はじめに
「春日局」という名前を聞いたことはありますか?
徳川家光の乳母として知られるこの女性は、実は「謀反人の娘」として生まれた人物です。
父は本能寺の変を起こした明智光秀の腹心であり、その処刑後、彼女はわずか3歳で「逆賊の一族」というレッテルを貼られました。
それでも彼女は、公家の教養を武器に、幕府最高権力の一角を担う存在になっていきます。
春日局の生涯は、江戸時代初期の日本を理解するうえでも、一人の人間の生き方を知るうえでも、非常に重要な物語です。

目次
- 春日局の出自と幼少期
- 乳母に採用されるまで
- 大奥を整えた役割
- 天皇に謁見して「春日局」号を得た事件
- 政治的影響力の実体
- 薬断ちと晩年
- 大奥の継続と遺産
- 参考文献
1. 春日局の出自と幼少期
春日局(本名:斎藤福)は、天正7年(1579年)に丹波国黒井城下(現在の兵庫県丹波市春日町)で生まれました。
父は斎藤利三。
明智光秀の重臣として、丹波支配の要地である黒井城を任されていた人物です。
ところが天正10年(1582年)、本能寺の変が起きます。
父・利三は光秀とともに織田信長を討ちますが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北。
捕縛され、六条河原で処刑されました。
このとき福は3歳でした。
「謀反人の一族」となった福は、母方の縁戚にあたる公卿・三条西公国のもとに引き取られます。
ここで彼女は書道・歌道・香道といった公家社会の教養を身につけます。
この教養が、後年の彼女の人生を大きく変える武器となりました。
2. 乳母に採用されるまで
成人した福は、伯父・稲葉重通の養女となり、稲葉正成の後妻となります。
正成は関ヶ原の戦いで小早川秀秋を東軍に寝返らせる工作を主導した人物で、徳川家康に功績が認められていました。
慶長9年(1604年)、2代将軍・徳川秀忠の嫡男・竹千代(後の家光)の乳母選考が行われました。
選考の経緯には複数の説がありますが、いずれの説でも確かなことは、福が次の要素を持っていたことです。
- 三条西家で培った公家的教養
- 稲葉正成の関ヶ原での戦功(徳川家への功労)
- 武家と公家の両方に通じた人脈
「謀反人の娘」という不利な出自を持ちながらも、これらの要素が総合的に評価され、将軍家嫡男の乳母という重要な役職を得ることができたのです。
福はこの採用にあたり、夫・稲葉正成と離縁する形をとって江戸城に入ります。
3. 大奥を整えた役割
元和4年(1618年)、大奥の基本的な規則を定めた「大奥法度」が発布されました。
男子禁制、夜間の出入禁止、通行証の義務化などが定められ、これが後の大奥制度の原型となります。
寛永3年(1626年)に崇源院(秀忠の正室・お江)が死去すると、大奥の実権は実質的に春日局が掌握します。
家光は当初、女性よりも男性に関心を向けることが多く、正室との関係も冷え切っていました。
将軍家の血統を守るため、春日局は積極的に側室の選定と登用を行います。
このはたらきによって、お楽の方から4代将軍・家綱が、お玉の方(桂昌院)から5代将軍・綱吉が誕生しました。
ただし、「春日局が大奥制度を完成させた」という表現については、注意が必要です。
現存する最古の大奥女中法度は春日局の没後(1670年)のものであり、彼女はむしろ後の法度化・制度化の基盤を作った人物と理解するのが適切です。
4. 天皇に謁見して「春日局」号を得た事件
寛永6年(1629年)は、春日局の生涯における最大の転換点でした。
当時、幕府と朝廷の関係は「紫衣事件」(幕府が朝廷の権限に介入した事件)によって深刻に悪化していました。
後水尾天皇は譲位を示唆し、朝幕関係は危機を迎えていました。
この状況を打開するため、春日局は朝廷との交渉を担う使者として上洛します。
しかし、武家の娘のままでは天皇に会うことができません。
そこで彼女は、公卿・三条西実条と「義妹」の縁組を行い、藤原氏の娘「藤原福子」として参内資格を取得するという策を実行しました。
寛永6年(1629年)10月10日、後水尾天皇・中宮和子に拝謁。
従三位の位階と「春日局」の称号を賜りました。
寛永9年(1632年)の再上洛では従二位に昇叙し、緋袴の着用を許されます。
北条政子・平時子と並ぶ位階であり、「二位局」とも称されました。
5. 政治的影響力の実体
春日局の権力は、「将軍の乳母」という情緒的な近さだけで成立していたわけではありません。
具体的な人的ネットワークを通じて、「奥」から「表」の政治を動かす仕組みが機能していました。
縁者・関係者を要職に送り込んだことで、将軍の側近である「奥」と、政策決定の場である「表」を直結させる情報網が完成しました。
熊本藩主・細川忠利に宛てた直筆の覚(一次資料)には、「すべてのことは春日局の息子・正勝から伝わる」と記されており、この情報ルートが実際に機能していたことが確認できます。
6. 薬断ちと晩年
寛永6年(1629年)、家光が疱瘡(天然痘)で危篤状態に陥った際、春日局は「家光が平癒すれば、以後一生薬を飲まない」と神前で誓いを立てました。
家光は快癒し、春日局は生涯この誓いを守り続けます。
寛永20年(1643年)、重篤な病に倒れた春日局を見舞った家光は、国宝の茶碗(曜変天目・稲葉天目)に薬を入れて自ら飲ませようとしました。
春日局は感激しながらも、口に含んだ薬を密かに袖の下に吐き戻したと伝えられています。
この逸話は後世の記録に基づくものですが、彼女の忠誠心を象徴するエピソードとして語り継がれています。
同年9月14日、春日局は64歳で死去しました。
菩提寺は東京都文京区湯島の麟祥院で、今も墓が残っています。
7. 大奥の継続と遺産
春日局が整えた大奥の枠組みは、彼女の死後も約225年にわたって機能し続けました。
4代将軍・家綱期以降に「大奥」の名称が定着し、慶応4年(1868年)の江戸城無血開城まで存続します。
上臈御年寄・御年寄・御中臈といった階層的な役職体制、法度に基づく出入り管理など、後の大奥制度の基礎は、春日局が主導した実務の積み重ねによって形作られました。
また、養子の堀田正俊は後に大老に就任し、5代将軍・綱吉政権を支えました。
春日局の遺産は、制度だけでなく人脈を通じても継承されていったのです。
8. まとめ
春日局の生涯を一言で言い表すなら、「逆境を戦略に変えた人」でしょう。
謀反人の娘という最悪の出自を持ちながら、公家教養・武家人脈・無私の忠誠心を組み合わせ、誰も想定しなかった場所に登り詰めました。
彼女は「乳母」という枠を大きく超え、大奥の統括者・朝廷への使者・政治的媒介者として、江戸幕府の初期を支えた存在でした。
その足跡は、制度として幕末まで残り続けました。
参考文献
- 福田千鶴『春日局——今日は火宅を遁れぬるかな』ミネルヴァ書房、2017年
- 小和田哲男『春日局』(人物叢書)吉川弘文館、2022年
- 田端泰子「春日局に見る乳母役割の変質」『京都橘女子大学研究紀要』第10号、1983年
- 福田千鶴「江戸城本丸女中法度の基礎的研究」『九州文化史研究所紀要』63号、2020年
- 小林明「大奥を確立した春日局の狙いは3代将軍・家光の胤を存続させること」nippon.com、2021年

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