磯野員昌とは?信長の本陣に迫った浅井軍の猛将・その波乱の生涯

目次

はじめに

「信長の本陣に迫った武将が、最後は農民になった」――こんな人生、想像できますか?

戦国時代、浅井軍の最強先鋒として名を馳せた磯野員昌(いそのかずまさ)。
圧倒的な劣勢の中、姉川の戦いで織田軍の防衛ラインを次々と突破し、信長を恐怖に陥れた猛将です。
しかし信長に降伏した後、構造的な権力の罠にはまり込み、最終的にはすべてを捨てて出奔。
晩年は農民として生きたとされています。
この記事では、磯野員昌の生涯を一緒に振り返ってみましょう。

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磯野員昌 | 信長に認められながら追い出された男|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 信長の本陣に迫りながら、最後は農民として生涯を終えた武将がいます。 浅井氏の猛将・磯野員昌(いそのかずまさ)。 姉川の戦いで圧倒的な劣勢の中、織田軍の複...

目次

  1. 磯野員昌ってどんな人?出身と浅井四翼
  2. 姉川の戦い(1570年)での大活躍
  3. 8か月の籠城と信長への降伏
  4. 織田家臣として高島郡を統治する
  5. 信長が仕掛けた「養子の罠」
  6. 出奔――すべてを捨てた選択
  7. 農民になった元猛将の晩年と子孫

1. 磯野員昌ってどんな人?出身と浅井四翼

磯野員昌は1523年(大永3年)に生まれました。
出身地は近江国伊香郡磯野(現在の滋賀県長浜市高月町磯野)です。

磯野氏は元々、近江の守護大名・京極氏に仕える家でしたが、戦国時代になると北近江を支配した浅井氏の家臣となりました。
員昌は浅井氏の当主・浅井長政に仕え、佐和山城(現在の滋賀県彦根市)を本拠とします。

佐和山城は南近江の六角氏との「境目の城」、つまり最前線の拠点でした。
員昌は対六角氏戦で繰り返し武功を立て、大野木国重・野村定元・三田村秀俊とともに「浅井四翼(あさいよんよく)」と称されるまでになります。
「四翼」とは浅井軍の四本の翼のような存在、つまり主力部隊を支える四人の猛将という意味です。


2. 姉川の戦い(1570年)での大活躍

員昌が最も有名なのは、1570年(元亀元年)6月28日の「姉川の戦い」における活躍です。

この戦いは、浅井長政・朝倉景健連合軍 vs 織田信長・徳川家康連合軍という大合戦でした。
浅井軍は兵力で大きく劣る状況でしたが、員昌は先鋒として出陣し、坂井政尚・池田恒興・羽柴秀吉・柴田勝家といった織田方の有力武将が率いる部隊を次々と突破し、一時は信長の本陣近くまで迫ったとされています。

後世には「姉川十一段崩し」(11段の陣を突破した)として語り継がれますが、この「11段」という数字が登場するのは江戸時代に書かれた軍記物『浅井三代記』が最初で、信長の側近が書いた同時代の記録『信長公記』には載っていません。
ただし、員昌が複数の部隊を突破して信長本陣に迫ったこと自体は、複数の史料で支持されています。

最終的には、徳川軍の増援と西美濃三人衆の反撃に遭い、浅井・朝倉連合軍は敗れました。


3. 8か月の籠城と信長への降伏

姉川の戦いに敗れた後、員昌が守る佐和山城は孤立します。
織田軍が横山城(現・長浜市)を拠点として、佐和山城と浅井本拠・小谷城の連絡路を遮断したからです。

こうして敵中に孤立した状態で、員昌は約8か月もの籠城を続けました。
主君・浅井長政からの援軍は届かず、兵糧も底をつきました。
そして1571年(元亀2年)2月24日、員昌は信長に佐和山城を明け渡して降伏します。
これは『信長公記』に明記されている確かな記録です。

