はじめに
「戦国時代に西軍に負けた大名は、領地を削られる」——これが江戸時代初期の鉄則でした。
しかし薩摩の島津忠恒(家久)は、その常識を完全に打ち破った武将です。
関ヶ原に敗れながら領地を一石も失わず、琉球を征服し、250年続く薩摩藩の基盤を作り上げた男。
いったいどんな人物だったのか、一緒に見ていきましょう。
島津忠恒(家久)ってどんな人?
島津忠恒(しまづ ただつね)は、天正4年(1576年)11月に島津義弘の三男として生まれました。
のちに徳川家康から「家」の一字を拝領して「家久(いえひさ)」と改名しています。
島津家は戦国時代に九州のほぼ全域を支配した強大な一族ですが、豊臣秀吉の九州征伐(1587年)で敗北し、薩摩・大隅・日向の3国に封じ込められていました。
長兄が早世し、次兄・久保も1593年に朝鮮で亡くなったため、忠恒は豊臣秀吉の指名によって後継者に定められます。
若い頃は酒や蹴鞠に明け暮れ、父・義弘から叱責される場面もありました。
しかし、当主としての意識が芽生えてから急速に変わっていきます。
| 基本情報 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 天正4年(1576年)11月 |
| 没年 | 寛永15年(1638年)2月23日、享年62 |
| 父 | 島津義弘(17代当主) |
| 改名 | 1606年、「家久」に改名 |
| 主な業績 | 関ヶ原後の本領安堵、琉球征服、鹿児島城築城、外城制確立 |
泗川の戦い——少数の兵で大軍を撃退
忠恒が武将として名を上げたのは、慶長3年(1598年)10月の泗川(サチョン)の戦いです。
父・義弘とともに守る泗川新城に、明・朝鮮連合軍が押し寄せました。
朝鮮側の公式記録では明軍26,800人・朝鮮軍2,215人の合計約29,000人という大軍です(日本側の島津記録では敵兵20万と伝えますが、現代の研究者の間では数値に誇張があるとされています)。
対する島津軍は約7,000〜8,000人。それでも義弘は、鉄砲の集中射撃と伏兵を巧みに使って迎撃しました。
戦闘中に敵の火薬庫が偶然爆発して混乱が起きると、義弘は城門を開けて総追撃に転じます。
この戦いで忠恒自身も前線で戦い、その武功が認められました。
翌年正月、五大老から5万石の加増と左近衛少将への任官が与えられます。
朝鮮出兵に参加した大名の中で、加増を受けたのは島津家だけでした。
家老を斬った男——伊集院忠棟暗殺
泗川での活躍と同じ時期、島津家内部では深刻な問題が起きていました。
筆頭家老・伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)は、豊臣秀吉から直接8万3,000石余の領地を与えられた「御朱印衆(ごしゅいんしゅう)」でした。
これは島津家の家臣でありながら、豊臣政権から独立した大名に近い扱いを受けることを意味します。
その権勢は島津本家をしのぐほどでした。
慶長4年(1599年)3月9日、忠恒は伏見の島津邸に忠棟を呼び出し、自らの手で斬殺しました。
この行動の詳細な計画については、後世の軍記物間でも「忠恒単独」と「義弘・義久との共謀」で説が割れており、同時代の一次資料による確証はありません。
この暗殺は豊臣政権への反逆と見なされかねない危険な行為でした。
しかし直後に石田三成が政争で失脚し、実権を握った徳川家康がこれを支持したことで、忠恒の罪は事実上うやむやになりました。
忠棟の子・伊集院忠真は国許で反乱を起こしましたが(庄内の乱、1599〜1600年)、家康の調停で降伏。
さらに慶長7年(1602年)、忠真は狩りの最中に忠恒によって射殺され、伊集院一族は島津家から排除されました。
関ヶ原後の2年間の粘り強い外交
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、父・義弘が西軍(石田三成側)として参戦し、敗北します。
義弘は帰国後に謹慎し、交渉は伯父・義久と忠恒が担いました。
徳川方は繰り返し上洛を求めましたが、義久は「病気」を理由に断り続けました。
同時に島津家は国境に臨戦態勢の法度を発布し、武備を絶やしませんでした。これが「武備恭順(ぶびきょうじゅん)」と呼ばれる戦略です——力を持ちながら表向きは従順に振る舞う。
徳川側も遠い薩摩への本格的な遠征には踏み切れず、約2年のにらみ合いが続きます。
慶長7年(1602年)、ついに家康から所領安堵の確約が届きました。
忠恒は伏見城で家康に直接謝罪し、薩摩・大隅・日向の旧領(60万5,000石余)を一石も失うことなく守り切ったのです。毛利が領地を3分の1以下に削られたのとは、まったく異なる結末でした。
琉球征服と藩財政の立て直し
和睦を実現した後も、薩摩の財政は苦しい状態が続きました。
慶長11年(1606年)の検地では、領内の約2割が実質的に年貢を取れない不毛地であることが発覚したとされます。
同年、忠恒は将軍・家康から「家」の一字を受け取り「家久」と改名。
幕府との関係を固めながら、財政危機の打開策として琉球王国への出兵を計画しました。
慶長14年(1609年)3月4日、約3,000人・70〜80隻の軍勢を琉球へ派遣。
奄美大島・徳之島・沖永良部島を制しながら南下し、4月1日に首里城を開城させました。
国王・尚寧が捕虜として薩摩に連行されます。
この征服により、薩摩藩は中国との貿易を琉球を通じて間接的に行う「琉球口(りゅうきゅうぐち)」を独占しました。
幕府の鎖国政策が進む中でも、この交易ルートは幕末まで維持され、薩摩藩に安定した収入をもたらし続けました。
天守のない城——鹿児島城の秘密
慶長6年(1601年)頃、忠恒は鹿児島城(鶴丸城)の築城を始め、慶長9年(1604年)に完成させました。
この城には天守がありません。
重層の石垣も深い濠もない、質素な「居館」スタイルです。77万石(後の表高)もの大大名の本城としては、当時の基準では異例に小さな規模でした。
なぜ天守を建てなかったのか?
