はじめに
「本能寺の変」といえば、明智光秀が主君・織田信長を討った歴史上の大事件です。
でも、実際に本能寺に突入した部隊を指揮していたのは、光秀ではなかった可能性があることを知っていますか?
その人物こそ、斎藤利三(さいとうとしみつ)。
光秀の筆頭家老として外交・軍事・行政を担い、2014年に発見された「石谷家文書」によって、本能寺の変の背景に深く関わっていたことが明らかになった武将です。
逆臣として処刑されながら、その娘は後に江戸幕府の最側近・春日局となりました。波乱に満ちた一生を、わかりやすく解説します。

目次
- 斎藤利三ってどんな人?出自と家柄
- 稲葉一鉄から光秀へ——引き抜き騒動
- 丹波黒井城主として——統治の実力
- 石谷家文書と四国外交——変の真の背景
- 本能寺の変での役割
- 山崎の戦いと最期
- 娘・春日局による家名の復活
- まとめ
- 参考文献
1. 斎藤利三ってどんな人?出自と家柄
斎藤利三は、天文3年(1534年)頃に美濃国(現在の岐阜県)で生まれました。
戦国大名の斎藤道三とは別の「本来の美濃斎藤氏」の一族で、父は斎藤利賢、母は室町幕府の高官・蜷川親順の娘です。
室町幕府の「奉公衆(ほうこうしゅう)」——つまり将軍直属の軍事・行政官に連なる家柄の出身であり、この人脈が後年の外交活動に活きることになります。
通称は「内蔵助(くらのすけ)」。
明智光秀の筆頭家老として「明智五宿老」の一人に数えられました。
2. 稲葉一鉄から光秀へ——引き抜き騒動
若いころの利三は、摂津の松山新介、美濃の斎藤義龍に仕えた後、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(いなばいってつ)の家臣となりました。
一鉄の娘(一説に姪)を妻として迎えるほど深い関係を築いていましたが、軍功に見合う厚遇が得られず諫言も容れられなかったため、元亀元年(1570年)頃、明智光秀のもとへ移ります。
しかし騒動はそれだけでは終わりませんでした。
後年、今度は利三が仲介役となって稲葉家中の那波直治(なわなおはる)をさらに明智家へ引き抜こうとしたのです。
激怒した一鉄は信長に訴え出ます。
信長は那波を稲葉家へ返すよう光秀に厳命しましたが、光秀はこれを断固拒否。
信長が光秀を折檻したという逸話が後世の史料に伝わっていますが、詳細な記述は江戸期の軍記物に依拠しており、同時代の一次史料による裏づけは乏しく、確実な事実とは断定できません。
さらに天正10年(1582年)5月27日、信長は那波の返還に加え、利三への切腹まで命じる裁定を下します——本能寺の変のわずか4日前のことです。
最終的に猪子高就(いのこたかなり)の嘆願によって切腹命令は撤回されましたが、光秀が信長の命令に逆らってまで引き留めようとしたほど、利三の能力は抜きん出ていたのです。
3. 丹波黒井城主として——統治の実力
天正7年(1579年)、明智光秀は長年手こずっていた丹波国(現在の兵庫県丹波市周辺)の平定を完了します。
光秀は丹波一国を信長から与えられ、最も信頼する斎藤利三を黒井城主(1万石)に任命しました。
利三は城の山麓に陣屋(下館、現在の興禅寺)を構え、領内の復興と治安維持に取り組みました。
特筆すべきは、天正8年(1580年)に戦火を逃れた白毫寺の僧侶たちに対して「陣夫役(軍事労役)を免除する」という公文書を発給したことです。
この文書は現在も白毫寺に保存されており、一次資料として確認できます。
武力だけでなく、地域の宗教勢力に配慮した柔軟な統治——それが利三の統治スタイルでした。
この黒井城下では、利三の娘・福(後の春日局)が生まれたと伝わります。
4. 石谷家文書と四国外交——変の真の背景
本能寺の変の背景として、近年最も注目されているのが「四国説」です。
2014年に林原美術館が公表した「石谷家文書」(47通、3巻)は、変の直前まで利三が四国・長宗我部氏との外交交渉を担っていたことを一次資料で示しています。
利三の実兄・石谷頼辰の義父・石谷光政の次女が、土佐の大名・長宗我部元親の正室として嫁いでいました。
この姻戚関係を活かして、明智光秀が信長と元親の「取次(外交仲介者)」を務め、実務は利三が担っていたのです。
信長は当初、元親に「四国は自力で獲った土地は認める」と許可していました。
ところが天正9年(1581年)後半、突然方針を転換。
「土佐と阿波南半分だけを認め、残りは返上せよ」と要求します。
元親はこれに反発しましたが、利三は天正10年(1582年)1月頃から必死の説得交渉を続けました。
