長宗我部盛親 | 関ヶ原・大坂の陣・八尾の戦いを生きた土佐の大名

目次

はじめに

「長宗我部」といえば、四国を統一した元親のイメージが強いですよね。では、その息子・盛親についてはどうでしょう?

実は盛親は、関ヶ原の戦いで一度も戦えないまま領地を失い、14年もの浪人生活を経たのち、大坂の陣で徳川方の精鋭部隊を撃破した武将です。
父の威光の陰に隠れがちですが、波乱に満ちた生涯は、戦国の終わりを象徴する物語として読み応えがあります。

この記事では、長宗我部盛親の生涯を、時代背景や歴史的意義とあわせてわかりやすく解説します。

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長宗我部盛親 | 浪人になった22万石の大名が最後の戦場で示した「本物の強さ」|hiro | 仕事・人生に効く歴... はじめに 長宗我部盛親という名前を聞いて、すぐに顔が浮かぶ方は多くはないかもしれません。 父・元親の「四国統一」という偉業の陰で、息子の盛親はしばしば「恵まれなか...

1. 長宗我部盛親ってどんな人?

項目内容
生没年1575年(天正3年)〜1615年(元和元年)
出身地土佐国岡豊城(現・高知県)
長宗我部元親(四国を統一した戦国大名)
役職・所領土佐国主・9万8千石(後に改易)
参加した合戦関ヶ原の戦い(1600年)、大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)
最期京都六条河原にて斬首(享年41)

盛親は、四国を統一した名将・長宗我部元親の四男として1575年に生まれました。
本来は家督を継ぐ立場になかった人物ですが、長兄の戦死をきっかけに後継者となり、土佐一国を率いる大名になります。


2. 四男なのに後継者になった理由

1587年(天正14年12月)、長兄・長宗我部信親が戸次川の戦いで22歳で戦死しました。
元親は深く悲しみ、後継者問題が生じます。

家中の多くは次男・香川親和か三男・津野親忠を推しましたが、元親は四男の盛親を後継に指名しました。
理由は、上の兄二人がすでに他家を継いでいたことと、信親の遺女を盛親の正室にすることで血脈を繋ごうとした意図があったと考えられています。

この決定に反対した一族重臣の吉良親実・比江山親興は、元親に切腹を命じられました。
家中に亀裂が生まれ、盛親は最初から多くの軋轢を抱えてスタートすることになります。

なお、盛親が元服した際の烏帽子親(後見人)は、豊臣政権の奉行・増田長盛でした。
父・元親が織田信長に後見されたこととは大きな差があり、長宗我部家の豊臣政権下での格付けが高くなかったことを示しています。
盛親は最後まで武家官位を受けられず、公文書でも「右衛門太郎」という通称のままでした。


3. 関ヶ原の戦い——なぜ戦えなかったのか

1599年(慶長4年)に父・元親が死去すると、盛親は土佐22万石の大名になります。
翌1600年、徳川家康と石田三成が天下を争う関ヶ原の戦いが勃発。
盛親は西軍に加わり、南宮山に約6,000の兵を率いて布陣しました。

ところが、前方に陣取っていた吉川広家が東軍と密かに内通しており、動きませんでした。
後方を塞がれた盛親ら南宮山の部隊は、急峻な地形もあって下山できず、結局一度も戦闘に参加できないまま西軍の敗北を見届けます。

これが後に「宰相殿の空弁当」という逸話として語り継がれる南宮山の不戦です。
6,000の兵を持ちながら戦えなかったこの屈辱は、盛親のその後の人生に深く影を落とします。


4. 改易の真相——兄殺しか、一揆か

関ヶ原後、盛親は徳川家康への謝罪を試みましたが、状況は悪化します。
重臣・久武親直の讒言を信じた盛親は、三兄・津野親忠を殺害(1600年9月)。
さらに旧臣の「一領具足」たちが浦戸城の引き渡しを拒否して武装蜂起(浦戸一揆)を起こし、273名が討ち取られます。

改易の主因については、資料によって見解が異なります。

江戸時代の軍記物は「兄殺しが家康の怒りを招いた」と記しますが、一次史料の研究(平井上総・2008年)では、当初は盛親への替地(御堪忍分)が予定されており、改易の直接要因は浦戸一揆の責任追及だったとされています。

