栗山利安(善助) | 黒田官兵衛を支えた最強の家臣

目次

はじめに

「死の前夜まで戦場の指揮を叫び続けた武将がいた」——そう聞いたら、どんな人物を想像しますか?

今回紹介するのは、栗山利安(くりやまとしやす)、通称・善助。
黒田官兵衛(孝高)の最側近として、52万石の福岡藩を筆頭家老として支えた戦国武将です。
大きな戦功よりも「初心を忘れない姿勢」で知られ、82歳の死の床でも軍陣の采配を繰り返したという逸話が今も語り継がれています。
彼の生涯は、戦国時代における「プロフェッショナル」とはどういうものかを、現代の私たちにも問いかけてくれます。


栗山利安とは?——簡単なプロフィール

栗山利安は、1550年または1551年に播磨国、現在の兵庫県姫路市付近で生まれたとされる武将です。
通称は善助、のちに備後守を名乗りました。

黒田孝高、いわゆる官兵衛・如水に仕えたことから始まり、その子の黒田長政、さらに孫の黒田忠之まで、黒田家3代にわたって仕えました。
黒田家が小さな播磨の武将から、筑前福岡52万石の大名へと成長していく過程を、最前線で見届けた人物です。

最終的には福岡藩の筆頭家老にあたる一老となり、朝倉郡に1万5,000石を与えられました。
また、黒田家中の精鋭として知られる黒田二十四騎、さらに黒田八虎の筆頭にも数えられています。

生涯で11度の戦場功名を挙げたとされ、1631年、81歳または82歳で死去しました。


黒田官兵衛に仕えた15歳——草創期の仕官

永禄8年(1565年)の夏、栗山利安は15歳で黒田孝高(後の官兵衛)のもとへ出仕しました。
播磨では赤松氏の勢力が衰え、黒田家が台頭しつつある時代です。
利安は家の縁故に頼らず、自分の意志と実力で孝高に近侍することを選びました。

孝高はその正直さと一生懸命な姿勢を認め、「善助」という名を与えたと伝わります。
この草創期から主君の最側近として仕えた経験が、後の強い信頼関係の土台となりました。

同じ黒田八虎の武将・母里友信(太兵衛)とは、孝高の仲立ちで義兄弟の契りを結びます。
豪快で直情的な友信を、冷静で寡黙な利安が補佐するというコンビは、黒田家中を長く支えることになります。


19歳で掴んだ武功——83石と一生忘れられない感激

永禄12年(1569年)、利安は19歳で「青山・土器山の戦い」に臨みました。
龍野城の赤松政秀が孝高の居城・姫路城へ進軍した戦いで、利安は敵の首級を2つ挙げます。
この武功により、孝高から83石の知行地と馬・鎧一式が与えられました。

後年、利安は若者への訓戒としてこう語っています。
「19歳のとき、初めて83石をいただいたことが生涯で最も嬉しかった。豊前の6,000石も筑前の1万5,000石も、大身になるとかえって有り難みを感じなくなった。若者は初心を忘れないように」。

大きな成功を重ねても「最初の喜び」を大切にする。
この姿勢が、利安の人柄を象徴しています。


有岡城救出——主君のために命を懸けた出来事

天正6年(1578年)、黒田孝高は反逆した荒木村重を説得するために有岡城(兵庫県伊丹市)へ向かい、そのまま土牢に幽閉されてしまいます。
主君の消息が1年半もの間不明となった利安たちは、城内の安否確認のために行動を起こしました。

天正7年(1579年)11月、有岡城が落城した際、利安は母里友信とともに土牢へ駆けつけ、衰弱しきった孝高を救出しました。
この救出劇は、『黒田家譜』や『信長記』など複数の史料に記録されています。

なお、商人に変装して城に潜入したという逸話が広く伝わっていますが、この部分については一次史料による確認が困難で、「未確認」の伝承として留意が必要です。

孝高はこの恩に深く感謝し、秘蔵の馬を利安に贈ったと伝えられています。
「主君の最も弱った瞬間に駆けつけた」——この行動が、利安と孝高の信頼をより深いものにしました。