同年5月21日付の元親から利三宛の書状(石谷家文書)では、元親が信長の要求に従う意向を示しています。
しかし信長はすでに四国征伐軍を編成し、6月2日の渡海を予定していました。
交渉が成立しかけていたにもかかわらず、信長は計画を止めませんでした。
利三が長年積み上げた外交の成果は、信長の一方的な決定によってすべて無意味になったのです。
5. 本能寺の変での役割
天正10年6月1日夜、光秀は亀山城で重臣たちに謀反計画を打ち明けました。
利三もその場にいたとされています。
後世の記録には「利三が当初反対した」という記述もありますが、一次資料による確認は困難です。
翌6月2日未明、明智軍は本能寺を急襲。
信長とその嫡男・信忠を自害に追い込みました。後世成立の記録『乙夜之書物』は、斎藤利三と明智秀満が2000余騎の先鋒を率い、光秀本人は鳥羽(現在の京都市伏見区)に控えていたと記しています。
同時代の公家・山科言経の日記『言経卿記』には「日向守内斎藤蔵助、今度謀反随一也」——つまり「光秀の家臣・斎藤利三こそ今回の謀反の中心人物だ」と書かれています。
当時から、利三が変の実務的主役と見られていたことがわかります。
6. 山崎の戦いと最期
本能寺の変の11日後、天正10年6月13日に「山崎の戦い」が起きました。
中国地方の攻略から素早く引き返してきた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の大軍と、明智軍が激突した戦いです。
細川藤孝・筒井順慶など、明智方の支援を期待した武将たちはことごとく中立を保ち、明智軍は孤立無援となりました。
利三は先鋒として奮戦しましたが、兵力差は覆せず、明智軍は壊滅します。
逃げ延びた利三は近江・堅田(現在の滋賀県大津市)に身を潜めましたが、かつての同僚・猪飼秀貞に裏切られて捕縛されました。
天正10年6月17日(一説に18日)、京都・六条河原で斬首されています。
享年49。
6月23日には、光秀の遺骸と合わせて三条粟田口で磔にされました。
親友の絵師・海北友松らが夜間に遺骸を奪い取り、真正極楽寺(真如堂、京都市左京区)に葬ったと伝わります。
7. 娘・春日局による家名の復活
逆臣として処刑された利三の末娘・福は、幼くして父を失い、母方の稲葉家に引き取られました。
その後、稲葉正成の後妻となります。
慶長9年(1604年)、福は徳川家光の乳母として幕府に召し抱えられ、「春日局」として大奥の礎を築きました。
寛永6年(1629年)には朝廷から「春日局」の称号と従三位を賜っています。
春日局の権勢を背景に、利三の三男・斎藤利宗は旗本(5000石)として幕府に仕え、春日局の長男・稲葉正勝は老中に昇りつめました。
「逆臣」の家は、一世代を経て徳川幕府の中枢に深く根を張ることになったのです。
8. まとめ
斎藤利三は、単なる「明智光秀の家老」ではありませんでした。
外交交渉・領国経営・軍事指揮と幅広い実務をこなし、本能寺の変の直前まで戦争回避のために奔走した人物です。
2014年の石谷家文書の発見によって、変の背景には利三が担った四国外交の破綻があったことが一次資料で確認されました。
「光秀の怨恨」だけでは説明しきれない、外交的な動機が変の背景にあったのです。
処刑という悲劇的な最期を迎えた利三ですが、その血脈は春日局を通じて徳川幕府の歴史に刻まれました。
歴史の表舞台には立てなかった実務家の物語——それが斎藤利三という人物です。
参考文献
- 浅利尚民・内池英樹 編『石谷家文書——将軍側近のみた戦国乱世』吉川弘文館、2015年
- 熊田千尋「本能寺の変の再検証——先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実」『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号、2020年
- 萩原大輔『異聞 本能寺の変——『乙夜之書物』が記す光秀の乱』(史料で読む戦国史④)八木書店、2022年
- 文化庁「黒井城跡」文化遺産オンライン
- 林原美術館・岡山県立博物館 プレスリリース「林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について」2014年
- 長宗我部元親書状(斎藤利三宛)天正10年5月21日付、石谷家文書 巻第2、林原美術館所蔵

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