増田長盛 | 豊臣政権の実務官僚が関ヶ原で「どっちつかず」になった理由

目次

はじめに

豊臣秀吉が天下を統一できた理由のひとつに「優れた実務官僚を使いこなした」ことが挙げられます。

その中でも増田長盛(ました ながもり)は、太閤検地・朝鮮出兵の兵站・大名としての領地統治と、幅広い分野で卓越した能力を発揮した人物です。

ところが秀吉が死んだ後、長盛は関ヶ原の戦いで「東軍にも西軍にも顔を立てようとして、どちらにも信用されない」という最悪の結末を迎えます。
最終的には71歳で自刃を命じられ、歴史の舞台から消えていきました。

なぜ、これほど有能な実務家が時代の転換期に敗れたのか。
増田長盛の生涯を通じて考えてみましょう。

note(ノート)
増田長盛 | 豊臣政権の実務を支えた官僚の生涯と、関ヶ原での選択|hiro | 仕事・人生に効く歴史かわら版 はじめに 「優秀な人材が、時代の転換期に真っ先に消える」という皮肉は、歴史の中に繰り返し登場します。 増田長盛という人物をご存知でしょうか。 豊臣秀吉が天下を統一...

増田長盛の略歴

項目内容
生没年1545年〜1615年(享年71歳)
出生地尾張国中島郡増田村(現・愛知県稲沢市)または近江国浅井郡益田郷(現・滋賀県長浜市)※諸説あり
主な役職豊臣政権五奉行のひとり、大和郡山城主
最終石高大和郡山20万石(関ヶ原後に全没収)
死因大坂夏の陣で嫡子が豊臣方として戦死した連座により自刃

出生地については確定資料がなく、二説が並存しています。


200石から始まった出世と武功

長盛が確認できる形で歴史に登場するのは、天正元年(1573年)のことです。
羽柴秀吉が浅井氏の旧領を得て長浜城主となった際、200石で召し出されました。

注目すべきは、長盛が文官的な仕事だけでなく武功も残していることです。
天正9年(1581年)の鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」(兵糧・物資の調達管理役)を命じられています。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首を二つ挙げ、2万石に加増されました。
翌天正13年(1585年)には従五位下・右衛門尉に叙任されています。

このように、実務能力と武功の両方を兼ね備えていたことが秀吉の信任を得た要因でした。


太閤検地を実施した「データ統治の推進者」

増田長盛の最大の業績は、太閤検地への関与です。

太閤検地とは、豊臣政権が全国の土地を統一基準で測量・評価した大規模な事業です。
それまで地域ごとにバラバラだった土地評価を「石高」(土地の生産力を米の量で示す数値)に一元化しました。

長盛はその中核実務官として各地に赴き、検地を指揮しました。

  • 天正19年(1591年):長束正家とともに近江国の検地を指揮
  • 文禄4年(1595年):越後・北信濃での広域検地に派遣
  • 慶長2年(1597年):安房国で総検地を実施

文禄4年の北信濃検地では、長盛の家臣と上杉景勝の家臣が別々の村を担当する形で進められました。
現存する検地帳(文禄4年9月29日付)にはその成果が記録されており、田畠への等級付け・面積・石高・名請人の記入という統一様式に従っています。

また常陸国の検地では、佐竹氏の領国の中に豊臣直轄地と長盛の知行地を戦略的に配置しました。
これは大名を政権に従属させる「制度的な楔」として機能していました。


朝鮮出兵での兵站指揮

文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)では、長盛は石田三成・浅野長政とともに「三奉行」として渡海し、漢城(現・ソウル)に駐留して兵站奉行を担当しました。

海を越えた十数万規模の軍事行動では、食料・武器・輸送船の継続的な確保が死活問題です。
長盛は200石船100艘の調達から、石見銀山で確保した銀を長崎で硝石(火薬原料)に換えて前線に送る複雑な補給ルートの構築まで担いました。

