「賤ヶ岳の七本槍」の生き残り!脇坂安治が乱世を駆け抜け、幕末まで家名を存続できた理由

目次

はじめに

「賤ヶ岳の七本槍」。
戦国時代のファンなら一度は聞いたことがある言葉でしょう。
福島正則や加藤清正など、その名を知らない人はいません。
しかし彼らは、江戸幕府が終わるその日まで家を残すことはできませんでした。
そんな中、脇坂安治(わきさか・やすはる)は幕末まで家を残すことに成功します。
陸の武将から水軍司令官へ、さらには法律で領地を治める近世的な藩主へ——何度もその姿を変えながら73年の生涯を全うした人物です。
なぜ彼は生き残ることができたのか。
その秘密を紐解いていきましょう。

note(ノート)
脇坂安治 | 賤ヶ岳七本槍の「生き残り」|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 戦国時代を生き延びることは、武勇だけでは足りません。 豊臣秀吉の小姓として頭角を現し、「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた7人の若武者たちのその後を追ってみる...

目次

  1. 脇坂安治とはどんな人物か
  2. 「賤ヶ岳の七本槍」として一躍名を上げる
  3. 陸戦武将から水軍司令官への大転身
  4. 閑山島海戦——人生最大の敗北
  5. 関ヶ原の「計算された寝返り」
  6. 大洲藩主として法律を整える
  7. なぜ脇坂家だけが幕末まで続いたのか

1. 脇坂安治とはどんな人物か

脇坂安治は1554年(天文23年)、現在の滋賀県長浜市あたりに生まれました。
出発点は、ごく小さな土地を持つ武家の出身です。
浅井長政に仕えていましたが、浅井家が1573年に滅びると、明智光秀の部下として丹波攻めなどに従事します。
その後、自ら羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)への仕官を願い出て直臣となりました。

最初に与えられた石高はわずか150石。
しかし武勇と機転で着実に出世の階段を上っていきます。
家紋「輪違い紋」の由来も、秀吉との縁から生まれています。
1578年の三木城攻めで武功を立てると、秀吉から白い輪違い紋の入った「赤い母衣(ほろ)」が贈られました。
以後この「脇坂の赤」が、戦場での脇坂隊のシンボルとなっていきます。


2. 「賤ヶ岳の七本槍」として一躍名を上げる

1583年(天正11年)、近江国の賤ヶ岳で羽柴秀吉と柴田勝家が激突しました。
30歳の安治は秀吉の精鋭先駆け部隊の一員として戦い、その武功によって山城国(現在の京都府南部)で3,000石の恩賞を受けます。

ただし、「賤ヶ岳の七本槍」という呼び名は後世の産物です。
最も古い同時代資料(大村由己『天正記』)では感状を受けた者は9名でしたが、うち2名が戦死・早世したため生存者が7人となりました。
「七本槍」という固定した呼称が登場するのは、戦いから約42年後に書かれた小瀬甫庵の『甫庵太閤記』(1625年頃)が初出とされており、江戸時代初期に定着した表現です。


3. 陸戦武将から水軍司令官への大転身

1585年(天正13年)、安治にとって運命の転機が訪れます。
わずか半年の間に摂津1万石→大和2万石→淡路洲本3万石と、3度も領地が替わる異例の加増を受けたのです。

淡路国は大阪湾と瀬戸内海をつなぐ海上交通の要衝でした。
秀吉は安治に水軍の指揮を任せましたが、安治はそれまで完全な「陸の武将」であり、船の操縦経験はありませんでした。
秀吉が求めていたのは「信頼できる人間が率いる水軍」であり、実際の操船は地元の水夫に委ね、安治自身は司令官として機能するスタイルをとりました。

洲本城では在城24年間にわたって大規模な改修が続けられました。
最大の特徴は「登り石垣」の導入です。
山の斜面を縦に走るこの長大な石垣は、朝鮮出兵で安治が学んだ築城技術を国内に持ち帰ったものとされており、全国で現存するのは洲本城・松山城・彦根城の3か所のみです。


4. 閑山島海戦——人生最大の敗北

1592年(文禄元年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)で、安治は最大の試練を迎えます。
秀吉からは九鬼嘉隆・加藤嘉明と協力して朝鮮水軍を討伐するよう命じられていました。
ところが安治は仲間の到着を待たずに単独で出撃してしまいます。

結果は壊滅でした。李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍は「鶴翼の陣(かくよくのじん)」と呼ばれる包囲陣形を展開し、日本艦隊を閑山島沖の広い海域に引き込んで集中砲撃しました。
鶴翼の陣とはU字型に展開して敵を挟み込む陣形です。
朝鮮側の大砲の前に日本側の弓や鉄砲は届かず、73隻のうち59隻を失う壊滅的な敗北を喫しました。

