はじめに
「忠義を尽くして散る」——戦国武将に対して、私たちはそんなロマンを求めがちです。
しかし実際の戦国時代は、主君を見限ることも「生き残るための知恵」として機能していました。
美濃国(現在の岐阜県)を舞台に活躍した氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)は、まさにその典型です。
斎藤家から織田信長へと鮮やかに乗り換え、交通の要衝・大垣城を拠点に西美濃を支配した卜全は、武力だけでなく政治的な判断力でも時代に立ち向かいました。
そして最期は、仲間を逃がすために自らが「捨て石」となって命を落とします。
なぜ彼はそのような選択をし続けたのか——その生涯を追うと、戦国時代の「リアルな生存術」が見えてきます。

目次
- 氏家卜全とは何者か?—名前の由来と出自
- 六宿老から西美濃三人衆へ—組織の中での立ち位置
- 信長への「乗り換え」—裏切りではなく現実的な判断
- 大垣城という「経営拠点」—武将兼エリアマネージャー
- 姉川の戦いと「崩れない戦力」としての評価
- 長島一向一揆—最も危険な「殿軍(しんがり)」での最期
- 息子たちへ受け継がれた基盤—氏家家のその後
1. 氏家卜全とは何者か?—名前の由来と出自
氏家卜全の本名は、桑原直元(くわばら なおもと)といいます。
もともと美濃国の武士・桑原氏の出身でした。
「氏家」という姓を名乗るようになったのは、1559年(永禄2年)のことです。
主君の斎藤義龍が、名門・一色氏の末裔であると称した際に、家臣たちも一色家ゆかりの苗字へと改名する方針が取られました。
このとき桑原直元は「氏家常陸介直元」と改名し、その後もこの姓を使い続けました。
「卜全(ぼくぜん)」は出家した際に名乗った号(法号)で、正式には「貫心斎卜全」といいます。
戦国武将が仏門に入って号を名乗ることは、この時代の慣習のひとつでした。
なお、生まれた年は正確にはわかっていません。
後世の記録である『美濃国諸旧記』に「享年59歳」とある記述から逆算すると、1512年(永正9年)頃の生まれと推測されています。
ただし別の資料には「享年38歳」という説もあり、生年は学術的に確定していないことを念頭においておく必要があります。
2. 六宿老から西美濃三人衆へ—組織の中での立ち位置
卜全が歴史の表舞台に登場するのは、斎藤義龍が美濃国主になった1556年以降です。
義龍は卜全を含む6名の重臣を「六宿老(ろくしゅくろう)」に任じました。
この体制では、義龍自身の署名がなくても、6人の連名による書状が公式命令として効力を持ちました。
しかし1561年、義龍が35歳で急死します。
あとを継いだのは、まだ14歳の斎藤龍興(たつおき)でした。
若い龍興は古参の重臣を遠ざけて近習だけを重用したため、家臣団の求心力は急速に失われていきます。
さらに1564年には、安藤守就の娘婿・竹中重治(後の竹中半兵衛)がわずか16名で稲葉山城を一時占拠するという前代未聞の事件が起きました。
斎藤家の権威は、もはや地に落ちていたのです。
こうした状況の中で、卜全は稲葉一鉄(いなば いってつ)・安藤守就(あんどう もりなり)と連携を深め、「西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)」と呼ばれる有力武将グループを形成していきました。
三人がそろって行動することで、単独では交渉力の乏しい国人領主も、強大な大名と対等に渡り合えるようになりました。
いわば「集団での交渉力」を武器にした戦略です。
3. 信長への「乗り換え」—裏切りではなく現実的な判断
1567年(永禄10年)8月1日、三人衆は連名で織田信長に「内応(ないおう)」—つまり味方になることを申し入れました。
『信長公記』には「美濃三人衆、申し合せ候て、信長公へ御見方に参ずべく候間、人質を御請取り候へと申し越し候」という記録が残っています。
信長の行動は電撃的でした。
人質が届くのを待たずに自ら出陣し、稲葉山城下の瑞龍寺山(ずいりゅうじやま)から城下に火を放ちます。
これにより城は「裸城」となり、龍興は長良川から船で逃亡しました。
こうして約2週間という短期間で、斎藤氏3代の美濃支配は終わりを告げました。
三人衆はこの内応の見返りとして、信長から「河西(杭瀬川西部地帯)」における税を三等分して受け取る権利を保証されました。
これは単なる「裏切り」の報酬ではありません。
斎藤時代から三人衆が西美濃で独自に持っていた課税権が、織田政権下でも公認されたことを意味します。
三人衆は自らの領地と権限を守り抜いたのです。
4. 大垣城という「経営拠点」—武将兼エリアマネージャー
卜全が拠点としたのは、大垣城(当時は「牛屋城」とも呼ばれた)です。
この城は軍事的・経済的に非常に重要な場所でした。
揖斐川・杭瀬川・牧田川という3つの川が近くを流れており、水運の拠点として機能していました。