いずれにせよ、土佐は山内一豊に与えられ、長宗我部家は大名家として滅亡しました。


5. 14年間の浪人生活

改易後、盛親は京都へ移り住みます。
京都所司代・板倉勝重の監視下で14年間を過ごし、1610年(慶長15年)には剃髪して「幽夢」と号しました。

「柳ヶ厨子で寺子屋の師匠をしていた」という有名な伝承がありますが、この点は同時代の一次史料による確認ができておらず、史実として確定できません。
経済的には旧臣の仕送りで生活し、大名復帰の機会を探り続けていたとされています。


6. 大坂の陣——旧臣の再結集

1614年(慶長19年)10月、豊臣秀頼から「旧領・土佐一国を回復する」という条件で大坂城入城を求められます。
盛親は板倉勝重を欺いてわずか6人の従者と京都を脱出し、大坂城に入城しました。

この報が伝わると、国を失って14年が経過していたにもかかわらず、土佐の旧臣たちが次々と大坂へ馳せ参じ、最終的に1,000名以上が集結しました。
盛親は真田信繁・後藤基次・毛利勝永・明石全登とともに「大坂五人衆」に列せられ、大坂城の牢人衆の中で最大の部隊を率いました。


7. 八尾の戦い——最後の輝き

1615年5月6日、大坂夏の陣。盛親は八尾方面に進出し、長瀬川の堤防に兵を潜ませる伏兵戦術をとりました。

騎馬武者まで下馬させ、槍を持たせて堤防の陰に伏せさせ、藤堂高虎の精鋭部隊が接近した瞬間に一斉攻撃。奇襲を受けた藤堂軍の先鋒は壊乱し、高虎の甥・藤堂高刑など重臣が多数討ち取られました。藤堂家は翌日の最終決戦で先鋒を辞退するほどの打撃を受けました。

しかし同時刻、連携する木村重成が若江の戦いで敗れて壊滅。盛親は孤立を避けて大坂城へ撤退し、翌5月7日に大坂城は落城しました。


8. 捕縛と処刑——長宗我部家の終わり

落城後に逃亡した盛親は、山城国八幡付近の葦原に身を隠しましたが、5月11日に蜂須賀至鎮の家臣に発見・捕縛されます。
市中引き廻しの後、5月15日に京都六条河原で斬首されました。
享年41歳。

名誉ある切腹ではなく引き廻しの末の斬首という形式は、徳川政権による見せしめとされています。
嫡男以下5人の子息も処刑され、長宗我部嫡流は断絶しました。
首は三条河原に晒され、遺骸は蓮光寺(京都)に葬られています。


9. まとめ

時期出来事
1575年土佐国岡豊城で生まれる(元親の四男)
1587年長兄・信親が戸次川の戦いで戦死
1588年盛親が後継者に指名される
1597年「長宗我部元親百箇条」発布
1599年父・元親の死去、土佐国主となる
1600年関ヶ原の戦いで不戦→改易
1601〜1614年京都で浪人生活(「幽夢」と号す)
1614年10月大坂城入城、五人衆のひとりに
1615年5月6日八尾の戦いで藤堂軍を撃破
1615年5月15日京都六条河原にて斬首(享年41)

長宗我部盛親は、父の威光の陰に隠れがちですが、関ヶ原・浪人・大坂の陣という激動の時代を生き抜き、最後の戦場で確かな爪跡を残した武将でした。
改易の真因や寺子屋生活の実態など、まだ研究が続いている部分もあり、今後の学術的解明が期待される人物でもあります。


参考文献

  • 平井上総『長宗我部元親・盛親』ミネルヴァ書房(日本評伝選)、2016年
  • 平井上総「土佐長宗我部氏の改易」『日本歴史』第718号、吉川弘文館、2008年
  • 津野倫明『長宗我部氏の研究』吉川弘文館、2012年
  • 山本大『長宗我部元親』吉川弘文館(人物叢書)、1988年
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第9巻』吉川弘文館、1988年
  • 高知県編『高知県史 近世篇』1968年
  • 当代記・駿府記(史籍雑纂所収)続群書類従完成会版

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