はじめに
「将軍なのに軍隊がない」――そんな信じがたい状況に置かれた人物が、日本の歴史に実在しました。
室町幕府の最後の将軍・足利義昭です。
兄を暗殺され、各地を放浪し、織田信長に担がれて将軍になったものの、やがて信長と対立して京都を追放されます。
しかし義昭は諦めませんでした。
武力の代わりに「将軍の手紙」を武器にして、全国の大名を動かそうとしたのです。
その波乱に満ちた生涯を、わかりやすくたどってみましょう。

目次
- 添付記事間の矛盾点・数値の食い違い
- 兄の暗殺と脱出劇──将軍候補になるまで
- 信長との上洛──第15代将軍に就任
- 蜜月から対立へ──殿中御掟と異見十七ヶ条
- 信長包囲網──手紙で作った軍事同盟
- 京都追放と鞆幕府──亡命先でも将軍であり続けた11年間
- 秀吉のもとでの晩年──幕府の終焉
- まとめ──義昭が歴史に残した意味
- 参考文献
兄の暗殺と脱出劇──将軍候補になるまで
足利義昭は1537年、室町幕府12代将軍・足利義晴の次男として京都に生まれました。
将軍家の次男は仏門に入る慣例があったため、6歳で奈良の興福寺一乗院に入り「覚慶」と名乗ります。
運命が一変したのは1565年のことです。
兄で13代将軍の足利義輝が、三好三人衆や松永久通らに二条御所で殺害されました(永禄の変)。
襲撃側の兵力は約1万〜1万2000人、義輝方はわずか約200人だったと伝わります。
母の慶寿院や弟の周暠も命を落とし、覚慶は幽閉されてしまいました。
しかし同年7月28日、家臣の細川藤孝や和田惟政らが救出計画を実行します。
米田求政が番兵に酒を飲ませて酔わせ、覚慶は奈良を脱出。
伊賀を経由して近江の和田惟政のもとへたどり着きました。
脱出後すぐに覚慶は行動を開始します。
上杉謙信、毛利元就、朝倉義景など有力大名に手紙(御内書)を送り、幕府の再興への協力を求めました。
1566年には還俗して「義秋」と名乗り、朝廷から次期将軍が就く官職である左馬頭に叙任されています。
その後、越前の朝倉義景のもとで「義昭」と改名しましたが、義景は上洛に消極的でした。
信長との上洛──第15代将軍に就任
朝倉義景に見切りをつけた義昭は、1568年7月、美濃の織田信長のもとへ移りました。
信長にとっても義昭を奉じることは大きなメリットがあります
。「将軍を助けて幕府を再興する」という大義名分を得られるからです。
同年9月、信長は軍を率いて上洛を開始しました。近江の六角義賢を観音寺城の戦いで破り、畿内の三好三人衆も排除します。
そして10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて第15代征夷大将軍に就任しました。
約3年間の放浪生活に終止符が打たれた瞬間でした。
興味深いのは、当時の人々が信長を「義昭のお供の一人」と見なしていた点です。
この時点では将軍の権威と信長の軍事力が補い合う、いわば共同経営のような関係が成り立っていました。
蜜月から対立へ──殿中御掟と異見十七ヶ条
しかし、この協力関係は長く続きません。
1569年1月、信長は義昭に「殿中御掟」9か条と追加7か条を提示しました。
これは訴訟手続きの正規化や殿中出入りの制限などを定めた文書です。
この文書の性質については研究者の間で見解が分かれています。
かつては「信長が将軍を傀儡にするための制限」と解釈されていましたが、近年では「幕府の先例を条文化した双方の合意文書」とする再解釈も有力になっています。
さらに1572年、信長は義昭に「異見十七ヶ条」を突きつけました。
朝廷への奉仕を怠っていること、金銀を私的に蓄えていることなど、義昭の失政を17項目にわたって批判する内容です。
文書の冒頭で暗殺された義輝に、末尾で暗殺された6代義教に触れており、暗に生命の危険を示唆する脅迫的な性格も指摘されています。
信長包囲網──手紙で作った軍事同盟
義昭は武力では信長にかないません。
そこで彼が頼ったのが「御内書」、つまり将軍の公式な手紙でした。武田信玄、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、浅井長政、朝倉義景など、東北から九州に至る大名に書状を送り、信長に対抗する軍事ネットワーク「信長包囲網」を組織したのです。
