相馬義胤 | 伊達との抗争、豊臣への服属、改易からの復活、そして中村へ

戦国時代の東北南部、いまの福島県浜通り北部に、長く領地を守り抜いた一族がいました。
相馬氏です。
その16代当主・相馬義胤(そうま よしたね、1548–1635)は、隣の強大な伊達氏と争い、豊臣秀吉に従い、関ヶ原の後には所領を没収されながら、同じ年のうちに旧領を回復して、一族の領地を残した人物です。

亡くなったときには、甲冑を着けて北の方角を向いて葬られたと伝えられます。
この印象的な話の陰には、もっと地道で広がりのある生涯がありました。
本記事では、相馬氏の本拠移転を扱った論文や自治体の解説をもとに、義胤の歩みをたどります。
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相馬義胤 | 伊達との境から近世大名へ、小高・牛越・中村をたどる|hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 福島県浜通りの北部、陸奥国の行方(なめかた)・標葉(しねは)・宇多(うだ)の三郡。 この海沿いの土地を治めた奥州相馬家の16代当主が、相馬義胤(そうま よしたね、15...
目次

家督を継ぐまで――浜通りの相馬氏

相馬氏の舞台は、陸奥国の行方(なめかた)・標葉(しねは)・宇多(うだ)の三郡です。
現在の福島県の太平洋側、浜通りの北部にあたります。
古い本拠は小高(おだか)にありました。

義胤は父・相馬盛胤の子として生まれました。
南相馬市の解説では、天正6年(1578)ごろに父から家督を譲られたとされます。
ただ、それ以前の義胤が何もしていなかったわけではありません。
父とともに政治や軍事に関わり、伊具・亘理といった領境で伊達氏と戦っていました。

また、家督を譲ったからといって、父がすぐに表舞台から消えたとは限りません。
義胤は父とともに動いてきた人物で、相馬父子は並んで家を支えていました。

相馬氏にとって重要な課題の一つは、北に接する伊達氏とどう向き合うかでした。
義胤の人生は、この問題と切り離せません。

伊達氏との抗争と和睦

天正12年(1584)、田村清顕らの仲介によって、相馬氏と伊達氏の和睦が成立しました。
長く争ってきた両家が、いったん矛を収めたことになります。

ところが、田村清顕が亡くなると状況が変わります。
田村氏への影響力をめぐって、相馬氏と伊達氏は再び対立しました。
和睦の仲介に立った田村氏が、今度は両家の争いの焦点になったのです。

戦いは相馬氏に有利なばかりではありませんでした。
天正17年(1589)には、駒ヶ嶺城・新地城が伊達方の手に落ちます。
翌年には相馬方が駒ヶ嶺を攻撃し、義胤の弟・隆胤らが戦死しました。
在城していた義胤が弟らの死を嘆いた書状は、研究論文を通して紹介されています。

伊達政宗との関係は、敵対だけで語れるものではありません。
抗争と和睦が繰り返された、というのが実態に近いでしょう。
二人が刀を交換したという話も南相馬市の解説で伝承として紹介されていますが、それが両者の関係を象徴する逸話として語られてきたことは興味深い点です。

豊臣政権のもとへ――本領安堵と名護屋

天正18年(1590)、豊臣秀吉の統一政権が東国へ及ぶと、義胤は秀吉に従い、本領を安堵(領地を持つ権利を認められること)されました。

どこで秀吉に出仕したかについては、旧来の年譜に「小田原」とする説があります。
これに対し、先行する考証を踏まえた研究では、義胤は宇都宮で秀吉に出仕したという見方が示されています。

この出来事は、地域の力関係を大きく変えました。
相馬と伊達が隣り合う関係は変わりませんが、そこに中央政権による所領の承認と命令という層が強く加わります。
勝手に戦って領地を広げることは難しくなり、領地の保証は秀吉との関係に左右されるようになりました。

文禄元年(1592)、秀吉は朝鮮への侵攻に向けて、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市側)を拠点としました。
義胤もここへ出陣しています。
研究では、年次を文禄元年と比定した義胤書状や、佐竹家臣の記録を用いて、この参陣が説明されています。
義胤自身は朝鮮へは渡っていません。

