吉川広家とは?関ヶ原で軍を動かさなかった武将の真実

目次

はじめに

関ヶ原の戦いで西軍が敗れた原因として、「小早川秀秋の裏切り」がよく知られています。
しかし実はもうひとつ、決定的な要因がありました。
南宮山に集まった約3万の西軍の大部隊が、合戦中ずっと動かなかったことです。

その鍵を握っていたのが、吉川広家という武将でした。
毛利家の家臣でありながら、密かに徳川家康と交渉し、自分の出世よりも主家の存続を優先した人物です。
本家を救ったにもかかわらず「裏切り者」と呼ばれ続けた、この複雑な武将の実像に迫ります。

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吉川広家 | 関ヶ原で軍を動かさなかった男と毛利家の苦難|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 「彼は裏切り者だ」 その言葉は、生涯消えませんでした。 関ヶ原の戦いといえば、多くの方が小早川秀秋の「寝返り」を思い浮かべるかもしれません。 しかし実は、...

目次

  1. 吉川広家はどんな武将?
  2. 意外な形で始まった当主への道
  3. 豊臣政権下での成長
  4. 毛利家を二分した路線対立
  5. 関ヶ原前夜の極秘交渉
  6. 南宮山の「不戦」と「宰相殿の空弁当」
  7. 毛利家を救った嘆願の代償
  8. 岩国での新たな挑戦
  9. 広家が遺したもの
  10. まとめ

1. 吉川広家はどんな武将?

吉川広家(きっかわ ひろいえ、1561〜1625年)は、戦国時代から江戸時代初期を生きた武将です。
祖父は「毛利の策士」と呼ばれる毛利元就、父は毛利家の軍事を支えた名将・吉川元春です。

毛利家には「両川(りょうせん)」と呼ばれる仕組みがありました。
毛利元就が次男を吉川家、三男を小早川家にそれぞれ養子に送り込み、毛利本家を軍事・外交の両方から支えさせる体制です。
吉川家はその軍事担当として毛利家を守ってきました。

広家は元春の三男として生まれましたが、最初は傍流の家格で所領も少なく、若い頃は「うつけ(変わり者)」と言われたこともあったとされています。
それが後に毛利家全体の命運を握る決断を下すことになるのですから、人生とは不思議なものです。


2. 意外な形で始まった当主への道

転機は1586年から1587年にかけて訪れました。
父・元春が九州征伐の途中に病死し、続いて長兄・元長も陣中で急死したのです。
相次ぐ死によって、26歳の広家が急遽、吉川家の当主となりました。

家督を継いだ広家は、毛利輝元から「広」の字を授かり「広家」と名乗ります。
1591年には出雲の月山富田城に入封し、合計14万石を支配するまでになりました。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも実力を示しています。
1597〜98年の蔚山城の戦いでは、加藤清正を救援するため明・朝鮮連合軍と戦い、その功績から豊臣秀吉に「日本槍柱七本」のひとりと称えられました。
武将としての評価は確かなものでした。


3. 豊臣政権下での成長

広家は武将としての能力だけでなく、政治的な判断力にも優れていました。

秀吉が亡くなると(1598年)、毛利家内部では将来の路線をめぐって対立が生まれます。
広家は加藤清正・福島正則・黒田長政ら「武断派」と親しく、「次の天下人は徳川家康だ」という見通しを早くから持っていました。

一方、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊は、石田三成寄りの「豊臣政権を守る路線」を主張していました。
この二人の考え方の違いが、関ヶ原の前夜に決定的な形で表れることになります。


4. 毛利家を二分した路線対立

1600年7月、石田三成らが徳川家康に対して挙兵しました。
この流れの中で、安国寺恵瓊の働きかけによって毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられます。

広家は輝元の大坂城入城を阻止しようとしましたが、間に合いませんでした。
毛利家は事実上、西軍の旗手となってしまいました。

広家の判断は明快でした。
「東軍(家康側)が勝つ。このまま西軍として戦えば、毛利家は滅ぼされる」──
この確信のもと、広家は誰にも知らせず行動を起こします。


5. 関ヶ原前夜の極秘交渉

広家が頼ったのは、旧知の友人・黒田長政でした。
長政を介して家康との秘密交渉を始め、「毛利が西軍に加わらない代わりに、所領を安堵してほしい」という密約を目指しました。
密書は帯紐に隠して運ばれたとされるほど、徹底した秘密工作でした。

慶長5年(1600年)8月の黒田長政・黒田官兵衛からの自筆書状が現在も吉川史料館に保存されており、この交渉の経緯は一次資料で確認できます。

そして9月14日、関ヶ原本戦の前日に決定的な一手を打ちます。
広家は家康の本陣に使者を送り、人質を差し出した上で「毛利軍は参戦しない」と誓約しました。
本多忠勝・井伊直政の連署による血判起請文を受け取り、毛利家の所領安堵を文書で確約させたのです(この起請文の写は現在も吉川史料館に国指定重要文化財として保存されています)。


6. 南宮山の「不戦」と「宰相殿の空弁当」

9月15日、関ヶ原で本戦が始まりました。

南宮山には毛利秀元(約15,000〜16,000人)・安国寺恵瓊(約1,800人)・吉川広家(約4,200人)・長宗我部盛親・長束正家らが集結しており、合計で約3万近い兵力が家康の本陣の背後に位置していました。

