はじめに
戦国時代に「負けた側の将」というと、歴史の陰に埋もれてしまうイメージがありますよね。
でも、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、敵将・信長に「主君の首を返してくれれば城を開け渡す」と交渉し、それを成功させた武将がいました。
その人物が岡部元信(おかべ もとのぶ)です。
義元の死後も鳴海城で徹底抗戦し、交渉で首級を取り返した後、高天神城での悲壮な玉砕まで、生涯を通じて「義理と信念」を貫き続けた武将の物語をわかりやすく解説します。

目次
- 岡部元信ってどんな人?
- 桶狭間の戦いと鳴海城の孤独な籠城
- 信長に「首を返せ」と交渉した驚きのシーン
- 帰り道に刈谷城を急襲——氏真から感状を受ける
- 武田家臣としての再スタート
- 高天神城に入り、徳川の包囲に挑む
- 「鳥も通わぬ」高天神六砦の包囲網
- 降伏を申し出たが信長に拒絶された
- 最後の突撃——1581年3月22日
- 高天神城落城と武田氏の滅亡
- まとめ:岡部元信が後世に伝えるもの
1. 岡部元信ってどんな人?
岡部元信は、現在の静岡県藤枝市岡部町を本拠とする岡部氏の武将で、今川義元・今川氏真・武田勝頼と3人の主君に仕えた戦国武将です。
通称は五郎兵衛、後に丹波守という名乗りを使っています。
生まれた年は記録がなく、歴史の文書に初登場するのは1542年(天文11年)のこと。
「小次郎元綱」という名前で登場します。
「元」という字は主君・義元からもらった字(偏諱)で、それほど義元に近い立場にあったことを示しています。
1548年(天文17年)の第二次小豆坂の戦いでは、猪の立物をつけた派手な鎧で戦功を挙げ、義元から「同じ格好をする者を禁じる」という特別な賞を与えられるほど活躍しました。
2. 桶狭間の戦いと鳴海城の孤独な籠城
1560年(永禄3年)5月19日、今川義元は2万5千の軍勢を率いて尾張に攻め込みましたが、桶狭間で織田信長に奇襲されて討ち死にします。
このとき岡部元信は、尾張の鳴海城(現在の愛知県名古屋市緑区)の守将として城に籠もっていました。
義元の死を知ると、他の今川方の武将たちは次々と城を捨てて逃げ帰ります。
大高城にいた松平元康(のちの徳川家康)も夜のうちに引き上げ、沓掛城の守備兵も撤退しました。
ところが元信だけは鳴海城を守り続け、信長軍の攻撃を何度も退けたのです。
3. 信長に「首を返せ」と交渉した驚きのシーン
孤立した城の中で、元信は大胆な決断をします。
信長に対して「義元の首を返してくれれば城を開け渡す」という交渉を持ちかけたのです。
信長はこの要求を受け入れました。
義元の首は丁重に棺に納められ、鳴海城へ届けられます。
元信は義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、城兵を率いて堂々と退去しました。
この行動は、後に徳川家の武将・大久保忠教が書いた『三河物語』にも「立派なことである」と評価されています。
敵側の人間にここまで称えられた武将は、戦国時代でも珍しいといえます。
4. 帰り道に刈谷城を急襲——氏真から感状を受ける
鳴海城を退去した元信は、そのまま帰るのではなく、帰り道に織田方の同盟者・水野氏の刈谷城を急襲しました。
わずか100余人で城に攻め込み、城主・水野信近を討ち取って城内に火をかけたのです。
この功績に対して、今川氏真は1560年6月8日付で感状(今川氏真判物)を発給しました。
「粉骨砕身の働きは他の者が及ぶところではない」とまで称え、以前没収していた知行地をすべて返しています。
この感状の原本は今でも藤枝市郷土博物館に保存されています。
ただし、刈谷城が本当に落城したかどうかは記録によって異なります。
氏真の感状に「城内放火」とはあっても「落城」とは書かれておらず、近年の研究では落城には至らなかったとする説が有力です。
5. 武田家臣としての再スタート
今川氏は1568年(永禄11年)12月に武田信玄の駿河侵攻によって滅びます。
元信は最初、今川氏真と行動を共にして後北条氏の元へ向かいましたが、その後、武田氏に降ることを選びました。
武田家の文書に元信の名前が登場するのは1573年(天正元年)夏以降のことです。
当初の動員数はわずか10騎で、今川旧臣の中でも最も小さい規模からのスタートでした。