一つには「徳川に戦意がない」ことを視覚的に示す政治的演出とみられています。
しかし実際の防御は、背後にそびえる城山(標高107メートル)を山城として整備する「二重構造」になっていました。
見た目は無防備、でも実態は要塞——これが家久の城づくりの哲学でした。
父・義弘は「海岸に近すぎる」として築城に反対しましたが、忠恒はこれを押し切っています。
外城制とは?薩摩独自の統治システム
薩摩藩には他の藩にはない、独特の統治制度がありました。
それが「外城制(とじょうせい)」です。
薩摩藩は武士の割合が全人口の約4分の1という、他の藩とは比べ物にならない高さでした。
これだけの武士を城下町に集めることは、物理的にも財政的にも不可能です。
そこで、領内各地の120か所ほどに「麓(ふもと)」と呼ばれる武家集落を作り、武士を分散して住まわせました。
麓に住む武士(郷士)は、平時は農業などで生活を維持しながら、毎日武芸の練習を欠かさず、いざとなれば地域単位で戦闘部隊を編成できる体制を整えていました。
幕府から「一国一城令」(各藩に城は一つだけという命令)が出された後も、薩摩藩はこの制度を「代官屋敷」と名前を変えて維持し続けました。
この分散型の軍事統治こそ、薩摩藩の強さの秘密の一つです。
父・義弘との対立と後継者問題
家久の人生には、偉大な父・義弘との複雑な関係が常につきまといました。
義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と朝鮮で恐れられた名将です。
鹿児島城の築城にも反対し、隠居後も実質的な影響力を持ち続けました。
義久・義弘・忠恒の「三殿体制」が続くなか、家久が実質的に藩政の主導権を握ったのは、義弘が元和5年(1619年)83歳で亡くなってからとされています。
後継者問題も難題でした。
正室・亀寿との間に実子がなかったため、側室との間にもうけた次男・光久を亀寿の養子に据えることで解決。
この光久が薩摩藩2代藩主となりました。
まとめ——250年の礎
寛永15年(1638年)2月23日、島津家久は62歳で没しました。
殉死者が9名も出るほど家臣の信頼を集めていました。
家久が作り上げた仕組み——外城制・鹿児島城・琉球交易——はそのまま薩摩藩の骨格となり、明治維新(1868年)まで250年以上続きました。
その薩摩藩が幕末に西郷隆盛・大久保利通らを輩出し、日本の歴史を動かしたことを考えると、家久が設計した体制の影響力の大きさがわかります。
「力を持ちながら従順を演じ、内側を着実に固める」——この生存戦略は、時代を超えて示唆に富んでいます。
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参考文献
- 島津家文書(大日本古文書・家わけ第16巻)東京大学史料編纂所
- 鹿児島(鶴丸)城跡、鹿児島県歴史資料センター黎明館
- 外城制度(城下絵図解説)、鹿児島県立図書館
- 薩摩の武士が生きた町(日本遺産ストーリー)文化庁、japan-heritage.bunka.go.jp
- 尚古集成館「島津家歴代当主・第18代家久」、shuseikan.jp
- 新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』KADOKAWA(角川新書)、2021年
- 福田千鶴「大坂冬の陣開戦までの西国大名の動向」九州文化史研究所紀要59号、九州大学、2016年
- 朝鮮宣祖実録(朝鮮王朝実録)宣祖三十一年十月条

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