研究で紹介されている佐竹家臣・平塚滝俊の書状には、西国の石垣や天守、名護屋に集まる京都・大坂・堺の商人、豊富な物資への驚きが記されています。
これは平塚の見聞であり、義胤本人の感想ではありません。
ただ、西国へ向かう道中や名護屋で城郭と城下町に接した経験が、のちの本拠移転に影響した可能性も論じられています。

関ヶ原後の改易と、利胤の交渉

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに、義胤は参戦しませんでした。
それでも慶長7年(1602)、相馬氏は所領を没収されます。

理由の説明は資料によって異なり、南相馬市の解説は石田三成方と疑われたためとし、相馬市の年表は不参加を理由としています。
佐竹氏との関係もあって、不参加がそのまま無事につながったわけではありませんでした。

義胤父子は三春大倉へ退きます。
この危機で動いたのが、嫡子の利胤(としたね)でした。
利胤は江戸で本多正信を介して訴え出ます。
その結果、同年10月、宇多・行方・標葉の三郡が改めて与えられました。

南相馬市の解説によれば、利胤は訴えのなかで、三成との関係は豊臣政権への取次としてのものだったと説明し、三成に加担していないこと、今後は徳川に奉公することを申し立てたといいます。

交渉の細かな経過には不明な点が残ります。
ただ、領地を失った当主に代わって、次の世代が江戸で政権の中枢に働きかけ、旧領の回復にこぎつけたことは確かです。
相馬氏の存続は、義胤ひとりの働きではなく、父子それぞれの役割の上に成り立っていました。

小高から中村へ――本拠移転をどう見るか

相馬氏の本拠は、義胤の時代に何度か動きました。順に並べると次のとおりです。

  • 古くからの本拠:小高
  • 慶長2年(1597):牛越(うしごえ)へ
  • 改易と旧領回復の後:小高へ戻る
  • 慶長16年(1611):中村へ

中村では、利胤が中村城を整備しました。
相馬市は、既存の城郭を再整備し、補強・拡張した移転と説明しています。
義胤が一人で城を築いたわけではありません。

一方、年譜に出てくる「大将」を父の義胤と読み、義胤が移転を主導した可能性を指摘する見方があります。
これは推論であり、断定されたものではありません。

研究では、対伊達の防備だけでなく、海上交通の拠点である湊への接近や、家臣団の再編も移転の背景にあったと論じられています。
たとえば牛越の普請の時期には、一族の有力者・泉胤政が追放されたと年譜が伝えています。
ここで注目されるのが、新田川の河口付近を本拠とした泉氏のあり方です。
それを、移転に伴う湊への接近や在地支配の変化と結びつけて考える見方もあります。

また、移転後の家臣については、研究で紹介されている後世編纂の『御家給人根元記』に、在郷の知行所に住んでいた家臣が中村の城下へ段階的に移されたとあります。
城は戦いの場であるとともに、人や物資、支配の関係が集まる場所として見直せる、という視点です。

隠居、そして孫の後見

慶長17年(1612)4月の時点で、義胤は標葉郡泉田に隠居していました。

寛永2年(1625)に利胤が亡くなると、状況はまた動きます。
跡を継ぐ孫の虎之助はまだ幼く、義胤は後見のため中村へ移りました。こ
の孫は後に義胤と名乗り、18代当主となります(1620–1651)。
同じ名前なので、本記事の戦国期の義胤と混同しないよう注意が必要です。

寛永12年(1635)、義胤は中村城で亡くなり、同慶寺(どうけいじ)に葬られました。
冒頭で触れたとおり、甲冑を帯び、北を向いて葬られたと伝えられます。
北には伊達氏がいたため、後世の人々はそこに強い意味を読み取ってきました。

けれども、義胤の生涯を振り返ると、その大半は別の場面で占められています。
伊達氏との抗争と和睦、豊臣政権への対応、改易と旧領回復、本拠の移転、そして子から孫へと続く家の後見です。
劇的な伝承の背後に、長い時間をかけて家を守った具体的な歩みが見えてきます。

参考文献

  • 岡田清一「小高から中村へ―戦国武将相馬義胤の転換点―」『東北学院大学経済学論集』第177号、2011年、99–110頁。
  • 南相馬市教育委員会文化財課「同慶寺にねむる相馬家当主エピソード集」、2023年更新。
  • 相馬市「中村城跡」、2021年更新。
  • 相馬市「安土桃山から江戸時代」、2022年更新。
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