将軍の手紙を受け取ることは、大名にとって自分の行動が「天下の正義」であるという証明を得ることを意味しました。
義昭の手紙は単なる依頼状ではなく、大名たちに大義名分を与える政治的ツールとして機能したのです。
1572年末、武田信玄が西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破します。
この勝報に勢いづいた義昭は1573年2月、二条城で挙兵しました。
しかし信玄は翌4月に病死。最大の軍事的後ろ盾を失った義昭は、7月に槇島城で信長の大軍に包囲されて降伏しました。
義昭方の兵力は約3700人、対する信長方は約7万人。圧倒的な兵力差でした。
京都追放と鞆幕府──亡命先でも将軍であり続けた11年間
重要な点は、義昭は京都を追放されたものの、朝廷から将軍を解任されてはいなかったということです。
彼は依然として正式な征夷大将軍であり続けました。
1576年、義昭は毛利輝元を頼って備後国の鞆の浦(現在の広島県福山市)に移り住みます。
ここで約11年間にわたって亡命政権を運営しました。
研究者の藤田達生氏はこの政権を「鞆幕府」と名づけています。
鞆幕府では、奉公衆や奉行衆など50人以上の幕臣が義昭に仕え、一族・家臣を含めると100名を超える組織が維持されました。
義昭は毛利輝元を副将軍に任命し、京都五山の住持任命権(将軍の専権事項)を行使し、各地の大名に栄典を授与するなど、幕府としての機能を保ち続けたのです。
ただし「鞆幕府」の評価は研究者の間で分かれており、独自の軍事力を欠いた「ハリボテ」に過ぎなかったとする批判的な見方も存在します。
秀吉のもとでの晩年──幕府の終焉
1588年1月13日、義昭は豊臣秀吉とともに参内し、征夷大将軍の地位を朝廷に返上しました。
在職期間は約20年間、そのうち15年間は京都不在という異例の将軍職でした。
出家して「昌山道休」と号した義昭は、准三后(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる待遇)に叙任され、秀吉から山城国槇島1万石を与えられています。
晩年の義昭は秀吉の御伽衆として大名格の待遇を受けました。
1592年の文禄の役では旧奉公衆約200名を率いて肥前名護屋城に参陣しています。
1597年8月28日、義昭は大坂で亡くなりました。享年61(数え年)。歴代15代の足利将軍のなかで最も長く生きた人物でした。
まとめ──義昭が歴史に残した意味
足利義昭は、軍事力を持たないまま「将軍の権威」だけで20年間戦い続けた人物でした。
御内書という手紙を武器に全国の大名を動かし、信長包囲網を組織する手腕は見事なものです。
しかし、その権威は独自の軍事力や経済基盤に裏打ちされていなかったため、最終的には限界を迎えました。
義昭の生涯は、「権威」と「実力」の関係を考えるうえで非常に示唆的です。
伝統的な権威だけでは、実力主義の時代を乗り越えられなかった――室町幕府が最後に突きつけられたこの現実は、現代を生きる私たちにとっても考えさせられるテーマではないでしょうか。
参考文献
- 太田牛一著・桑田忠親校注『信長公記』(新訂版)新人物往来社、1997年
- 山科言継『言継卿記』(新訂増補版)続群書類従完成会/八木書店、1965-1972年
- 英俊ほか『多聞院日記』(竹内理三編、増補続史料大成第38-42巻)臨川書店、1978年
- 奥野高広『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館、1988年
- 久野雅司編著『足利義昭』(シリーズ・室町幕府の研究 第2巻)戎光祥出版、2015年
- 久野雅司『足利義昭と織田信長──傀儡政権の虚像』(中世武士選書40)戎光祥出版、2017年
- 黒嶋敏『天下人と二人の将軍 信長と足利義輝・義昭』平凡社、2020年
- 藤田達生「『鞆幕府』論」『芸備地方史研究』268・269号、2010年
- 福山市鞆の浦歴史民俗資料館『鞆幕府 将軍足利義昭 瀬戸内・海城・水軍』展示図録、2020年
- 水野嶺『戦国末期の足利将軍権力』吉川弘文館、2020年
- 奥野高広『足利義昭』(人物叢書 新装版)吉川弘文館、1990年

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