はじめに
「信玄の最強軍団を支えた陰の立役者」——甘利虎泰という名を聞いたことがありますか?
武田二十四将の一人として名前は知られていても、その実際の生涯を知る人は多くありません。
信玄のために命を捨てた武将は、同時に、かつて信玄の父を追放したクーデターの実行者でもありました。
単純な「忠義の武士」では語れないこの複雑な人物の生涯を、一次史料をもとに紐解いていきましょう。

目次
- 甘利虎泰とはどんな人物か
- 父・信虎を追放したクーデター(1541年)
- 「両職」という役職の真実
- 行政実務と諏訪統治への貢献
- 最後の戦い——上田原での死(1548年)
- 後世への影響とまとめ
1. 甘利虎泰とはどんな人物か
甘利虎泰(あまり とらやす)は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国武将です。
甲斐源氏・武田氏の分家にあたる甘利氏の出身で、武田信虎・晴信(信玄)の二代にわたって仕えた譜代家老(代々その家に仕える重臣)でした。
一次史料(同時代に書かれた記録)に虎泰が初めて登場するのは、天文9年(1540年)11月20日、高野山成慶院での妻の母の供養を行ったとの記録です。
生年は「1498年」とする説がありますが、一次史料による裏付けはなく、詳細は不明とされています。
官職は備前守(びぜんのかみ)で、軍記物『甲陽軍鑑』は「荻原常陸介に劣らぬ剛の武者」と評しています。
ただし、これは江戸初期に書かれた軍記物であり、同時代史料での裏付けには限界がある点に注意が必要です。
本拠地は甲斐国巨摩郡甘利郷(現在の山梨県韮崎市)で、その館跡は現在の大輪寺境内に比定されています。
山梨県埋蔵文化財センターの発掘調査では、16世紀中頃の建物跡や天目茶碗が出土しており、武士階層の居館と確認されています。
2. 父・信虎を追放したクーデター(1541年)
甘利虎泰の最初の大きな政治行動は、1541年(天文10年)に行われた武田信虎追放クーデターへの参加です。
当時の武田家は、当主・信虎の激しい外征と苛烈な統治で家臣も領民も疲弊しきっていました。
同時代の記録には「国中人民、牛馬畜類ともに愁悩す」という言葉が残っています。
天文10年6月14日、信虎が同盟相手の今川義元のもとへ駿河を訪問したその隙を突き、虎泰と板垣信方をはじめとする重臣たちは行動に出ました。
甲駿国境(甲斐と駿河の境界)を封鎖して信虎の帰国路を断ち、嫡男の晴信(のちの信玄)を新当主として擁立したのです。
代々仕えてきた主君を排除するという、きわめてリスクの高い決断でした。
しかし重臣たちにとっては、組織の存続そのものを賭けた選択でした。
クーデターは成功し、晴信が家督を継ぎました。
なお『甲陽軍鑑』には、虎泰が武田家の守護神・八幡大菩薩の御前でくじを引いて加担を決めたという逸話がありますが、これは軍記物固有の記述であり、一次史料での確認はできません。
3. 「両職」という役職の真実
信玄が当主になった後、虎泰は板垣信方とともに武田家政権の中枢を担ったとされています。
江戸時代後期(1814年)に編纂された地誌『甲斐国志』は、二人を武田家の最高幹部職「両職(りょうしき)」と記しています。
しかし近年の歴史研究では、この「両職」という役職の実態について疑問が呈されています。
同時代の一次史料——『高白斎記』(側近の日誌)や『王代記』(神社の記録)など——には、虎泰や信方を「両職」と呼んだ記述が見当たらないのです。
確認できるのは、天文20年(1551年)の坂名井家文書に虎泰の息子・甘利昌忠と板垣の息子・板垣信憲が「両職」と呼ばれている記録です。
つまり「両職」という称号は、父世代(虎泰・信方)ではなく息子世代のものであった可能性が高いと現在の研究では考えられています。
一方で、「職(しき)」という役職が犯罪者の捕縛や裁判権を担う職として、天文16年(1547年)制定の『甲州法度之次第』(武田家の法令)第1条にも明記されており、何らかの重要な役職が存在したこと自体は確実です。
4. 行政実務と諏訪統治への貢献
虎泰の実務能力は、一次史料でも複数確認できます。
