はじめに
「たった3,000人で、2万3,000人の大軍に勝った」——そんな話があったら信じますか?
1590年、豊臣秀吉が天下統一をほぼ完成させた年のこと。
関東には「忍城(おしじょう)」という、秀吉の大軍が最後まで落とせなかった城があります。
守ったのは成田長親(なりた ながちか)という武将でした。
この記事では、その戦いの実像をわかりやすく解説します。

目次
- 忍城ってどんな城?
- 成田長親——突然の総大将
- 豊臣軍の猛攻と水攻め作戦
- 石田堤の決壊
- 小田原城が落ちても降伏しなかった理由
- 「のぼう様」は本当にいたの?
- 長親のその後
- まとめ
- 参考文献
忍城ってどんな城?
忍城は現在の埼玉県行田市にあった城です。
北に利根川、南に荒川が流れ、その周囲は広大な沼地や湿地帯に囲まれていました。
この地形が城の最大の強みでした。
沼に囲まれているため、大軍が一気に攻め込もうとしても、足を取られて動けなくなってしまいます。
城の本丸だけが周囲より2〜3メートル高い土地に建てられており、水に浮いているように見えたことから「忍の浮き城(うきしろ)」とも呼ばれていました。
成田氏はこの忍城を本拠として、武蔵国(現在の埼玉・東京あたり)で力を持つ武士の一族でした。
成田長親——突然の総大将
1590年、豊臣秀吉が後北条氏(関東を支配していた大名)を攻めることにしました。これを「小田原征伐」といいます。
忍城の城主・成田氏長は北条氏側の武将だったので、小田原城へ籠城するために自分の軍勢を率いて出陣しました。
そのため忍城には、氏長の親戚・泰季(やすすえ)が「城代」として留守番を任されました。
ところが、豊臣軍が忍城を包囲しはじめた最中の1590年6月7日、城代の泰季が急に亡くなってしまいます。
史料(成田系図)によれば病死とされますが、詳しい状況は今も確認できていません。
こうして急遽、総大将の役割を引き継いだのが泰季の息子・成田長親でした。
長親は大きな合戦を指揮した実績がほとんどない人物でしたが、武士・足軽・農民・町民など約3,000人をまとめて、2万3,000人もの豊臣軍と戦うことになったのです。
豊臣軍の猛攻と水攻め作戦
豊臣軍を率いたのは石田三成でした。
大谷吉継・長束正家など多くの武将も参加しており、その数は約2万3,000人。
忍城の守り手の8倍以上の数です。
しかし、忍城の周囲に広がる沼地のせいで、大軍を一度に動かすことができません。力攻めではなかなか城を落とせない状況が続きました。
そこで豊臣軍が考えたのが「水攻め(みずぜめ)」です。
城の周囲に大きな堤防を築いて、川の水を引き込んで城ごと水没させてしまおうという作戦です。
同時代に残された書状(一次資料)によれば、この水攻め作戦を発案して三成に命じたのは豊臣秀吉本人でした。
江戸時代に書かれた軍記物(歴史小説のような本)は三成が発案したと記していますが、実際の書状の内容は「秀吉の指示」を示しています。
三成は周辺の農民たちを高給で雇い入れ、わずか4〜5日で城の南側に大きな堤防(石田堤)を完成させました。
この堤防は全長28キロ(または14キロ)にも及ぶ巨大なものでした。
現在も埼玉県行田市と鴻巣市に遺跡として残っています。
石田堤の決壊
石田堤が完成して川の水が引き込まれましたが、忍城の本丸は高台にあったため水没しませんでした。
城は水に浮かんで見えたといいます。
さらに、1590年6月18日頃、大雨が降りました。
急いで作った堤防は大雨の水圧に耐えられず、2箇所で決壊してしまいます。
溜まっていた水は城の中でなく、豊臣軍の陣地に向かって流れ込みました。
軍記物(『関八州古戦録』など)によれば、豊臣軍の兵士約270人が溺死したとされますが、これは同時代の一次資料では確認できていません。
こうして秀吉が命じた水攻めは失敗に終わりました。
水が引いた後も周辺は泥沼になってしまい、豊臣軍はますます攻めにくい状況になってしまいました。
小田原城が落ちても降伏しなかった理由
1590年7月5日、いよいよ後北条氏の本拠・小田原城が降伏して開城。
これで北条氏は滅亡し、関東のほかの城はほぼすべて降伏しました。
しかし、忍城だけは降伏しませんでした。
当主・成田氏長が秀吉の求めに応じて使者を送り、城を開くよう勧告しました。
しかし長親らは「退城の際の荷物は馬一頭分だけ」という条件に反発し、すぐには従いませんでした。
最終的に秀吉が仲裁に入り、城兵の命と財産を守る大幅に緩和された条件で合意が成立。忍城が開城したのは7月16日(一部資料では14日)のことでした。
城に籠もった武士・農民たちは罪を問われず、財産も守られました。
これは当時としては非常に珍しい、寛大な処置でした。
「のぼう様」は本当にいたの?
小説や映画『のぼうの城』(和田竜原作)には、長親が「でくのぼう」を略した「のぼう様」と領民に呼ばれ、小舟の上で踊りを踊って敵を翻弄する場面があります。
これはとても有名なシーンです。
しかし、これはフィクション(創作)です。作者の和田竜さん自身が「史料に基づいて創作した人物像」と説明しており、戦国時代や江戸時代の古い記録には「のぼう様」という呼び名も、舟の上の踊りも出てきません。
ただし、農民や町民が自発的に城に残って守ったこと自体は史実です。
命令だけで動いたのでなく、成田一族への信頼や土地への愛着が城を守る力になったとみられています。
長親のその後
忍城を開城した後、長親は当主・氏長とともに会津に移りました。
やがて成田氏は下野国(現在の栃木県)烏山2万石の大名として復帰しましたが、長親は氏長と不和になり、烏山を去ってしまいます。
そのまま出家して「自永斎(じえいさい)」と名乗り、息子を頼って尾張(現在の愛知県)へ移住。
1613年1月24日、67歳で静かに生涯を閉じました。
お墓は現在も名古屋市千種区の平和公園(大光院墓地)にあります。
まとめ
忍城の戦いは、2万3,000人対3,000人という圧倒的な兵力差の中で、わずか3,000人の側が秀吉の大軍を退け続けた歴史の出来事です。
成田長親は決して「天才的な名将」ではありませんでした。
しかし城の地形を活かし、農民や町民の力を結集して戦い、最終的には城兵の命を守る条件で開城しました。
「のぼう様」のイメージは現代の創作ですが、忍城が最後まで落ちなかった事実は変わりません。
正攻法では絶対に勝てない状況でも、人は戦えることを、この46日間の記録は伝えています。
参考文献
- 行田市教育委員会『行田市史 資料編(古代中世・近世)』行田市
- 小沼十五郎保道著・大澤俊吉訳『成田記』歴史図書社、1980年
- 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年
- 鈴木紀三雄「『忍城水攻め』歴史像の形成」『地方史研究』64巻5号、2014年
- 行田市公式ウェブサイト(石田堤・忍城跡文化財解説)
- 国土交通省関東地方整備局「石田堤〜石田三成の水攻めの跡〜」
- 小和田哲男「農民あがりの秀吉には屈しない……成田長親の人望」PHP歴史街道、2023年

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