はじめに
「獅子心王(ライオンハート)」という異名を持つイングランド王リチャード1世。
その名は中学・高校の歴史教科書にも登場しますが、「十字軍に行った王」という印象以上のことはあまり知られていません。
じつは、彼の10年間の治世は戦場での武勲だけでなく、国家財政の大改革や近代的な行政制度の萌芽にまで関わる、ドラマチックな歴史の宝庫です。
今回は最新の歴史研究をもとに、リチャード1世の生涯を分かりやすく紐解いていきます。

目次
- リチャード1世って何者?
- 十字軍のために「国を売った」王
- キプロス島をわずか数週間で制圧
- アッコン包囲戦――病床からの陣頭指揮
- アルスフの戦い――「待て」の一言が生んだ大勝利
- エルサレムを諦めた「現実主義者」の決断
- 捕虜になった王――前代未聞の身代金
- 「不在の王」を支えた行政改革
- シャトー・ガイヤール――2年で完成した難攻不落の城
- 小さな矢が奪った偉大な命
- まとめ
- 参考文献
1. リチャード1世って何者?
リチャード1世(1157〜1199年)は、イングランド王ヘンリー2世の三男として生まれました。
幼い頃からフランスの広大な領土「アンジュー帝国」を守るために戦い、16歳で初めて反乱軍を指揮するなど、生まれながらの武人でした。
1189年、父王の死を受けてイングランド王に即位しますが、在位中にイングランド本土に滞在した期間はわずか約5〜6ヶ月。
残りのほぼすべてを海外の戦場で過ごした、異色の王です。
2. 十字軍のために「国を売った」王
即位するなりリチャードが着手したのは、第3回十字軍の軍資金集めです。
その方法は、現代の感覚からすると驚くほど大胆なものでした。
州長官の職や城、町、果ては封建的な権利まで競売にかけ、スコットランド王への宗主権(王として従わせる権利)を1万マルクで手放したほどです。
「適切な買い手がいればロンドンすら売る」という言葉まで伝わっています(ただし一次資料での確認はされていません)。
また、父王の時代に導入されていた「サラディン十税」と呼ばれる収入・動産の10%課税も合わせて活用し、空前規模の軍資金を確保しました。
3. キプロス島をわずか数週間で制圧
1191年、艦隊を率いて地中海を進んでいたリチャードは、嵐に遭って一部の船がキプロス島に漂着します。
島を治めていたイサキオス・コムネノスは漂着した兵士を捕虜にし、リチャードの婚約者ベレンガリアの船の入港さえ拒否しました。
激怒したリチャードは即座に上陸作戦を命じ、わずか3〜4週間で島全体を制圧します。
興味深いのは降伏交渉の一場面です。
イサキオスが「鉄の鎖では縛らないでほしい」と懇願すると、リチャードは約束を守り、銀製の鎖で拘束したと伝えられています。
このキプロス島はその後、十字軍の重要な補給拠点として約300年にわたり機能し続けました。
4. アッコン包囲戦――病床からの陣頭指揮
1191年6月にアッコン(現在のイスラエル北部の港市)に到着したリチャードを待っていたのは、約2年間続く膠着した包囲戦でした。
しかも到着直後、「アルナルディア」と呼ばれる謎の病(高熱・脱毛・爪の剥落を伴う)に倒れてしまいます。
それでもリチャードは前線を離れませんでした。
絹の掛け布で覆った担架に乗せられて最前線に出向き、自らクロスボウで城壁上の守備兵を狙撃したといわれています。
さらに「神の石弾機」「悪しき隣人」と名付けられた大型投石機を投入し、城壁の掘削に成功した兵士には金貨をはずむ報奨制度まで設けました。
1191年7月12日、ついにアッコンは陥落します。
5. アルスフの戦い――「待て」の一言が生んだ大勝利
アッコン陥落後、十字軍はエルサレムを目指して海岸沿いを南下します。
この行軍でリチャードが命じたのは「私の合図なしに突撃するな」という厳命でした。
サラディン率いるアイユーブ朝軍の騎馬部隊が執拗に嫌がらせを続ける中、兵士たちは歯を食いしばって陣形を崩しませんでした。
1191年9月7日、アルスフの平原でついに決戦の時が訪れます。
後衛を担う聖ヨハネ騎士団が限界を超えて突撃を開始すると、リチャードは即座に全軍への一斉突撃を命令。
3波に分けた騎兵突撃でアイユーブ朝軍を壊走させました。
この勝利以後、サラディンはリチャードとの直接対決を避けるようになります。
6. エルサレムを諦めた「現実主義者」の決断
アルスフの大勝を収めながらも、リチャードはエルサレムを攻略できませんでした。
兵力不足と補給路の問題から、2度接近しながらも攻囲を断念します。
また、イングランドではフランス王フィリップ2世と弟ジョンが手を組んで領土侵食を進めているとの報も届いていました。
1192年9月2日、リチャードはサラディンとヤッファ条約を結びます。
エルサレムの支配はイスラム側に留め置かれましたが、非武装のキリスト教徒が聖地へ安全に巡礼できる権利と、沿岸帯の領有が確保されました。
宗教的な「完全勝利」は得られなかったものの、十字軍国家の存続基盤を守り抜いた現実的な外交の結果です。
7. 捕虜になった王――前代未聞の身代金
1192年12月、帰国途中のリチャードはウィーン近郊でオーストリア公レオポルト5世に捕まってしまいます。