安治自身は命からがら脱出しましたが、陸に上がった約200名の生存者は13日間にわたって松の葉や海藻を食べてしのいだと『脇坂記』は伝えています。
秀吉は激怒して叱責しましたが、処罰は行いませんでした。
この敗戦を教訓に、日本軍はそれ以後の積極的な海上決戦を禁止し、沿岸を守る戦術へと転換しています。


5. 関ヶ原の「計算された寝返り」

1598年(慶長3年)に秀吉が死去すると、政局は急速に不安定になりました。
安治はいち早く徳川家康に接近する道を選び、秀吉死後すぐに家康の邸宅へ駆けつけて親徳川の姿勢を示しました。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、安治は形の上では西軍に属しながら、事前に東軍への内応を約束していました。
現存する一次史料として、関ヶ原直前の8月1日付で家康が安治の息子・安元に宛てた書状があり、事前の内通を裏付けています。

当日、小早川秀秋が西軍を裏切って大谷吉継隊を攻撃し始めると、安治はこれに呼応して西軍武将の部隊を攻撃しました。
同じく寝返った朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の3人は減封や改易(領地没収)の処分を受けました。
しかし安治は所領をそのまま認められたのです。
「大坂滞在中に石田三成の挙兵に遭遇し、不本意ながら西軍に組み込まれた」という事情と、家康との直接的な事前の書状のやり取りが、特別な配慮につながったと研究者たちは分析しています。


6. 大洲藩主として法律を整える

1609年(慶長14年)、安治は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)5万3,500石へと加増移封されました。
新領地に入ってすぐの1610年8月、安治は「給人所法度(きゅうにんしょはっと)」という11か条の法令を制定します。

この法令は当時としては非常に先進的な内容でした。
それまで家臣は自分の領地で年貢の徴収や農民の使役を自由に行っていましたが、安治はこれを厳しく制限します。
年貢の量り取りは藩主が任命する「庄屋(しょうや)」が行うものとし、家臣が勝手に農民の田畑を使ったり、無制限に労働を課したりすることを禁じました。
さらに山林の無断伐採も禁止するなど、自然資源の管理にまで踏み込んでいます。

中世的な「力による支配」から、法と制度に基づく近世的な統治への転換を示すものと評価されており、『愛媛県史』はこれを「近世志向型の明るい」法度と位置づけています。
安治が大洲に在任したのはわずか8年間でしたが、この間に整えられた制度の枠組みは、後継の加藤氏による約250年間の藩政の基礎となりました。


7. なぜ脇坂家は幕末まで続いたのか

賤ヶ岳七本槍の仲間たちの末路は厳しいものでした。
福島正則は1619年に城の無断修理を咎められて改易、加藤清正の後継者も後に取り潰されました。
糟屋武則も関ヶ原での西軍参加により改易されています。
これほど次々と有力大名が消えていく中で、脇坂家は播磨龍野(現在の兵庫県たつの市)5万3,000石の藩主として明治維新まで存続しました。
8代目の安董(やすただ)は寺社奉行28年ののちに老中に就任し、「5万石でも脇坂様は花のお江戸で知恵頭」と称されるほどの存在感を放っています。

その長寿の秘訣は大きく二つに集約できるでしょう。
一つは状況を正確に読む政治的判断力です。
秀吉の死後すぐに家康へ接近し、関ヶ原では周到に内通を準備するなど、常に時代の流れを先読みしていました。
もう一つは法と制度による安定した藩政運営です。
給人所法度に見られるような先進的な統治の取り組みが、徳川政権から見ても「脅威ではなく、模範的な外様大名」として扱われる土台を作りました。

安治は1615年に家督を息子の安元に譲って隠居し、1626年(寛永3年)に73歳で京都にて亡くなりました。
「脇坂の赤」を翻して戦場を駆け抜けた武将は、乱世を生き延びた後、穏やかにその生涯を閉じています。
近江の150石から出発し、幕末まで続く大名家の礎を築いた——その足跡は、戦国時代の「生き残り方」を考える上で、今も多くのことを教えてくれます。


参考文献

  • 大村由己『天正記』柴田合戦記(天正年間)※東京大学史料編纂所データベースで部分閲覧可
  • 小瀬甫庵『甫庵太閤記』(寛永2年頃、約1625年)※国立国会図書館デジタルコレクション
  • 幕府編纂(堀田正敦監修)『寛政重修諸家譜』(1799〜1812年)※国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 李舜臣「見乃梁破倭状」(1592年)※『李忠武公全書』(1795年刊)所収
  • 愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 近世 上』(愛媛県、1986年)
  • 織田祐輔「文禄の役における『船手衆』の動向——脇坂安治を中心に——」(『海南史学』47号、2009年)※CiNii Research
  • 渡邊大門『関ヶ原合戦全史1582-1615』(草思社、2021年)
  • 藤田達生『藤堂高虎論』(塙書房、2018年)
  • 大洲市教育委員会「大洲市歴史的風致維持向上計画」(2010年)
  • 大洲城公式ウェブサイト「歴史・沿革」(大洲市教育委員会、2023年)
  • 洲本市「広報すもと 第215号」(2023年12月)
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