陸上交通でも中山道と美濃路(東海道と中山道を結ぶ道)が交差する結節点に位置しており、尾張・近江・伊勢をつなぐ「交通の十字路」でもありました。
後に豊臣秀吉が「大事のかなめの城」と評したほどの要衝です。
卜全は1563年(永禄6年)、この城を大規模に拡張しました。
堀を掘り、土塁を築き、城下町(本町・中町・竹島町・魚屋町など)を整備しています。
また周辺の寺院を城外に移転させ、城郭と町の機能を整然と分離する都市計画的な取り組みも行いました。
5. 姉川の戦いと「崩れない戦力」としての評価
信長の家臣となった卜全は、各地の合戦に従軍し続けました。
1568年の上洛作戦、1569年の大河内城攻め(伊勢国)、そして1570年(元亀元年)6月28日の姉川の戦いがその代表です。
姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍が近江国で浅井・朝倉連合軍と激突しました。
卜全は美濃衆の一員として参戦し、持ち場を崩すことなく守り切りました。
派手な武功を狙うのではなく、与えられた役割を確実に果たす——こうした「計算できる戦力」としての信頼が、信長からの評価を高めていたと考えられます。
6. 長島一向一揆—最も危険な「殿軍(しんがり)」での最期
1571年(元亀2年)5月、信長は伊勢長島(現在の三重県桑名市長島町付近)に本拠を置く一向一揆(浄土真宗の門徒による武装集団)の討伐に乗り出しました。
信長は大軍を三手に分けて攻め込みましたが、川と湿地に囲まれた地形を利用した一揆側の抵抗は激しく、織田軍は撤退を余儀なくされます。
撤退戦で最も危険な任務が「殿軍(しんがり)」です。
これは軍の最後尾で敵の追撃を食い止める役割で、戦死率が非常に高い。
この任を負っていた柴田勝家が負傷して旗印まで奪われる事態に陥ったとき、卜全が自らその後を引き受けました。
卜全は美濃石津(現在の岐阜県海津市南濃町安江)において、六角一族の佐々木祐成に討ち取られました。
享年59歳(諸説あり)。
彼の首を洗ったと伝わる場所「卜全沢」の石碑と、供養塔「卜全塚」が今も海津市に残されています。
7. 息子たちへ受け継がれた基盤—氏家家のその後
卜全の死後、長男の氏家直昌(うじいえ なおまさ)が家督を引き継ぎました。
直昌は1573年の刀根坂の戦いで、かつての主君・斎藤龍興を討ち取る功績を挙げましたが、1583年に病死しています。
次男の氏家行広(うじいえ ゆきひろ)は、その後家督を継いで豊臣秀吉に仕え、伊勢国桑名2万2000石の大名となりました。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、敗戦後に領地を没収されます。
そして1615年の大坂夏の陣で豊臣方として戦い、自ら命を絶ちました。
享年70でした。
このように、卜全の子孫は二世代にわたって日本の中央政権の中枢に関わり続けました。
それは、卜全が生前に築いた政治的なつながりと信頼があってこそのことでした。
まとめ
氏家卜全の生涯を振り返ると、「状況を冷静に読み、集団で動き、拠点を守る」という一貫した姿勢が見えてきます。
主君を変えたことは「裏切り」ではなく、時代の変化を読んだ現実的な判断でした。
大垣城の整備や地域支配も、単なる武力ではなく行政的な視点に基づいていました。
そして最期は、自らが犠牲になることで仲間を救いました。
戦国時代を生き抜いた武将の姿は、ただの武勇伝ではありません。
組織の中でどう立ち回り、何を守るために動くか——卜全の選択の一つひとつに、その答えが刻まれています。
参考文献
- 木下聡『斎藤氏四代——人天を守護し、仏想を伝えず——』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2020年、ISBN 978-4-623-08808-9
- 宮本義己「美濃三人衆の去就——織田信長の美濃経略——」『歴史手帳』6巻1号、1978年
- 吉田義治「織田政権成立過程における美濃武士団——西美濃三人衆の動向を中心に——」『岐阜県歴史資料館報』25号、2002年
- 太田牛一(著)『信長公記』(慶長3年頃成立)、国立国会図書館デジタルコレクション所収
- J.S.A. Elisonas & J.P. Lamers(訳・編)The Chronicle of Lord Nobunaga、Brill、2011年、ISBN 978-90-04-20162-0
- 勝俣鎮夫「美濃三人衆」項目、『世界大百科事典』平凡社(改訂新版)
- 岐阜県観光公式サイト「卜全塚」解説(kankou-gifu.jp)
- 海津市公式サイト「氏家卜全の墓」(city.kaizu.lg.jp)
- 『美濃国諸旧記』(江戸時代成立)、国立国会図書館デジタルコレクション所収

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