天文11年(1542年)11月19日、甲府に虎泰の新邸が普請されたと『高白斎記』に記されており、武田家政権の中枢・甲府へ本拠を移していたことがわかります。
天文12年(1543年)4月6日、虎泰は信玄の命を受けて板垣信方への「諏訪郡代(郡司)」就任を伝える使者を務めました(『高白斎記』)。武田氏による諏訪制圧後、占領地の統治体制を整えるための重要な役割です。
同年4月2日には、明王寺(現・富士川町指定文化財「明王寺文書 禁制札」)に対して禁制を発給しました。
禁制とは、軍勢による不法行為(略奪・不法侵入など)を禁じる保護文書で、占領地の秩序を保つための実務的な統治手段です。
天文13年(1544年)には大蔵経寺(笛吹市)の堂宇建立棟札にも名が記されており、軍事のみならず内政・宗教行政にも幅広く関与していたことがわかります。
5. 最後の戦い——上田原での死(1548年)
天文16年(1547年)8月、虎泰は板垣信方と別働隊を率い、長野・小田井原の戦いで関東管領・上杉憲政の援軍を撃破しました。
敵将14・5人、兵3000を討ち取る大勝でした(『勝山記』)。
これは確実な一次史料で確認できる、虎泰の最後の軍事的勝利です。
しかし翌年、虎泰の生涯は終わりを迎えます。
天文17年(1548年)2月14日、信濃国・上田原(現在の長野県上田市)。
武田軍は北信濃の豪将・村上義清と激突しました。
先陣の板垣信方が首実検(討ち取った首の確認)中に隙を突かれて討たれ、戦線が崩壊しかけました。信玄自身も傷を負いました。
そのとき、甘利虎泰は退きませんでした。
才間河内守・初鹿野伝右衛門尉らとともに最前線に踏みとどまり、信玄の本陣を守り抜いて討死しました。
同時代の記録『高白斎記』には、こう刻まれています——「十四日庚申 板駿・甘備其外討死」(14日庚申、板垣信方・甘利虎泰らが討死した)。
6. 後世への影響とまとめ
虎泰の戦死後、まもなく息子の甘利昌忠が家督を継ぎ、武田家の指揮系統の空白を埋めました。
昌忠はのちに信玄の側近六人衆の一人となり、父の役割を受け継ぎました。
甘利氏の名跡は後代にも受け継がれ、天正3年(1575年)の長篠の戦いまで武田軍の主力として機能し続けました。
甘利虎泰の実像については、一次史料が少なく多くが謎に包まれています。
「両職」という最高幹部職の真偽や、具体的な業績の詳細は今なお研究が続いています。
しかし、一つだけ確実なことがあります。
かつて主君の父を追放した男が、七年後にその主君のために命を捨てた。
その事実は、複数の同時代史料に刻まれています。
参考文献
- 駒井政武(原筆)『高白斎記(甲陽日記)』(天文9〜22年)翻刻:山梨日日新聞社『山梨県史 資料編6中世3上』(2001年)
- 冨士御室浅間神社所蔵『勝山記(妙法寺記)』翻刻:信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』第8巻(1974年)
- 甘利虎泰発給「明王寺文書 禁制札」(天文12年、1543年)富士川町指定文化財
- 武田晴信(信玄)発布『甲州法度之次第』(天文16年、1547年)
- 松平定能編『甲斐国志』(文化11年、1814年成立)
- 丸島和洋「甘利虎泰」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版(2015年)
- 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団——信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社(2016年)
- 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社(2009年)
- 山梨県埋蔵文化財センター「大輪寺東遺跡発掘調査報告(遺跡トピックスNo.107)」(1990年3月)
- 山梨県立博物館編「武田城下町の形成とその構造」(2013年)

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