はじめに
「謙信に仕えた武将」と聞けば、義のために命を捧げた忠臣の姿を想像するかもしれません。
しかし越後北部には、主君の命令を断り、交渉し、時に拒否しながら、それでも最後まで信頼を勝ち取った武将がいました。
色部勝長(いろべかつなが)——越後国人領主集団「揚北衆」の一人として知られるこの人物は、上杉謙信みずから血判を押した誓約書を受け取るほどの信任を得ました。
教科書にはほとんど登場しない名前ですが、その生き方は今の私たちにも多くを語りかけてきます。
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目次
- 色部勝長とはどんな人物か
- 揚北衆とは何か
- 謙信への出陣拒否と「血染めの感状」
- 旗印の相論と佐野城の統治
- 本庄繁長の乱と最期
- 色部勝長が後世に残したもの
- まとめ
- 参考文献
1. 色部勝長とはどんな人物か
色部勝長は戦国時代の越後国(現在の新潟県)に生きた国人領主です。
生年は1493年頃とされる説がありますが、確かな一次資料による裏付けはなく、実際にはもう少し遅く生まれた可能性も指摘されています。
本拠地は越後国岩船郡の平林城(現・新潟県村上市周辺)。
色部氏は平姓秩父氏の一族で、鎌倉時代以来この地の地頭職を持つ名門でした。
勝長は長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の三代にわたって仕えた宿老です。
川中島の合戦や関東遠征など、謙信の数多くの戦いに参加しています。
没年は永禄12年(1569年)1月10日とする説が有力ですが(永禄11年没説もあり未確認)、村上城包囲戦の最前線で命を落としたとされています。
2. 揚北衆とは何か
色部勝長を語る上で、「揚北衆(あがきたしゅう)」という集団を知ることが欠かせません。
揚北衆とは、越後国の阿賀野川以北の地域(揚北)に根を張った国人領主の集まりです。
本庄氏・黒川氏・中条氏・鮎川氏など複数の武家が含まれ、色部氏もその一員でした。
彼らの最大の特徴は、強い独立性を持っていたことです。
鎌倉時代以来、自分たちの土地を代々守ってきたという自負があり、守護や守護代が一方的に支配しようとすれば、積極的に抵抗しました。
上杉謙信の軍勢においても、揚北衆は全兵力の約3割を占める重要な存在でした。
謙信は彼らの伝統的な立場を尊重しながら、信頼関係を築いていったとされています。
3. 謙信への出陣拒否と「血染めの感状」
出陣を断った武将
弘治3年(1557年)、謙信は第三次川中島の戦いへの出陣を勝長に求めます。
ところが勝長は、これを断りました。
理由は明確でした。
相次ぐ動員で兵力は疲弊し、食糧の蓄えも限界に近い——領地と家臣団の現実を優先した判断です。
主君の命令を断るのは、普通に考えれば謀反に近い行為です。
しかし謙信は怒らず、粘り強く交渉を続けました。
勝長は十分な調整が整ったと判断した後で、出陣を決めています。
この出来事は、二人の関係が単純な命令と服従ではなく、一種の信頼と交渉の上に成り立っていたことを示しています。
血染めの感状
永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦いが勃発します。
五度の川中島合戦の中でも最大規模の激戦でした。
勝長はこの戦いで、武田軍の奇襲を受けて壊滅の危機に瀕した柿崎景家の部隊を救出する活躍を見せます。
色部家は多くの家臣と親族を失いました。
戦後、謙信は勝長に「血染めの感状」と呼ばれる感謝状を送ります。
血で汚れているわけではなく、一族郎党が流した血の代償に報いる最高の謝意として、こう呼ばれました。
安田長秀・中条藤資・荒川長実ら揚北衆の仲間たちとともに、勝長はこの感状を受け取った4名の一人です(感状の現存通数については資料により4通・3通と異なる記述があります)。
4. 旗印の相論と佐野城の統治
旗印をめぐる争い
永禄6年(1563年)、勝長は一風変わった訴えを起こしています。
自家の軍旗である「白地に赤丸(日の丸)」のデザインを、同僚の平賀重資が模倣していると知った勝長は、謙信の奉行である河田長親に正式に申し立てを行いました。
このデザインは謙信から直接使用を認められた色部家の特権であり、模倣は家格を傷つけると主張したのです。
審理の結果、勝長の主張が認められ、平賀氏はそのデザインを使用禁止となりました。
規則に従って正当に権利を主張できる人物でもありました。
佐野城将として2年間
永禄7年(1564年)、謙信の関東遠征で下野国佐野城(現・栃木県佐野市周辺)の攻略に貢献した勝長は、謙信からその城の城将に任命されます。
越後の平林城から200キロ以上離れたアウェイの地での統治です。
翌年、北条氏康・氏政父子の大軍が攻め込んできたときも、勝長は現地の佐野昌綱と協力して籠城戦を指揮し、撃退しました。
そして永禄10年(1567年)、勝長が再び佐野方面に赴く直前、謙信は神仏の名を連ね自ら血判を押した誓約書を送ります。
「一生の忠信」——この一文が記された「上杉謙信血判起請文」は、現在も新潟県立歴史博物館に所蔵されています。
5. 本庄繁長の乱と最期
永禄11年(1568年)、揚北衆の有力者・本庄繁長が武田信玄の調略に応じて謙信に反旗を翻しました(本庄繁長の乱)。
繁長は勝長と旧知の間柄で、同盟を求める誘いが届きます。
しかし勝長は断りました。
旧知の情よりも、謙信との長年の信頼関係を選んだのです。
すぐに討伐軍を組んで繁長の居城・村上城の包囲に参加しました。
そして永禄12年(1569年)1月10日(永禄11年没説もあり未確認)、包囲戦の最前線で勝長は命を落とします。
敵の夜襲に遭って討死したとも、陣中で病没したとも伝えられていますが、死因は確定していません。
謙信はその死を深く惜しんだといいます。
勝長の子・顕長が家督を継ぐと、謙信は色部家の序列を本庄氏より上に位置づけることを約束しました。
6. 色部勝長が後世に残したもの
勝長の子・顕長が家督を継いだ後も、色部家は上杉家の重臣として存続します。
会津移封・米沢移封にも従い、米沢藩の家老を務める家格を保ちました。
勝長が生前に築いた謙信との信頼関係——出陣拒否の経緯、血染めの感状、血判起請文——これらの積み重ねが、色部家の格を本庄氏以上に引き上げるという結果に繋がりました。
「主君に言うべきことを言い続けた男」の選択が、家の命運を守ったのです。
7. まとめ
色部勝長という人物は、盲目的に命令に従うのではなく、自分の状況と判断を持ちながら主君と向き合い続けた武将でした。
- 出陣要請を断っても、交渉の末に動く
- 旧知の誘いを断り、信義を守る
- 最前線で命を落としても、その死後に家格が上がる
戦国時代の忠義の形は、「服従」ではなく「自らの判断を持ちながらの協力」だったのかもしれません。
参考文献
- 色部家文書(色部家伝来古文書歴代案文、および『色部史料集』所収)/井上鋭夫(編)・新潟県歴史学会・1968年
- 上杉謙信(輝虎)血判起請文/上杉謙信(差出)・色部勝長(宛)・1567年/新潟県立歴史博物館蔵
- 血染めの感状(Wikipedia日本語版)
- 色部勝長(Wikipedia日本語版)
- 色部修理進勝長──川中島の戦い・主要人物/長野市
- 武家家伝_色部氏/播磨屋
- 新保稔「越後国色部氏一族の在地支配と年中行事」(『国史学』229号・国史学会・2024年)

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