しかし元信は粘り強く実力を示します。
長篠合戦(1575年)後の徳川軍の攻勢に対しても、各地の城で防衛を続け、知行は1574年の528貫から1577年には2215貫(約4倍)に増加。
武田家中で外様ながら方面軍の指揮権を任されるという、異例の信頼を得ていきます。
6. 高天神城に入り、徳川の包囲に挑む
1579年(天正7年)、武田勝頼は遠江の重要拠点・高天神城の城将に岡部元信を任命しました。
「高天神を制する者は遠州を制す」と呼ばれたこの城は、武田家が徳川家康と戦う上での最前線でした。
高天神城は急峻な岩山の上に建つ山城で、直接攻撃での落城はほぼ不可能とされていました。
元信はこの天然の要害をさらに強化し、約1000人の兵とともに守備に就きます。
7. 「鳥も通わぬ」高天神六砦の包囲網
1580年(天正8年)、徳川家康は兵糧攻めに切り替えます。
高天神城の周囲に6つの砦(小笠山・能ヶ坂・火ヶ峰・獅子ヶ鼻・中村・三井山)を含む計22の付城を完成させ、城への補給路をすべて遮断しました。
『三河物語』はこの包囲を「城中よりは鳥も通わぬ計なり」と表現しています。
どんな補給も届かなくなった城内では、食料が底をつき始め、城兵たちは草木を食べてしのぐ状況になっていきました。
8. 降伏を申し出たが信長に拒絶された
1581年(天正9年)1月、元信は矢文で「3つの城を渡す代わりに城兵の命を助けてほしい」と降伏を申し出ます。
徳川家康はこの申し出を織田信長に相談しましたが、信長は降伏を認めないよう命じました。
信長の朱印状(1月25日付)には「武田勝頼にはもはや援軍に来る力はない」と書かれており、その真の意図は明確でした。
つまり、信長は高天神城の降伏を拒否させることで、武田勝頼が「家臣を見捨てた大将」であることを天下に見せつけようとしていたのです。
これは軍事的な作戦であると同時に、武田氏の求心力を失墜させるための高度な政治的計算でもありました。
9. 最後の突撃——1581年3月22日
3月になると、城内の兵糧は完全に底をつきました。
元信は軍議で「この城に入ったときから、生きて帰ろうとは考えていない」と宣言し、城兵に最後の酒を振る舞いました。
3月22日の夜10時頃、元信は残存兵を率いて石川康通の陣(三井山砦方面)に総突撃を仕掛けます。
激しい乱戦の末、元信は本多主水との組討ちに敗れて討ち死にしました。
享年70近しと伝わっています。
討死した城兵の数は、『信長公記』では688人、掛川市史などの地元史料では730余人と記されています。
10. 高天神城落城と武田氏の滅亡
高天神城の落城は、武田氏にとって致命的でした。
援軍を出せなかった勝頼の無力さが全領国に知れ渡り、重臣たちの離反が相次ぎます。
翌1582年(天正10年)2月には重臣・穴山信君が信長に内応し、同年3月に武田勝頼は自刃。
武田氏は滅亡します。
高天神城での玉砕が、武田家滅亡の直接の引き金となったのです。
11. まとめ:岡部元信が後世に伝えるもの
岡部元信は、今川・武田という二つの滅びていく主家に仕え続けた武将です。
勝ち組ではありませんでした。
しかし、桶狭間での首級奪還交渉、帰路の刈谷城急襲、そして高天神城での最後の突撃と、その生涯は「状況がどれほど不利でも、自分にできることを最後までやり切る」という姿勢に貫かれていました。
歴史に名を残す「義将」とは、派手な勝利を飾った人物ではなく、こうした人物なのかもしれません。
参考文献
- 太田牛一『信長公記』巻十四「高天神干殺歴々討死之事」(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 大久保忠教『三河物語』(国書データベース)
- 「今川氏真判物」(永禄3年6月8日付)藤枝市郷土博物館「岡部家古文書」C0191
- 「織田信長朱印状」(天正9年1月25日付)『静岡県史』資料編8 中世四 文書番号1370(茨城県立歴史館蔵)
- 掛川市「高天神城と六砦」「高天神をめぐる戦い」(掛川市公式サイト)
- 平山優「徳川家康と武田信玄・勝頼——高天神城をめぐる抗争史」掛川市委託講演資料PDF、2023年
- 柴裕之『武田氏家臣団人名辞典』「岡部元信」項、東京堂出版、2015年

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