はじめに
「謀反を起こしたら死罪」——それが戦国時代の常識でした。
ところが、同じ主君に2度も裏切りを繰り返し、その度に許されてしまった武将が実在します。
その名は、北条高広(きたじょうたかひろ)。
越後の龍・上杉謙信に2度刃を向けながら、生き延び続けたこの武将は、いったい何者だったのでしょうか。
歴史に埋もれた「戦国最強のサバイバー」、その生涯を見ていきましょう。

目次
- 北条高広ってどんな人?
- 最初の謀反(1554年)——なぜ死ななかったのか
- 謙信に重用された18年間
- 2度目の謀反と越相同盟での帰参
- 御館の乱——すべてを失う
- 武田・織田・後北条……主君が変わり続けた晩年
- 結局、北条高広とはどんな人物だったのか
- 参考文献
1. 北条高広ってどんな人?
北条高広は、越後国(現在の新潟県)柏崎市あたりを本拠にした戦国武将です。
生まれは1517年頃と伝わります。
まず知っておきたいのは、「北条」という名前についてです。
「ほうじょう」ではなく「きたじょう」と読みます。
有名な小田原の北条氏(後北条氏)とはまったく別の家系で、鎌倉幕府の政所別当・大江広元にさかのぼる名門・越後毛利氏の末裔とされます。
本家の代々の居城は越後北条城(柏崎市)です。
高広は越後国内で一定の領地と家臣団を持つ「国人領主(国衆)」でした。
大名のような圧倒的な権力はないけれど、自分の土地を守り自立して生きる——そんな立場の武士です。
2. 最初の謀反(1554年)——なぜ死ななかったのか
天文23年(1554年)12月、高広は主君・長尾景虎(後の上杉謙信)に対して反乱を起こします。
武田信玄に調略された高広は、居城の北条城に籠城して謙信に反旗を翻しました。
しかし武田の援軍は届かず、翌年には孤立して降伏。
普通なら処刑されて当然の状況です。
しかし謙信は高広を殺しませんでした。
それどころか、所領をそのままにして再び家臣として迎え入れます。
謙信が彼を「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と評したと、後世の資料には記されています。
要するに、「武勇が惜しすぎて殺せなかった」のです。
帰参後の高広は政務にも参加し、謙信の信頼を回復していきます。
3. 謙信に重用された18年間
永禄6年(1563年)頃、謙信は高広を上野国の厩橋城(現在の群馬県前橋市)の城将に任命します。
厩橋城は越後から関東へ出兵するための最重要拠点。
謙信の「関東攻略」の最前線基地です。
そこに、かつて反乱を起こした高広をあえて置いたのは、それだけ高広の実力が信頼に値したからでしょう。
高広は嫡男・景広とともに厩橋城に入り、関東の諸大名と交渉・調整・軍事指揮を担いました。
寺社への保護文書を発行したり、要塞を築いたりと、単なる城番ではなく、地域の統治者として機能していました。
4. 2度目の謀反と越相同盟での帰参
しかし永禄9〜10年(1566〜67年)、高広はまた寝返ります。
関東では、臼井城(千葉県)での合戦敗北をきっかけに、諸将が次々と小田原の後北条氏へ転向していました。
高広もこの流れに乗り、後北条氏に内通。
厩橋城ごと敵方へ移ります。
後北条氏は「北条」という同じ読み方の混乱を避けるため、高広の家を「喜多条」と書くようにしました。
高広自身はこれを嫌い、本来の「毛利」姓を名乗り続けたとされます。
ところが外交環境が変わります。
永禄12年(1569年)6月、武田信玄への対抗のために上杉謙信と後北条氏康が「越相同盟」を結びました。
この同盟条件の中で上野国(関東)は上杉の領地と確認され、北条氏政の仲介によって高広は上杉に3度目の帰参を許されます。
なんと謙信もまた、許したのです。
謙信が書状の中で北条氏政を仮名「ばかもの」と罵倒しながらも、高広だけは手放せなかった。
そこには、現地をまとめられる高広の存在価値がありました。
5. 御館の乱——すべてを失う
天正2年(1574年)に高広は引退し、嫡男・景広に家督を譲って大胡城(群馬県)に隠居します。
しかし天正6年(1578年)3月、上杉謙信が突然この世を去りました。
跡継ぎを巡り、養子の上杉景勝と上杉景虎が対立します(御館の乱)。
景虎は小田原・後北条氏の出身でした。
高広父子は景虎を支持し、越後へ軍を進めます。
しかし冬の到来で後北条の援軍が撤退すると、形勢は逆転しました。
天正7年(1579年)2月1日、嫡男の景広が景勝方の武士に討たれて死去(享年32歳)。
本拠の北条城も落城。
同年3月には景虎が自害し、御館の乱は景勝の勝利で幕を閉じます。
高広はこの乱で越後の本拠と嫡男、そして政治・軍事的な基盤のほぼすべてを失いました。
6. 武田・織田・後北条……主君が変わり続けた晩年
それでも高広は諦めませんでした。
天正7年(1579年)8月、武田勝頼の傘下へ。
天正10年(1582年)3月、武田氏が滅ぶと、今度は織田信長の配下・滝川一益に臣従して厩橋城を渡し、次男を人質に差し出します。
同年6月、本能寺の変で信長が倒れ、滝川一益が後北条軍に敗れると、高広は一益を見捨てて後北条氏に服属。
人質の次男も返してもらいます。
さらに同年12月、真田昌幸が後北条氏から離反して上杉方に転じると、高広もこれに呼応。
後北条氏の命令を拒否し、上杉方として戦い始めます。
しかし今度ばかりは通じませんでした。
後北条氏は当主・北条氏直自ら出陣し、天正11年(1583年)9月に厩橋城は落城。
高広は降伏し、最後の拠点を失います。
それでも高広は前橋周辺に留まり、前橋八幡宮などへの寺社保護文書を発行し続けました。
現在確認できる最後の文書は天正15年(1587年)7月18日付のもの。
この年頃に没したとされますが、死没地・詳細は不明です。
7. 結局、北条高広とはどんな人物だったのか
高広の生涯を「裏切り者」と切り捨てるのは簡単です。
でもそれは半分しか見ていないかもしれません。
彼がやり続けたのは「実務」でした。
城の防衛、地域の寺社保護、家臣への所領安堵、軍事施設の構築——残る文書はすべて、地域をまとめる統治者の仕事を示しています。
主君が変わっても同じことを繰り返した。
それは一族と地域を守るための、冷静な現実主義だったのかもしれません。
比較のために、同時代の揚北衆・新発田重家を見てみましょう。
新発田は景勝政権への怒りから徹底抗戦を続けた結果、一族もろとも滅びました。
高広は玉砕を選ばず、しなやかに生き延びることを選んだ。
義か生存か——どちらが「正しい」かの答えは出ません。
でも、北条氏の血脈が今日まで語り継がれているのは、高広が生き延びたからです。
参考文献
- 「前橋八幡宮文書(H0-16中世)」群馬県立文書館所蔵
- 「上杉家文書(国宝)」米沢市上杉博物館所蔵
- 丸島和洋「上杉氏における国衆の譜代化」戎光祥出版、2018年
- 「デジタル版日本人名大辞典+Plus『北条高広』」コトバンク
- 「教材活用史料詳細カード7 北條高広朱印状 軍役」群馬県立文書館、2023年
- 平山優『天正壬午の乱』(増補改訂版)戎光祥出版、2015年
- 柏崎市「北条城跡(市指定史跡)」柏崎市公式ホームページ

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