はじめに
豊臣秀吉が「懸賞金をかけた」武将が徳川四天王にいた——そう聞くと、猛将のイメージを抱くかもしれません。
しかし、その人物は槍を持つ武者ではなく、文書を書き、領地を治め、主君に直言することを恐れなかった「知の武将」でした。
名を、榊原康政といいます。
本記事では、榊原康政の生涯を史実に基づいてわかりやすく解説します。
彼がなぜ「徳川三百年の縁の下の力持ち」と呼べるのか、その理由が見えてくるはずです。

目次
- 徳川四天王って何?
- 榊原康政はどんな人?
- 合戦での活躍
- 小牧・長久手の戦いと「檄文」
- 関東移封と館林——治水と城下町づくり
- 関ヶ原と秀忠を救った決断
- 晩年と榊原家のその後
1. 徳川四天王って何?
「徳川四天王」とは、徳川家康を支えた四人の重臣を指す言葉です。
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人がこれに当たります。
ただし「四天王」という呼び方は戦国時代のものではなく、江戸時代になってから生まれた呼称です。
同時代の記録として確認できる最古のものは、1586年(天正14年)に「徳川三傑」と称された記録です。
四人それぞれの特徴は次のように整理できます。
- 酒井忠次——最古参の家臣。外交と軍事の要
- 本多忠勝——57回の合戦でかすり傷ひとつ負わなかったと伝わる武のシンボル
- 榊原康政——文書・行政・軍事を兼ね備えた知の武将
- 井伊直政——精鋭騎馬隊を率いた猛将
この四人のなかで、康政と忠勝は同じ1548年生まれ。
同い年でありながら、武と知という正反対の強みを持つ二人が徳川軍の双璧を担いました。
2. 榊原康政はどんな人?
榊原康政は1548年(天文17年)、三河国(現在の愛知県豊田市)に生まれました。
父は家格の低い「陪臣(ばいしん)」と呼ばれる立場で、直接家康に仕える家臣ではなく、ある家臣の家臣という身分でした。
その康政が家康の目に留まったのは10代前半のこと。
家康の小姓(近侍)として仕えはじめ、以後46年間、一度も主君に背くことなく忠誠を尽くしました。
1563年(永禄6年)の三河一向一揆で初陣を飾り、武功を挙げます。
家康はその活躍を認め、自らの名前の一字「康」を与えました。
主君から名前の一字を授けるのは、最大の信任の証。
こうして「康政」という名が誕生しました。
康政のトレードマークは、戦場での旗印に「無」の一文字を掲げたこと。
私利私欲を持たないという精神を表すとも言われますが、確定的な史料上の説明は残っていません。
3. 合戦での活躍
康政は「文書の武将」というイメージが強いですが、戦場でも際立った活躍をしています。
姉川の戦い(1570年)では、浅井・朝倉連合軍と対決。
正面で本多忠勝が敵を引きつけるなか、康政は迂回して敵の横合いから突撃し、戦局を逆転させたと伝わります。
ただし、この戦いの詳細については後世に書かれた資料に依拠しており、一次資料での確認は限られています。
長篠の戦い(1575年)では、武田軍の猛将が徳川本陣へ突撃してきた際、本多忠勝とともに家康を守りました。
小田原征伐(1590年)では先鋒を務め、北条氏政・氏照の切腹の検死役という異例の任務も担当しました。
4. 小牧・長久手の戦いと「檄文」
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いは、康政の名を天下に知らしめた出来事として語られます。
この戦役で康政は、秀吉を批判する「檄文(げきぶん)」を書いて広めたという話が残っています。
秀吉の出自を批判し、その政治的正当性を揺さぶる内容だったとされます。
激怒した秀吉は「首を取った者には望みのまま与える」と懸賞金をかけたとも伝わります。
注: この逸話については、歴史学者の渡邊大門氏が「非常に疑わしい」と評価しています。
この話を記す資料はすべて、事件から100年以上後に書かれたものであり、同時代の書状や日記による確認はとれていません。
5. 関東移封と館林——治水と城下町づくり
1590年、家康は秀吉の命令で関東へ移封されます。
康政は上野国館林(現在の群馬県館林市)に10万石を与えられ、同時に関東総奉行として新領国全体の統治を担う重要な役割を任されました。
館林に入った康政は、まず1591年に領内全体の検地を実施して税収基盤を整えます。
その後、城下町を計画的に整備し、1595年から利根川・渡良瀬川に大規模な堤防を築きました。
この「榊原堤(さかきばらつつみ)」と呼ばれる堤防は、利根川左岸だけで約33km、両川合計では約54km(資料によって差異あり)に及ぶ大工事でした。
洪水が多かった地域の被害を大幅に減らし、農民の暮らしを安定させた先進的な治水事業です。
利根川では最初の本格的な大規模堤防とされており、のちの江戸時代の治水工事につながりました。
1597年には城下町を通る街道も完成し、物流も活性化しました。
6. 関ヶ原と秀忠を救った決断
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、康政は徳川秀忠軍の軍監(参謀役)として従軍しました。
しかし、信濃国の上田城で真田昌幸の巧みな守りに阻まれ、秀忠軍は関ヶ原の本戦に遅れてしまいます。
激怒した家康は、次期将軍である秀忠との面会を拒否。
このままでは徳川家の後継者体制が揺らぐという重大な危機でした。
このとき康政は家康の前に進み出て、「遅参の責任はすべて軍監たる自分にある」と述べ、自らが責任を取ると直言したと伝えられます。
この行動により家康の怒りは収まり、秀忠の立場が守られました。
秀忠はのちに「この恩を子々孫々まで忘れない」という文書を康政に送ったとも伝わります。
この逸話の詳細については、後世に書かれた資料に基づくものであり、具体的な言葉の記録には脚色が含まれる可能性があります。
7. 晩年と榊原家のその後
関ヶ原の後、康政は老中(幕府の最高責任者のひとつ)に就任したとされますが、実際の政治の中枢からは距離を置き、館林の領地経営に専念したと伝わります。
「老臣が権力を争うのは組織の衰退の始まりだ」と語ったと記録されています。
家康は康政の清廉な姿勢を評価し、「榊原家を守る」という誓約書を与えました。
この約束は、のちに榊原家が危機に陥った際に実際に活用されたとも伝えられます。
1606年(慶長11年)6月19日、康政は館林城で59歳で亡くなりました。
善導寺(群馬県館林市)に葬られており、その墓は群馬県の指定史跡です。
榊原家はその後、白河・姫路・村上・高田と各地を転封し、最終的に越後高田(新潟県)15万石で明治維新を迎えました。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻100(榊原氏の部)/ 堀田正敦 編・幕府修史局 / 1812年
- 『藩翰譜』/ 新井白石 / 1702年成立
- 『国史大辞典』「榊原康政」項 / 吉川弘文館
- 館林市史・館林城関連資料 / 館林市・館林文化史研究会
- 渡邊大門「榊原康政の檄文は本当か」/ Yahoo News Expert / 2023年
- Harold Bolitho, Treasures Among Men / Yale University Press, 1974年

コメント