注目すべきは、員昌が「最後まで戦って討ち死にする」という選択をしなかったことです。
家臣団の命を守るために、条件交渉のうえで降伏する道を選びました。
そしてこの判断が、次のステージへの道を開くことになります。


4. 織田家臣として高島郡を統治する

降伏後、信長は員昌を処刑せず、近江国高島郡(現・滋賀県高島市域)を与えて家臣に迎え入れました。
新庄城を居城として、員昌は今度は信長の家臣として高島郡の統治に当たります。

織田家中の主要武将と同等の処遇であり、かつての敵将をここまで厚遇するのは信長ならではの人材活用術です。

員昌はここでも活躍します。
領内の寺社や村落に対して「禁制(掟書)」を発給し、兵士による狼藉や農民からの不当な徴収を禁止するなど、地域の秩序を整えました。
そして1573年(天正元年)には、信長暗殺を企てて逃亡中だった杉谷善住坊を自領内で発見・捕縛して岐阜へ護送します。
この功績は『信長公記』巻6に明記されており、員昌が領内に高度な情報収集網を持っていたことを示しています。
善住坊は後に極刑に処されました。
さらに1575年(天正3年)には、越前一向一揆鎮圧にも参陣しています。


5. 信長が仕掛けた「養子の罠」

活躍する一方で、員昌の足元には深刻な問題が忍び寄っていました。
信長が、自身の甥・津田信澄(おだのぶずみ)を員昌の養子として迎えさせたのです。

これは実質的に、高島郡の支配権を将来的に信長の一族に取り戻すための措置です。
外様(よそから来た)武将の磯野家に、信長の身内を送り込んで内部から管理する、という政治的な戦略でした。

その効果は着実に現れます。
1576年(天正4年)以降、信澄が高島郡で実際に安堵状(支配の文書)を発行するようになり、員昌の実権は徐々に失われていきました。
戦場では誰にも負けない猛将が、組織の構造の中で静かに力を奪われていったのです。


6. 出奔――すべてを捨てた選択

1578年(天正6年)2月3日、ついに決定的な出来事が起きます。
員昌は信長から激しい叱責(御折檻)を受け、その日のうちに出奔しました。

一次史料の『信長公記』には「上意を違背申し、御折檻なされ」とのみ記されており、なぜ叱責されたのかという理由は、今も謎のままです。
「信澄への家督譲渡を拒んだから」という説もありますが、確認できる証拠はありません。

員昌が去った高島郡は、すぐに津田信澄のものとなりました。
長年積み上げた地位・財産・領地のすべてが、この日に消えたのです。


7. 農民になった元猛将の晩年と子孫

出奔後の員昌については、「高野山に逃れて出家した」という説と、「近江に帰って農民として生きた」という説が残っています。
1582年(天正10年)の本能寺の変で信長と信澄がともに死去した後、高島郡に戻って帰農したとも伝えられています。

そして1590年(天正18年)9月10日、享年68で生涯を終えました。

かつて信長の本陣を脅かした猛将の晩年としては、静かすぎる幕引きかもしれません。
しかし、どんな権力にも屈せずに自分の道を歩んだという意味では、彼らしい選択だったとも言えます。

子孫も活躍しています。
員昌の孫・磯野行尚は大坂の陣で武功を立て、娘の息子には日本を代表する茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう)がいます。
また、若年期に員昌に仕えた藤堂高虎は、後に江戸幕府の重要な大名として活躍しました。


参考文献

  • 太田牛一『信長公記』巻3・巻6・巻8・巻11(16世紀末-17世紀初成立)
  • 不詳(著)『浅井三代記』(江戸時代元禄期成立)
  • 成島司直(編)『東照宮御実紀(徳川実紀)』巻2(1809年成立)
  • 磯野太郎・磯野員彦『近江の磯野氏』(1984年)
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反』中央公論新社、2007年
  • 高木昭作監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
  • 高島市『高島市史 第2巻(中世編)』2020年
  • 滋賀県「コラム 磯野員昌と佐和山城・新庄城」滋賀県広報資料
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