広家はこの先陣の位置に自軍を据え、後続部隊が前進できないよう進路を封じ続けました。
出撃命令が繰り返し届きましたが、広家は一切無視しました。

この状況に関して「宰相殿の空弁当」という有名な逸話があります。
毛利秀元が出撃を求める使者に「兵が弁当を食べているので待ってほしい」と答えたというエピソードです。
ただし、この逸話は合戦から50年以上後の資料に登場するもので、当時の一次史料では確認されていません。
広家が意図的に軍を止めたという事実は確かですが、この「弁当」の発言については未確認の伝聞として扱う必要があります。

結果として、約3万の西軍は最後まで傍観するだけとなりました。
小早川秀秋の離反とあわせ、西軍の敗北を決定づけた要因のひとつとなりました。


7. 毛利家を救った嘆願の代償

東軍が勝利した後、予期せぬ問題が発生しました。
大坂城を接収した際、毛利輝元が西軍の作戦に積極的に関わっていたことを示す書状が多数見つかったのです。
「輝元に逆意はなかった」という広家の主張は根拠を失い、家康は密約を撤回しました。

家康の方針は「毛利改易(所領全没収)、広家に周防・長門2か国を与える」というものでした。

しかし広家にとって、これは最悪の結果でした。
目的は自分の取り立てではなく、毛利本家の存続だったからです。

広家は命をかけた嘆願を行います。
自分への恩賞を辞退して「その2か国を輝元父子に与えてほしい」と訴えたのです。
この嘆願が実り、毛利家は改易を免れました。
ただし旧来の120万石から周防・長門2か国(実高29万8千石余)への大幅な減封という厳しい条件がつきました。

広家自身は周防国玖珂・大島郡3万石を毛利家から分与されて岩国に移りました。
家康から独立大名として取り立てる打診もありましたが、広家はこれも断りました。
自分が独立すれば毛利本家の権威を傷つけると判断したからです。

本家を救った人物が「裏切り者」と非難されたのは、その行動が輝元や家中の承認を得ていない独断だったからでした。
広家は生涯この批判に晒されることになります。


8. 岩国での新たな挑戦

岩国(現在の山口県岩国市)に移った広家は、荒れ地を切り拓き新たな領地経営を始めます。

1608年(慶長13年)に岩国城を完成させ、城下町の整備を進めました。
しかし1615年(元和元年)の一国一城令で、完成からわずか7年で城の取り壊しを命じられます。

城がなくなった後も、広家は行政の整備を続けました。
1617年(元和3年)には「吉川氏法度」(188か条)を制定し、税制・農業・訴訟の仕組みから改元の作法まで、領内の法秩序を詳細に定めました。

広家が築いた統治の基盤の上で、後の世代が製紙業(岩国半紙)の発展・錦帯橋の建設(1673年)・農地干拓などを実現させていきます。
3代当主・吉川広嘉が架けた錦帯橋は、現在も岩国市を代表する歴史的建造物として知られています。


9. 広家が遺したもの

寛永2年(1625年)9月21日、広家は満63歳(享年65)で岩国にて没しました。

広家が残した重要な遺産のひとつが「吉川家文書」です。
関ヶ原前後の密約を証明する書状群──「吉川広家覚書案」「黒田長政直筆書状」「本多忠勝・井伊直政起請文写」など──を広家が厳重に保管していたことで、現在も一次資料として吉川史料館に伝わっています。
この文書群2,393点は国の重要文化財に指定されており、関ヶ原の真相を読み解く上で欠かせない史料となっています。


10. まとめ

吉川広家は「裏切り者」と呼ばれましたが、その動機は一貫して「毛利本家の存続」でした。

東軍の勝利を見抜き、密かに家康と交渉を重ね、関ヶ原では自らの判断で西軍を内側から崩しました。
戦後は自分への恩賞を辞退して毛利家の存続を勝ち取り、独立大名への道も断りました。
その行動は徹底して「組織のため」という視点から一貫していました。

なお、広家の決断に関していくつかの点は今も研究者間で論争が続いています。
「不戦の密約」か「実質的な降伏」か、毛利輝元は広家の行動を知っていたか否か、切腹を覚悟した嘆願書の真偽、「宰相殿の空弁当」の史実性──これらはいずれも現時点では確定的な答えが出ていません。

それだけに、吉川広家という人物は今も研究者と歴史ファンを惹きつけ続けています。
単純な「裏切り者」でも「英雄」でもなく、極限の状況の中で組織の存続を選んだ一人の人間の物語として。


参考文献

  • 吉川家文書(国指定重要文化財・吉川史料館所蔵)
  • 光成準治『シリーズ・織豊大名の研究 第4巻 吉川広家』戎光祥出版、2016年
  • 光成準治『毛利輝元』ミネルヴァ書房、2016年
  • 高橋陽介『シン・関ヶ原』講談社現代新書、2025年
  • 岩国市史編纂委員会『岩国市史(通史編)』岩国市、2001年
  • 東京帝国大学文学部史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第九ノ一・二 吉川家文書之一・二』東京帝国大学、1925〜1926年
  • 岩国吉川会「関ケ原不戦の真意は?」 https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/
  • nippon.com「The Battle of Sekigahara」 https://www.nippon.com/en/japan-topics/b06916/
  • 錦帯橋公式サイト「歴史」 https://kintaikyo.iwakuni-city.net/history/history1.html
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