碧蹄館の戦い・幸州山城の戦いにも参加し、文禄2年(1593年)には明との休戦交渉を経て名護屋へ帰還しています。慶長の役(1597年〜)にも再び関与しました。


大和郡山20万石の大名へ

内政・軍事の多岐にわたる実績が認められ、文禄4年(1595年)6月、長盛は大和国郡山城に20万石で入封しました。

郡山城は奈良盆地の中央に位置し、東国から大坂への南側ルートを押さえる戦略的要地です。
長盛は入城後ただちに総堀(城を囲む大規模な堀)の普請を行い、秋篠川の付け替えや溜池の活用による城下町の整備を進め、翌文禄5年(1596年)に完成させました。

さらに慶長元年(1596年)には、紀伊・和泉・大和の豊臣家直轄地100万石相当の代官も兼務し、政権の財政管理にも深く関与しました。
同年10月にはスペイン船(サン=フェリペ号)の漂着・積荷没収問題で土佐に赴くなど、外交的な危機対応にも当たっています。


秀吉の死後、政権が揺らぐ

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去しました。
長盛は浅野長政・石田三成・長束正家・前田玄以とともに五奉行のひとりとして、秀頼を支える集団指導体制を担うことになります。

しかし、五大老筆頭の徳川家康が秀吉の遺命に反して専権行為を重ねたため、奉行衆は前田利家を擁して対抗しました。
慶長4年(1599年)に利家が没し、石田三成が武断派の攻撃を受けて奉行職を解かれると、豊臣政権内の対立は決定的となります。
長盛は三成失脚後に豊臣家蔵入地100万石超の管理を引き継ぐ立場となりましたが、その力が結集されることはありませんでした。


関ヶ原で東西に内通した「どっちつかず」

慶長5年(1600年)7月、家康が上方を離れた隙に石田三成が挙兵すると、長盛は長束正家・前田玄以とともに7月17日付の「内府ちかひの条々」(家康弾劾状13ヶ条)に連署し、全国大名に送付しました。
毛利輝元を西軍総大将として大坂城に迎え入れる計画の一環です。

ところが長盛は、西軍として弾劾状に署名しながら、同時期に家康家臣の永井直勝に密書を送り、西軍の動向を通報していました。
「今後とも折々に知らせる」と継続的な内通を約束したとされます。

9月15日の関ヶ原本戦では、長盛は毛利輝元とともに大坂城西の丸に3000人を率いて留まり、前線には参加しませんでした。
総大将・輝元を動かせず、西軍全体の行動は停滞したまま敗れました。

9月25日、長盛は出家して家康に謝罪しましたが許されず、大和郡山20万石を全没収されて高野山へ追放。
その後、武蔵国岩槻の高力清長預かりとなって蟄居生活に入りました。


蟄居・大坂の陣・最期

武蔵国岩槻での蟄居は約15年に及びました。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣直前、家康から和睦仲介を依頼されましたが、長盛はこれを断っています。

元和元年(1615年)の大坂夏の陣で、尾張藩主・徳川義直に仕えていた嫡子・増田盛次が豊臣方に加わって討ち死にしました。
この件の連座責任を問われた長盛は自刃を命じられ、1615年(元和元年)に享年71歳で没しました。

墓所は現在の埼玉県新座市・平林寺(金鳳山平林寺)の境内にあります。


まとめ――増田長盛が残したもの

増田長盛の評価は一言では言えません。
太閤検地の実施・朝鮮出兵での兵站・領地統治という「実務の世界」では、確かに卓越した能力を発揮しました。

一方で、関ヶ原という歴史の転換点において、長盛は一貫した政治的スタンスを打ち出せませんでした。
東軍にも西軍にも「保険をかける」行動は、最終的に双方から信用されないという結果をもたらしました。

「有能な実務家が、必ずしも政治の転換期を生き抜けるとは限らない」――増田長盛の生涯はそのことを、71年という時間をかけて証明しています。


参考文献

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次