はじめに
信長、秀吉、家康――戦国時代を語るとき、どうしても「天下人」の名前ばかりが浮かびませんか?
でも実は、その陰で畿内(現在の近畿地方)の秩序を一手に担い、将軍を殺し、将軍を立て、信長と真っ向から戦い続けた「縁の下の力持ち」がいました。
その名は石成友通(いわなりともみち)。
三好家の正式な一門(血縁者)ではなかったにもかかわらず、政権の最高意思決定機関に上り詰めた、異色の武将です。
なぜ彼は歴史の教科書に登場しないのか?
その波乱の生涯を、わかりやすく解説します。

目次
- 石成友通って、どんな人?
- 三好三人衆として権力の頂点へ
- 現職将軍を殺す——永禄の変(1565年)
- 勝龍寺城の城主として、行政手腕を発揮
- 織田信長の上洛と、勝龍寺城の落城
- それでも戦い続けた——最後の抵抗
- まとめ:石成友通が体現した「中世の終わり」
1. 石成友通って、どんな人?
石成友通が歴史の史料に初めて登場するのは、1550年のことです。
当時の京都・北野社(きたのしゃ)で起きた大工の職をめぐるトラブルに、調整役として登場しました。
この頃すでに、三好長慶(みよしながよし)という戦国大名の奉行人(ぶぎょうにん=行政を担当する役職者)として働いていました。
「石成」という姓は、現代では「岩成」と書かれることもありますが、当時の公文書では「石成」が正式な表記です。
三好家の本拠地・阿波(現在の徳島県)の出身ではなく、京都周辺で三好氏に登用された人物と考えられています。
いわば、血筋ではなく実力で這い上がったタイプの武将でした。
2. 三好三人衆として権力の頂点へ
1564年、三好政権のトップ・三好長慶が病死します。
後継者の三好義継(みよしよしつぐ)はまだ14〜15歳の少年で、政治を一人で担える状況ではありませんでした。
そこで重臣3名が後見人(こうけんにん=代わりに政務を行う役割)として合議制で政権を運営することになります。
これが「三好三人衆」です。
- 三好長逸(みよしながやす):三好一族の長老
- 三好宗渭(みよしそうい):別名・三好政康
- 石成友通:行政と軍事の専門家
3人の中で友通だけが三好一族の血縁者ではありませんでした。
能力主義で人材を起用するという、三好政権ならではの合理的な側面がよく表れています。
朝廷(天皇の周辺)の記録『御湯殿上日記』では、3人衆の軍勢を「いはなり(石成)」と呼んでおり、当時の朝廷が友通を3人衆の中心人物と認識していた可能性があります。
3. 現職将軍を殺す——永禄の変(1565年)
1565年5月19日、三好三人衆と松永久通(まつながひさみち)らは約1万の軍勢を率いて、京都・二条御所(にじょうごしょ)を急襲。
13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を殺害しました。これを「永禄の変(えいろくのへん)」といいます。
このとき友通は、訴状(そじょう=請願書)を携えて御所の門を叩き、取次役が対応している間に軍勢が侵入するという役割を担いました。
剣豪としても知られた義輝は近臣約30名とともに薙刀と太刀で奮戦しましたが、多勢に無勢で討ち死にしました。
現職将軍を家臣が暗殺するという前代未聞の出来事でした。
ただし、「松永久秀が首謀者」という説は江戸時代以降の俗説であり、最新の学術研究では否定されています。
久秀は事件当日、大和国(現在の奈良県)に在国しており、直接関与していなかったとされます。
その後、三好三人衆は足利義栄(あしかがよしひで)を新しい将軍として擁立(ようりつ=担ぎ上げること)。
1568年2月、義栄は第14代将軍に就任しましたが、京都には入れず摂津の普門寺(現・大阪府高槻市)に滞在したまま、同年中に病死しました。
4. 勝龍寺城の城主として、行政手腕を発揮
友通の能力が最も光るのが、1566年に入城した勝龍寺城(しょうりゅうじじょう、現・京都府長岡京市)の支配です。小畑川と犬川が合流する地点に立つこの城は、京都南西部と西国(山陽・山陰方面)を結ぶ道路が交差する軍事・交通の要所でした。
友通は入城後、敵対していた地元の土豪(どごう=地方の有力者)たちを追放し、獲得した土地を新しい領主に再分配するという思い切った統治を行いました。
歴史研究者の仁木宏氏はこれを「斬新な手法」と評価し、友通を「勝龍寺城の最初の城主」と位置づけています。
それまで「戦のときに土豪が逃げ込む施設」にすぎなかった城を、地域全体を統率する「政治の拠点」へと生まれ変わらせたのです。