豊前・筑前での活躍——城代から筆頭家老へ

天正16年(1588年)、黒田孝高が豊前国(現・大分・福岡の一部)を与えられると、利安も一気に6,000石へと加増され、平田城の城代(城を管理する責任者)に就任します。
これは単なる武将ではなく、地方の統治全般を任される重職でした。

その後、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍し、晋州城の戦いで武功を挙げています。

関ヶ原の戦い(1600年)の後、黒田長政が筑前国(現・福岡県)52万石に移封されると、利安は筑前六端城の一つ「麻底良城(まてらじょう)」の城主となり、朝倉郡1万5,000石の筆頭家老に就任。
子の利章にも3,300石が与えられ、父子で2万石弱の大身となりました。


関ヶ原と石垣原——激動の1600年

慶長5年(1600年)は、利安にとって二つの重大な仕事を果たした年です。

1. 大坂からの夫人救出

石田三成が大名の妻を人質に取ろうとした際、利安は母里友信とともに黒田家の夫人2人(光姫・栄姫)を大坂の屋敷から極秘で脱出させ、豊前中津まで無事に届けました。
利安自筆の書状(福岡市博物館所蔵)が残っており、史料的に確認できる事実です。

2. 石垣原の戦い

同年9月13日、西軍に呼応した大友義統が豊後(現・大分県)で挙兵しました。
黒田如水(孝高)は3,600人余りの浪人と領民を集めた約9千の軍を編成し、利安・母里友信・井上之房らが指揮を執ります。
大友軍(約2千)との石垣原の戦いで勝利し、9月15日に大友義統は降伏。
この勝利が九州での東軍優位を決定づけました。


質素な暮らしと「困った人を助ける」精神

2万石近くの大身となっても、利安の生活ぶりは変わりませんでした。
道で誰かに会えば必ず馬から降りて挨拶し、身分を問わず礼を失わなかったといいます。

特に印象的なのは、困窮する下級武士への支援です。
利安は生活に困った者に対し、利息なし・催促なし・返済期限なしという条件で金銀を貸し与えました。
その総額は100貫匁に及んだと伝わります(この数字は後世の編纂物による記述で、一次史料の確認は未完了です)。

これは単なる優しさではなく、戦のなくなった時代に収入を得る手段を失いがちな下級武士たちの生活を支え、藩の組織を安定させるための実用的な判断でもありました。


82歳の最期——死の床でも戦場を夢見た男

寛永8年(1631年)8月13日の朝。
82歳の利安は病床で今まさに息を引き取ろうとしていました。
看取りの者たちが枕元に集まると、利安は突然目を開けて大声で叫びます。

「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。あれに敵が出たぞ。あの山に鉄砲を上げて撃たせよ。敵の騎馬が来たら、折り敷いて迎え撃て。わしの采配を見て、慌てず静々とかかれ」

周囲が「かしこまりました」と答えると再び眠り込む。
これを一日に5度繰り返した末、翌日に息を引き取りました。

人々はこの様子に「絶えず軍陣のことを考え、死の間際まで備えを忘れなかった。大剛の人、奇特な一念だ」と感嘆したと伝わります。


まとめ——栗山利安が教えてくれること

栗山利安の生涯を振り返ると、いくつかの共通する姿勢が浮かび上がります。

  • 初心を忘れない:83石の感激を大身になっても語り続けた。
  • 地位に驕らない:筆頭家老でも馬から降りて挨拶し、質素に暮らした。
  • 弱い者を助ける:下級武士への無利息融資は、組織全体を支える視点から行われた。
  • プロとしての一念:死の前夜まで「戦場の采配」を夢見続けた。

400年前の武将の生き方は、現代に生きる私たちに「本当のプロフェッショナルとは何か」を問い続けています。


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参考文献

  • 栗山利安 – Wikipedia
  • 黒田24騎小傳(6)栗山利安 岡部定一郎(福岡城心得館資料)
  • 栗山利安(くりやまとしやす)福岡史伝
  • 福田千鶴「黒田家臣・栗山利安の覚書」九州産業大学国際文化学部紀要 第57号 2014年
  • べっぷの文化財 No.44「石垣原合戦」別府市教育委員会 2014年
  • 黒田家譜(貝原益軒著)
  • 麻底良城の見所と写真——攻城団
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