城と町と水運を一体で考えた都市計画でした。

2012年には、松江城天守に関わる祈祷札が再発見され、慶長16年正月に天守創建の祈祷が行われていたことが確認されました。
吉晴は同年6月17日に亡くなったため、天守の主要部分は死去前に完成していた可能性が高いと考えられます。

堀尾吉晴から学べること

堀尾吉晴は、天下人ではありません。

しかし、信長、秀吉、家康の時代を生き抜き、重要な場所を任され続けました。
理由は、戦場で戦う力だけでなく、領地を動かす実務能力があったからです。

水利争いを裁く。
寺社や町を管理する。
城を改修する。
新しい城下町を作る。

こうした仕事は、目立ちにくいものです。
しかし、国や町を続けるには欠かせません。

堀尾家の嫡系は、1633年に断絶しました。
けれど、吉晴が築いた松江の町は残りました。

人の家は途絶えることがあります。

しかし、作った仕組みや町は、その後も長く人々の生活を支えることがあります。

堀尾吉晴は、歴史の中の「実務型武将」として覚えておきたい人物です。

参考文献

  • 松江市史編纂課「第一節 松江藩の成立と堀尾氏」
  • 松江市「史跡松江城の概要」
  • 松江市・安来市・大口町「堀尾吉晴公共同研究会 活動報告書」
  • 浜松市博物館「特別展 浜松城主 堀尾吉晴」
  • 浜松市文化財課「浜松城跡発掘調査関連資料」
  • 刈谷市歴史博物館「Kariya city Museum of History NEWS Vol.05」
  • 『堀尾氏発給文書及び系譜集 慶長五年以前』
  • 福井将介「堀尾吉晴・忠氏父子に関する基礎的考察」

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