その後、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡され、要求された身代金はなんと15万マルク(銀10万ポンド相当)。これはイングランドの王室年収の2〜3倍にのぼる額です。
国内では王母エレアノールが中心となり、臣民に25%の財産税を課し、教会の金銀財宝まで接収して資金を工面しました。
1194年2月、ようやくリチャードは釈放されます。当時フランス王フィリップ2世は弟ジョンに「悪魔が解き放たれたぞ」と警告の手紙を送ったと伝えられるほど、リチャードの解放を恐れていました。
8. 「不在の王」を支えた行政改革
王が国を空けていた間、イングランドの実務を取り仕切ったのが大司教兼最高司法官ヒューバート・ウォルターです。
彼のもとで1194年には検死官(コロナー)制度が創設され、各州の司法管理が強化されました。
1195年には治安維持の騎士を地方に配置する勅令が発布され、後の治安判事制度の原型となります。
王が10年の在位でイングランドに滞在したのは約5〜6ヶ月に過ぎませんが、こうした行政の仕組みが整っていたために国家は崩壊せずにすみました。
9. シャトー・ガイヤール――2年で完成した難攻不落の城
釈放後のリチャードが対フランス戦略の要として建設したのが、ノルマンディーのセーヌ川沿いに建つシャトー・ガイヤールです。
通常であれば10年以上かかる規模の石造城塞を、リチャードは約2年で完成させました。
建設費は約1万2,000ポンドに及び、三重の同心円状の防壁や、城壁の出っ張りから真下の敵を攻撃できる「マシクーリ」など、十字軍遠征で得た東方の建築技術が随所に活かされています。
完成時にリチャードが「わが1歳の娘の何と美しいことか」と誇ったというエピソードも残っています。
10. 小さな矢が奪った偉大な命
1199年3月、リチャードはフランス南部の小さな城、シャリュー=シャブロル城の包囲に赴きます。
その夕刻、鎧を着けずに城壁を視察していたところ、守備兵が放ったクロスボウの矢が左肩に命中しました。
矢の摘出に失敗し、傷は壊疽(えそ)へと進行。
1199年4月6日、駆けつけた母エレアノールに看取られながら、リチャード1世は41歳でこの世を去りました。
自分を射た兵士を「赦す」と命じたリチャードでしたが、彼の死後、傭兵隊長がその命令を無視して射手を処刑したと伝えられています。
11. まとめ
リチャード1世は単なる「勇敢な戦士」ではありませんでした。
財政の大規模動員、病床からの指揮、戦術的忍耐、現実的な外交——その判断の一つひとつは、歴史の転換点と深く結びついています。
不在中の行政を機能させた仕組みも含め、彼の10年間はイングランド国家の基盤づくりに大きな影響を与えました。
わずか41年の生涯ながら、現代に至るまで語り継がれる理由が、そこにあります。
参考文献
- Richard de Templo(推定)著、H.J. Nicholson 英訳『Chronicle of the Third Crusade(Itinerarium Peregrinorum et Gesta Regis Ricardi)』Ashgate, 1997
- Roger of Howden 著、W. Stubbs 編『Chronica Magistri Rogeri de Hovedene』Rolls Series 51, London, 1868–1871
- Ralph of Coggeshall 著、J. Stevenson 編『Chronicon Anglicanum』Rolls Series 66, London, 1875
- Ambroise 著、M. Ailes & M. Barber 英訳『The History of the Holy War(Estoire de la Guerre Sainte)』Boydell Press, 2003
- John Gillingham 著『Richard I』Yale University Press, 1999(Yale English Monarchs Series)
- John Gillingham 著「The Unromantic Death of Richard I」『Speculum』54/1, 1979
- David Crouch 著『William Marshal: Knighthood, War and Chivalry, 1147–1219』Longman, 2002
- John D. Hosler 著『The Siege of Acre, 1189–1191』Yale University Press, 2018
- T.G. Wagner & P.D. Mitchell 著「The Illnesses of King Richard and King Philippe on the Third Crusade」『Crusades』10, 2011, pp. 23–44

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