農業で戦国を生き抜いた武将・土居清良とは?日本最古の農書『清良記』をわかりやすく解説

目次

はじめに

「弱者は強者に勝てない」――そう思うのが普通かもしれません。
しかし戦国時代、わずか300人の兵力で大友氏・長宗我部氏といった強大な勢力の攻撃をしのぎ続け、84歳まで生き抜いた小城主がいました。

その名は土居清良(どいきよよし)
現在の愛媛県宇和島市三間町を拠点とした大森城主です。

清良が後世に注目される最大の理由は、「農業」を軍事戦略の中心に据えた点にあります。
彼の事績をまとめた『清良記』第7巻は「日本最古の農書」とも称され、農学・歴史学の両面で高く評価されてきました。

本記事では、土居清良の生涯と農業政策の要点をわかりやすく解説します。

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目次

  1. 土居清良はどんな人?
  2. 三間盆地の地の利と防衛戦略
  3. 農業と軍事をつなぐ「兵農一如」の仕組み
  4. 『清良記』とは何か?
  5. 農書の内容――適地適作と早生品種
  6. 豊臣政権後の晩年と評価
  7. まとめ
  8. 参考文献

1. 土居清良はどんな人?

土居清良は天文15年(1546年)に伊予国宇和郡三間(現・愛媛県宇和島市三間町)で生まれました。
伊予西園寺氏に仕える土豪の家の出身で、「西園寺十五将」の一人に数えられた武将です。

15歳のとき、大友氏の侵攻で祖父らを失い、一時は土佐一条氏のもとに身を寄せます。
その後、功績を積んで大森城主に復帰し、大友・一条・長宗我部氏といった大勢力から三間盆地を守り抜きました。

清良が生涯にわたって治めたのは三間3村・約2,000石という小さな領地。
しかしそこに根を張り、農業と軍事を一体化させることで、乱世を生き延びたのです。


2. 三間盆地の地の利と防衛戦略

清良の強みの一つは、大森城がある三間盆地という地形でした。
東西に細長い小平野を南北の山系が囲み、外部からの侵入路が限られた天然の要害地形です。

清良はこの地形を最大限に活かし、大軍が展開しにくい地の利を活用して持久戦に持ち込みました。
さらに甲賀から鍛冶師を招いて配下300名全員に鉄砲を装備させたと伝えられており、当時の四国では珍しい火力重視の体制を整えました。

天正7年または9年(史料により異なります)には、長宗我部元親の家老・久武親信を岡本城の戦いで撃破。
伊予南部への長宗我部氏の進出を阻んだとされます。


3. 農業と軍事をつなぐ「兵農一如」の仕組み

清良の統治で特筆すべきは、農業を軍事戦略の核心に置いた点です。
配下の兵士は平時は農民として働き、有事には武装して戦う「一両具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半士の存在でした。

この仕組みでは、農業の豊かさが直接、軍事力の強さにつながります。
清良が農政に力を注いだのは、民を豊かにすることが領国を守ることだという確信があったからです。

特に重要な課題は、敵が収穫期前の作物を略奪する「刈田(かりた)」への対応でした。
清良はこれに対し、早生品種の稲を積極的に栽培することを奨励。
敵の来襲前に収穫を終えることで、食糧を守る農業的な防衛策を確立しました。

元亀元年(1570年)の土佐勢来襲では、この農法の成果として、他の西園寺旗下の領地よりはるかに高い収穫率を達成したと『清良記』は記しています。


4. 『清良記』とは何か?

『清良記』は清良の死後、子孫の土居水也らが中心となって編纂した全30巻の軍記物語です。
通説では慶安3年〜承応3年(1650〜1654年)の成立とされています。

なかでも注目されるのが第7巻「親民鑑月集(しんみんかんげつしゅう)」
農業技術や村落経営を体系的に記したこの巻は、「日本最古の農書」として農学・歴史学の両面で評価されてきました。

ただし、奥書には「永禄7年(1564年)」と記されているものの、テキスト内の記述内容から実際の成立はもっと後代と考える研究者もいます。
現在の学界では17世紀後半成立説が有力です。

書名の「親民」は「民に親しむ」という統治理念を示し、清良の農政の根本姿勢を表しています。


5. 農書の内容――適地適作と早生品種

第7巻に記されている農業技術の要点を整理します。

土壌の細かな分類

土壌を「上・中・下」から18段階にまで細分し、各土地の特性に合わせた作物の選び方(適地適作)を指導しています。

品種の多様性によるリスク分散

水稲だけで粳稲60種を含む96種以上の品種を記録。多品種を組み合わせることで、気候や病害による不作リスクを分散させる考え方が貫かれています。

多毛作による耕地の有効活用

早稲品種の収穫後に、そばや早麦を続けて作付けする「1年3作」の記録もあります。
当時の他の農書と比べて水田裏作に積極的な点が、南予農業の地域的な特色として挙げられています。

肥料の工夫

わらび・ぜんまい・海藻など15種の草の活用を記し、土地を豊かに保つための継続的な取り組みを説いています。


6. 豊臣政権後の晩年と評価

天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐後、伊予国は新たな大名のもとに入りました。
清良はいったん所領を安堵されましたが、その後の支配替えの過程で大森城を退去し、土居中村に隠棲します。

藤堂高虎からの仕官の誘いを断り、農村の指導者として静かに余生を送った清良は、寛永6年(1629年)3月24日、84歳で死去しました。

没後には「清良明神」の神号を授けられ、清良神社に祀られました。
その農政の記録は近世の吉田藩でも参照され、農業指導に活用されたと伝えられています。


7. まとめ

土居清良は、小さな領地と少ない兵力でありながら、農業を軍事の基盤として捉え、乱世を生き抜いた戦国武将です。

  • 三間盆地の地形を活かした持久防衛
  • 全員鉄砲装備による火力の確保
  • 早生品種の普及と多毛作による農業生産力の向上
  • 「民に親しむ」という統治理念の実践

これらを一体として推し進めたことが、清良の長い生涯と、後世に「清良明神」として祀られる評価につながりました。

日本最古の農書とも称される『清良記』第7巻の成立をめぐっては、今なお研究が続いています。
しかし確かなことは、この地に農業と地域防衛を一体として実践した人物がいた、という事実です。


参考文献

  • 愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」(土居清良・清良記関連各項)
  • 宇和島市公式サイト「市指定 清良記」
  • 文化遺産オンライン(文化庁)「清良記(高串本)」
  • 永井義瑩『近世農書「清良記」巻七の研究』清文堂出版、2003年
  • 有薗正一郎「『清良記』巻七の水田耕作法に関する一考察」『地理学評論』51巻11号、1978年
  • 農山漁村文化協会『日本農書全集』第10巻「清良記(親民鑑月集)」
  • 山川出版社『山川 日本史小辞典(改訂新版)』「清良記」の項、2016年
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