新発田重家 | 上杉景勝に6年間抵抗した越後の武将

目次

はじめに

命がけで主君を守った武将が、論功行賞でゼロ評価を受けたとしたら——。

戦国時代、越後(現在の新潟県)に、そんな経験をした武将がいました。
新発田重家(しばたしげいえ)です。
彼は上杉謙信の家臣として武功を積み、謙信の後継者・景勝の勝利に決定的な役割を果たしました。
しかし報われることなく、最終的には景勝に反乱を起こし、6年以上にわたって戦い続けた末に散りました。

この記事では、新発田重家の生涯と反乱の全貌をわかりやすく解説します。

note(ノート)
新発田重家 |報われなかった義の武将と上杉景勝の6年間の戦い|hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 はじめに 命がけで戦ったのに、報われなかったとしたら——あなたならどうしますか。 天正7年(1579年)、越後の武将・新発田重家(しばた しげいえ)は、上杉景勝の勝利を決...

目次

  1. 新発田重家はどんな武将だったか
  2. 御館の乱での大活躍
  3. 報われなかった武功——恩賞問題とは
  4. 反乱のはじまり——新潟港湾の占領
  5. 本能寺の変で大逆転
  6. 最後の戦い——新発田城落城
  7. 新発田重家の乱が残したもの

1. 新発田重家はどんな武将だったか

新発田重家は、1547年(天文16年)頃に越後国蒲原郡(現在の新潟県新発田市)で生まれました。
正確な生年を記した一次史料は現存しておらず、「頃」という表現になっています。

父は新発田綱貞(しばたつなさだ)。
重家は次男として生まれ、五十公野(いじみの)家に養子として入り、最初は「五十公野治長(いじみのはるなが)」と名乗っていました。

重家の一族は「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれる国人領主グループの一員でした。
揚北衆とは、阿賀野川以北の越後北部に拠点を持つ武将たちの総称で、強い独立性を持っていました。
謙信のもとで服属しながらも、自分たちの領地と権益を守ることを最優先に考えていたのです。

1575年(天正3年)の上杉家軍役帳(家臣の兵力一覧)には、重家が鑓(やり)80人・騎馬11騎の軍役を負担していたことが記されています。
これは揚北衆の中でも相当な実力を持つ武将であったことを示しています。


2. 御館の乱での大活躍

1578年(天正6年)3月、上杉謙信が急逝します。
後継者を指名していなかったため、二人の養子——上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)——の間で後継者争い「御館の乱(おたてのらん)」が勃発しました。

重家は景勝方として参戦します。
この選択が、のちの運命を大きく左右します。

御館の乱で重家が果たした役割は非常に大きなものでした。
会津の蘆名(あしな)氏や出羽の伊達(だて)氏が越後に侵入してきたのを撃退し、景虎方についた同族・加地秀綱(かじひでつな)を降伏させ、三条城の神余親綱(かみよちかつな)を討つなど、景勝の勝利を決定づける活躍を見せました。

景勝が「自分で書状を書いて感謝を伝えた」というほど、重家の武功はずば抜けていました。

1579年(天正7年)3月、景虎が自刃して乱は終結します。
景勝の勝利でした。
だれもが「重家は大きな恩賞を受ける」と思っていたはずです。


3. 報われなかった武功——恩賞問題とは

ところが、御館の乱後の論功行賞(ろんこうこうしょう)——つまり功績に応じた報酬の配分——では、重家への恩賞はゼロでした。

新発田市の公式サイトは、その理由をこう説明しています。
「譜代の旗本を支持する側と外様の国衆を支持する側の間に論功行賞をめぐって争いがあり、外様側が敗れたため」。

つまり、景勝の出身グループ(上田衆と呼ばれる生え抜き家臣団)が恩賞を独占し、重家のような外部出身の国人衆は除外されたのです。
どれだけ戦功を挙げても、「身内かどうか」で扱いが決まってしまったのです。

重家のために景勝に何度も申し入れをしてくれた盟友・安田顕元は、報われないことへの責任を感じて自刃しました。
重家にとって、大きな精神的打撃でした。

1580年(天正8年)、兄・長敦が「恩賞がないことを不服としたまま没した」とされます。
重家は兄の跡を継いで新発田家の当主となり、「新発田重家」と名乗るようになります。