5. 織田信長の上洛と、勝龍寺城の落城
1568年9月、織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて大軍で上洛(じょうらく=京都へ向かうこと)してきます。
六角氏の観音寺城(かんのんじじょう)がわずか1日で陥落するなど、三好方の防衛線は次々と崩れました。
しかし友通は勝龍寺城に籠城(ろうじょう=城にこもって戦うこと)し、徹底抗戦します。
信長の先陣が桂川(かつらがわ)を渡って攻め込み、友通側は50余りの首級(しゅきゅう=討ち取った数)を奪われます。
最終的に信長自らが大軍を率いて攻略に向かったため、友通は城を明け渡しました。
注目すべきは、畿内の城が次々と戦わずに降伏する中、友通の勝龍寺城だけが強硬に抵抗したという事実です。
研究者はこれを、友通の西岡支配が成功を収め、地元の土豪たちが結束して戦ったからこそだ、と評価しています。
6. それでも戦い続けた——最後の抵抗
落城後、友通は本拠地・阿波(現・徳島県)に退きますが、反撃の機会をうかがい続けました。
1569年1月には信長の不在をついて京都に再上陸し、将軍義昭の宿所・本圀寺(ほんこくじ)を攻撃しましたが、明智光秀・細川藤孝らに撃退されます。
1571〜72年には信長に一時降伏し、山城国(現・京都府南部)の郡代(ぐんだい=地方行政の長)として6か所の所領を与えられました。
信長は側近への手紙で友通を「表裏なき仁(うらおもてのない誠実な人物)」と評しています。
しかし将軍義昭が反信長包囲網を形成すると、友通は再び信長から離れて義昭側につきました。
そして1573年8月2日、山城淀古城(よどふるしろ)に籠城した友通は、羽柴秀吉らの調略(ちょうりゃく=内側から裏切り者を作り出す戦術)により内応者が出て孤立。
城外に討って出たところを細川藤孝の家臣・下津権内と組み合い、堀に落ちて水中で討ち取られました。
享年43歳と推定されています。
7. まとめ:石成友通が体現した「中世の終わり」
石成友通は、将軍を暗殺し、別の将軍を立て、天下人・信長と全力で戦い、最後まで降伏を拒んだ武将でした。
彼が守ろうとしたのは、合議制(ごうぎせい=複数の人間が話し合いで決める仕組み)と、将軍という権威を軸にした「中世の秩序」でした。
しかしその秩序は、信長の圧倒的な軍事力という「新しい論理」の前に通用しませんでした。友通の敗北は彼個人の限界ではなく、時代そのものの転換点を象徴しています。
血筋ではなく実力で政権の中枢まで上り詰めたその生涯は、戦国時代が単なる「強者が勝つ時代」ではなく、行政・外交・軍事すべてを兼ね備えた人材が求められた時代だったことを教えてくれます。
参考文献
- 天野忠幸 編『戦国遺文 三好氏編』全3巻、東京堂出版、2013〜2015年
- 山科言継『言継卿記』(続群書類従完成会刊本)
- 英俊『多聞院日記』(角川書店版)
- ルイス・フロイス著・松田毅一訳『完訳フロイス日本史』中央公論新社
- 太田牛一『信長公記』(角川文庫版)
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年
- 天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年
- 仁木宏『戦国時代、村と町のかたち』山川出版社、2004年
- 天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編【下】』戎光祥出版、2023年
- 東寺百合文書(京都府立京都学・歴彩館所蔵)https://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/
- 尼崎地域史事典『apedia』三好三人衆の項、尼崎市立地域研究史料館 https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
- 長岡京市教育委員会「歴史日めくり」2018年 https://www.city.nagaokakyo.lg.jp/
- 京都文化博物館「信長上洛」展示解説 https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/nobunagazyouraku450/

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