竹田城 | 天空の城はなぜ石垣だけで残ったのか

目次

はじめに

竹田城は、兵庫県朝来市にある山城です。
雲海に浮かぶ石垣の姿から「天空の城」と呼ばれ、写真や映像で見たことがある人も多いでしょう。

ただし、竹田城は最初から観光名所だったわけではありません。
もともとは、但馬と播磨の境を守るための軍事拠点でした。
戦国時代には、織田・豊臣政権の但馬攻略に巻き込まれ、最後の城主は関ヶ原の戦い後に切腹を命じられます。

この記事では、竹田城の歴史を要点にしぼってわかりやすく解説します。

目次

  1. 竹田城とは
  2. 築城の背景は嘉吉の乱
  3. 太田垣氏が守った国境の城
  4. 羽柴秀長の但馬攻め
  5. 赤松広秀と総石垣の城
  6. 関ヶ原後の廃城
  7. 天空の城ブームと保存の課題
  8. 参考文献

竹田城とは

竹田城は、兵庫県朝来市和田山町竹田の古城山にあります。
標高は353.7メートルです。
山の上に本丸や天守台、北千畳、南千畳、花屋敷などの曲輪が広がり、南北約400メートル、東西約100メートルの規模を持ちます。

別名は「虎臥城(とらふすじょう/こがじょう)」です。
山の形や城の配置が、虎が伏せた姿に似ていることからそう呼ばれます。

現在は石垣だけが残っています。
しかし、この石垣が非常に大きく、山の上にめぐらされているため、雲海と重なると城が空に浮かんでいるように見えます。
これが「天空の城」と呼ばれる理由です。

築城の背景は嘉吉の乱

竹田城は、15世紀中ごろに但馬守護の山名持豊、つまり山名宗全が築いたと伝わります。
築城については、1431年に着手し1443年に完成したという口碑があります。
ただし、同時代の史料で完全に確認できるわけではないため、年号は慎重に扱う必要があります。

重要なのは、竹田城が生まれた背景です。
1441年、嘉吉の乱が起こりました。
播磨守護の赤松満祐が、室町幕府の将軍・足利義教を暗殺した事件です。

この後、山名宗全は赤松氏を討つ側として播磨方面に進みました。
但馬と播磨の境を押さえる竹田の地は、山名氏にとって大事な場所になります。
つまり竹田城は、景色を楽しむためではなく、国境を守り、敵に備えるために築かれた城でした。

太田垣氏が守った国境の城

竹田城を長く守ったのが、山名氏の重臣である太田垣氏です。
資料では、太田垣氏が約7代にわたり竹田城主を務めたとされます。
一方で、代数には異なる説もあるため、細かい人数は確定しにくい部分があります。

太田垣氏の役割は、但馬と播磨、丹波方面の国境を守ることでした。
応仁2年、1468年には、細川方の内藤勢が但馬へ攻め込もうとした際、太田垣勢が夜久野で迎え撃ったとされます。
この出来事からも、竹田城が実際に戦いのための前線基地だったことがわかります。

戦国時代が進むと、山名氏の力は弱くなり、太田垣氏も独自の動きを強めます。
しかし、そのころ西からは毛利氏、東からは織田信長の勢力が広がっていました。
竹田城は、地方の山城でありながら、大きな政治の流れに巻き込まれていきます。

羽柴秀長の但馬攻め

天正5年、1577年、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長が但馬へ攻め込みました。
目的は、但馬の諸勢力を押さえること、そして近くの生野銀山を確保することだったと考えられます。

『信長公記』には、秀長が竹田城を攻め、城代として置かれた内容が記されています。
これは、竹田城が織田・豊臣側の支配下に入ったことを示す重要な記録です。

天正8年、1580年の再侵攻で、竹田城と有子山城は降伏し、山名氏と太田垣氏の但馬支配は終わります。
竹田城は、国境防衛の城から、豊臣政権の山陰道支配と銀山管理の拠点へ変わっていきました。

赤松広秀と総石垣の城

天正13年、1585年、赤松広秀が竹田城主となりました。
広秀は斎村政広とも呼ばれ、豊臣政権のもとで竹田城を任された人物です。

現在残る竹田城の総石垣は、この広秀の時代の大改修と深く関係するとされています。
石垣は、近江の石工集団である穴太衆の技術による野面積みで築かれたと説明されます。
野面積みとは、自然石を大きく加工せず、形を生かして積む方法です。

竹田城の城郭面積は18,473平方メートル、石垣集積面積は8,649平方メートルとされます。
本丸天守台南側の石垣高は10.6メートルあります。
山の上にこれだけの石垣を築いたことから、竹田城は全国でも屈指の山城遺構として評価されています。

広秀は、城下町の整備や産業振興にも関わったと伝わります。
朝来市の資料では、養蚕や漆器産業を奨励したと説明されています。
竹田城は、単なる軍事施設ではなく、地域を治める中心でもあったのです。

関ヶ原後の廃城

慶長5年、1600年、関ヶ原の戦いが起こります。
赤松広秀は当初、西軍として丹後田辺城を攻めました。
その後、西軍が敗れると、東軍側の亀井玆矩の要請に応じて鳥取城攻めに参加します。

しかし、鳥取城下の大火が問題となりました。
広秀は城下放火の責任を問われ、徳川家康の命によって、鳥取の真教寺で切腹しました。

この処分には諸説があります。
亀井玆矩(かめい これのり)の責任が広秀に押しつけられたという説や、宇喜多秀家との関係を疑われたという説もありますが、確定はできません。
そのため、確認できる範囲では「城下放火の責を問われた」と考えるのが安全です。

広秀を失った竹田城は、山名豊国が受け取ったのち廃城となりました。
建物はなくなりましたが、石垣は山上に残ります。
この「石垣だけが残った姿」が、のちに竹田城を特別な遺跡にしました。

天空の城ブームと保存の課題

竹田城跡は、1943年に国の史跡に指定されました。
2006年には日本100名城にも選ばれています。

有名になった大きな理由は、雲海です。
円山川から発生する霧が山間にたまり、秋から初冬の早朝に、城跡が雲の海に浮かぶように見えることがあります。

2007年には、地元写真家の吉田利栄氏が撮影した雲海の竹田城跡写真が全国紙で紹介され、注目が広がりました。
映画やテレビCMの影響もあり、観光客は急増します。
資料によると、2005年度には約1万2千人だった入城者が、2013年度から2014年度には50万人を超える規模になりました。

一方で、人が増えすぎると文化財は傷みます。
石垣の崩落のおそれ、地面の浸食、駐車場や登山道の問題が起きました。
朝来市は2013年に観覧料を導入し、冬季閉山や見学ルート制限、本丸や天守台の一時立ち入り禁止などを進めました。

竹田城の歴史は、ただの観光地の話ではありません。
国境の城として生まれ、豊臣政権の拠点となり、関ヶ原後に廃城となり、現代では文化財として守られています。
雲海の美しさの下には、戦国の政治、地域の産業、そして文化財保護の課題が重なっているのです。

参考文献

  • 朝来市「竹田城の歴史」「竹田城関係年表」
  • 朝来市「竹田城跡の縄張り・石垣」
  • 朝来市教育委員会「史跡竹田城跡 保存管理整備資料」
  • 太田牛一『信長公記』
  • 文化庁「竹田城跡(文化遺産オンライン)」
  • 城郭談話会編『但馬竹田城 雲海に浮かぶ天空の山城』
  • 兵庫県立歴史博物館「但馬竹田城」
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