この頃、越中(現在の富山県)まで進出していた織田信長から「内応しないか」という誘いが届きます。
重家は決断を迫られます。


4. 反乱のはじまり——新潟港湾の占領

1581年(天正9年)6月、重家は景勝への反旗を鮮明にします。
新潟津(現在の新潟市)の入港税徴収権を奪取し、港を占領しました。

なぜ港の占領が重要だったのでしょうか。
新潟・沼垂の港湾は、日本海の水運と信濃川・阿賀野川水系を結ぶ越後最大の交易拠点でした。
ここを押さえることで、重家は独自の収入源(船が入港するたびに税を徴収できる)を確保し、長期戦のための兵糧・軍資金を独立して調達できる体制を作ったのです。

さらに重家には地形的な強みもありました。
新発田城周辺は広大な湿地帯で、大軍が攻め込むのに非常に不利な地形でした。
少ない兵力で大軍の攻撃を防ぐことができたのです。

この反乱を重家ひとりで起こしたわけではありませんでした。
織田信長・会津の蘆名氏・出羽の伊達氏の後押しも受け、景勝を東西から挟み撃ちにする体制を作っていました。


5. 本能寺の変で大逆転

反乱が拡大する中、1582年(天正10年)には景勝が東(重家)・西(織田軍)の両方から挟まれる状況となり、景勝は「滅亡も覚悟した」とまで言われる危機に陥りました。
重家にとっては絶好の機会でした。

しかし同年6月2日、「本能寺の変」が起きます。
明智光秀が織田信長を討ったことで、越後に向かっていた織田軍が一斉に撤退しました。一夜にして重家の最大の後ろ盾が消えたのです。

重家への形勢は大きく傾きます。
それでも重家は諦めませんでした。
湿地帯の地形を利用したゲリラ戦で上杉軍を何度も撃退します。
1583年(天正11年)の「放生橋の合戦」では、景勝を討ち取る寸前まで追い詰めたとも伝えられています。


6. 最後の戦い——新発田城落城

1585年(天正13年)以降、重家を支援していた蘆名氏・伊達氏が次々と支援を撤回します。
1586年(天正14年)には、景勝が豊臣秀吉に臣従したことで、重家への討伐は「天下統一の一環」として進められることになります。

秀吉は重家に「城と所領を返せば赦免する」と和睦を提案しましたが、重家はこれを拒否しました(天正14年10月6日付の記録に残る)。

1587年(天正15年)、景勝は大軍で最終攻撃を開始します。
9月には加地城・赤谷城が陥落し、補給路が断たれます。10月25日、新発田城落城。

重家は700余騎とともに最後の突撃を行い、自刃して果てました。
享年41歳。
多くの資料は「自刃(腹を切って死ぬ)」としていますが、一部に「討ち死に」との記述もあり、詳細は確定していません。


7. 新発田重家の乱が残したもの

新発田重家の乱を鎮圧したことで、上杉景勝は越後国内の反抗勢力をすべて一掃しました。
外様の国人領主の独立性は消滅し、景勝による中央集権体制が完成します。

景勝はのちに豊臣秀吉のもとで会津120万石の大名となり、五大老の一員にまで上りつめます。
新発田重家の乱の平定が、その礎となったのです。

重家の反乱は、「裏切り者の乱」として記録されることもあります。
しかしその実態は、命がけの武功に正当な評価が与えられなかったことへの抵抗でした。
外様の国人衆が中央集権化の波に飲み込まれていく歴史の中で、重家は最後まで意地を通した武将でした。

6年以上を孤立無援で戦い抜いた重家の姿は、今も越後の地に語り継がれています。


参考文献

  • 新発田市公式ウェブサイト「歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 1・2」
  • 新潟県立図書館「越後・佐渡年代記(天正期抄録)」
  • 白山神社公式サイト「天地人・上杉景勝、直江兼続と白山島・白山城・新潟城」
  • 新潟市歴史博物館みなとぴあ「古文書の部屋」
  • 新潟県史 通史編2 中世(新潟県編、1987年)
  • 産経新聞2016年「重家の豪傑ぶり、今も誇り」
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次