はじめに
戦国武将というと、合戦に強い人物を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし戦国時代の初め頃、日本のどの大名よりも豊かで、京都に負けない文化を築いた大名がいました。
周防国(今の山口県)を治めた大内義隆です。
明との貿易と石見銀山の銀によって莫大な富を手に入れ、本拠地の山口には都から公家や文化人が集まりました。
ところがこの義隆、最期は自分の家臣に攻められて自害するという結末を迎えます。
この記事では、大内義隆がどのように栄え、なぜ滅びることになったのかを、史実にもとづいてわかりやすく紹介します。
22歳で6か国の当主になった義隆
大内義隆は1507年、大内家の当主・大内義興の子として山口に生まれました。
1528年、父の死により22歳で家督を継ぎます。このとき義隆は、周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前という6つの国の守護を任されました。
当時の大名としては、かなり広い範囲を治めるところからのスタートです。
大内家では代替わりのたびにお家騒動が起きがちでしたが、義隆のときは大きな混乱がありませんでした。
重臣・陶興房の支えがあったことが大きいとされています。
貿易と銀山が生んだ「日本一の富」
大内家の力の源は、中国の明との貿易でした。
1523年、明の港町・寧波で大内方と細川方の使節が衝突する事件が起こります(寧波の乱)。
これに勝った大内家が、以後の明との貿易をほぼ独占しました。
義隆がいつ貿易船を送ったかは記録によって差がありますが、明から銅銭や絹、書物などを輸入し、大きな利益を得ていたことは共通しています。
ある記録では、明で安く仕入れた生糸が日本で20倍近い値段で売れたとされ、輸入超過の貿易がいかに儲かる仕組みだったかがわかります。
さらに1533年ごろ、博多商人が石見銀山に新しい精錬技術を持ち込んだことで、銀の産出量が急増しました。
大内家はこの銀山を確保し、貿易の主力商品とします。
石高だけでは測れない、実際に使える富という点で、大内家は他の大名を圧倒していました。
京都に憧れた「西の京」山口
応仁の乱で荒れた京都から、多くの公家や文化人が山口に移り住みました。
義隆は彼らを手厚く保護し、和歌や連歌といった文化を奨励します。
京都のような町並みが整えられたことから、山口はいつしか「西の京」と呼ばれるようになりました。
朝鮮から輸入した書物をもとにした出版事業も行われ、地方の城下町でありながら都に劣らない知的な雰囲気を持つ町へと成長していきます。
義隆は朝廷にも多額の寄付を行い、武士でありながら「従二位」という非常に高い位を得ました。
当時、これほどの位を得た武士は珍しい存在です。
大内家は曽祖父の代から4代続けて高い位を授かっており、他の地方大名とは一線を画す家柄だったこともうかがえます。
出雲遠征の大敗と後継者の死
1542年、義隆は自ら大軍を率いて出雲国(今の島根県東部)へ遠征し、尼子氏の月山富田城を攻めます。
一時は味方がおよそ4万5000人にまで膨れ上がり、尼子軍を数で圧倒しました。
しかし城はなかなか落ちず、味方だった出雲の武将たちが次々と敵方へ寝返ってしまいます。
大内軍は総崩れとなり、1543年に撤退を強いられました。
この撤退の途中、義隆が後継ぎとして育てていた養子・大内晴持が、乗っていた船の転覆によって溺死してしまいます。
享年20でした。
跡継ぎを失った義隆の悲しみは深かったと伝えられています。
「文化に溺れた暗君」説は本当か
この大敗と後継者の死をきっかけに、義隆は政治への意欲を失い、和歌や遊興にふける「文弱な大名」になった、という話がよく語られます。
これは江戸時代に書かれた軍記物語がもとになった見方です。
しかし近年の研究では、この見方に疑問が投げかけられています。
義隆は敗戦の翌年に新しい養子を迎え、その後も石見や備後で戦って勝利を収め、大内家が最も広い領土を持ったのは、実はこの敗戦よりもあとのことでした。
「敗戦で心が折れた」と単純には言い切れない、というのが近年の見方です。
家臣団の対立と見過ごされた謀反の兆し
義隆のもとでは、政治を取り仕切る相良武任のような文官(文治派)が重んじられる一方、代々の武将である陶隆房らの武断派は、次第に不満を強めていきました。
武断派の重臣・陶隆房が謀反を企てているという噂は、早い段階から義隆の耳に届いていたとされます。
周囲は隆房を先に討つよう進言しましたが、義隆は長年の信頼から、これを信じようとしませんでした。
大寧寺の変——家臣に討たれた最期
1551年8月、陶隆房はついに兵を挙げます。
義隆のもとに集まった兵はわずかで、まともな抵抗ができないまま山口は制圧されました。
義隆は海路での脱出を試みますが、嵐によって果たせず、長門国の大寧寺に追い詰められます。
そして9月1日、義隆は自ら命を絶ちました。
享年45でした。
翌日には実の子である義尊も殺され、大内家はここに事実上滅亡します。
なお、義隆は亡くなる前年と前々年に、宣教師フランシスコ・ザビエルと会っています。
最初は贈り物がなかったことに機嫌を損ねましたが、2度目には珍しい品々を献上され、山口での布教を許可しました。
ただし、この時の贈り物の詳細や、義隆が激怒したという逸話は、後年に書かれた記録がもとになっており、どこまで正確かは慎重に見る必要があります。
その後の中国地方
大内家の滅亡後、実権を握った陶隆房でしたが、やがて毛利元就と対立するようになります。
1555年の厳島の戦いで元就は隆房を破り、1557年には大内家の名目上の当主だった大内義長も滅ぼしました。
これによって、毛利元就は中国地方西部を治める新たな覇者となります。
また、大内家という後ろ盾を失ったことで明との正式な貿易も途絶え、その後の東アジアの海では非公式な貿易や海賊行為が再び目立つようになっていきました。
まとめ
大内義隆は、貿易と銀山による富、そして京都に並ぶ文化を築いた大名でした。
しかしその最期は、家臣団の対立と、繰り返された謀反の兆しを見過ごし続けた結果として訪れました。
栄華を極めた「西の京」は、外の敵ではなく、内側の家臣によって滅ぼされたのです。
参考文献
- 「大内義隆」ウィキペディア日本語版
- 「大内晴持」ウィキペディア日本語版
- 「大寧寺の変」ウィキペディア日本語版
- 「日明貿易」「大内文化」ウィキペディア日本語版
- 福尾猛市郎『大内義隆』(人物叢書、吉川弘文館、1989年)

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