はじめに
戦国時代から江戸時代初期にかけて、豊臣秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と称賛された武将がいました。
関ヶ原の戦いで西軍に属して領地を失いながらも、その武勇と人格により徳川家からも評価され、ついには旧領への復帰を果たした唯一の大名―それが立花宗茂です。
彼の生涯は、武士の「義」と「品格」が、時に実利的な判断を超えて運命を切り開く力となることを示しています。
では、なぜ宗茂だけが奇跡的な復活を遂げられたのでしょうか。
その波瀾万丈の人生を追ってみましょう。

目次
- 立花宗茂の誕生と二人の父
- 能力主義による養子縁組
- 若き日の戦功―島津軍を撃退
- 豊臣秀吉からの破格の評価
- 関ヶ原での「義」の選択
- 浪人時代の品格
- 徳川家への仕官と奇跡の旧領復帰
- 統治者としての宗茂
1. 立花宗茂の誕生と二人の父
立花宗茂は1567年頃、豊後国(現在の大分県)で大友氏の重臣・高橋紹運の長男として誕生しました。
幼名は千熊丸、元服後は高橋統虎と名乗ります。
当時の九州は大友氏、島津氏、龍造寺氏が覇権を争う戦乱の時代でした。
2. 能力主義による養子縁組
1581年、宗茂の運命を変える出来事が起こります。
大友氏の名将・立花道雪(戸次鑑連)が、実子に恵まれず、宗茂の才能を見込んで養子に迎えたのです。
道雪は何度も高橋紹運に懇願し、最終的に宗茂は道雪の娘・誾千代と婚姻して立花家を継ぎました。
これは戦国時代における「能力主義」の典型例とされています。
血縁よりも実力を重視した人材登用は、立花家の存続と発展につながりました。
わずか15歳前後で家督を継いだ宗茂は、二人の父から厳しい薫陶を受け、武勇と知略を磨いていきます。
3. 若き日の戦功―島津軍を撃退
1586年、宗茂19歳のとき、人生最大の試練が訪れます。
島津軍が筑前に侵攻し、実父・高橋紹運が守る岩屋城を包囲したのです。
紹運は約700名の寡兵で島津軍2万から5万という圧倒的な大軍に対し、14日間の籠城戦を展開。
7月27日、全員討死という壮烈な最期を遂げました。
一方、宗茂は立花山城で約1000の手勢しかいない中、島津軍の包囲を受けます。
しかし彼は、火計、夜襲、機動的防御という複合的な戦術で島津軍を翻弄。
ついには大損害を与えて撃退し、父の仇である岩屋城の奪還にも成功しました。
10代後半でこの武功は「鬼神の如し」と評され、宗茂の武名は九州中に轟きます。
4. 豊臣秀吉からの破格の評価
1587年、豊臣秀吉の九州征伐が始まると、宗茂は豊臣軍の先鋒として活躍します。
竹迫城、宇土城など島津方の拠点を次々と攻略した功績により、秀吉は宗茂を大友家から独立させ、筑後柳川13万2000石の大名に取り立てました。
これは、陪臣だった宗茂を直臣の大名へと引き上げる異例の抜擢でした。
秀吉は宗茂について「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と賞賛したと伝えられています。
さらに1590年の小田原征伐では、東国無双の本多忠勝と宗茂を左右に並ばせ、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と諸大名の前で宣言しました。
1592年から始まった朝鮮出兵でも、宗茂は碧蹄館の戦いで先鋒を務め、明軍を撃退する大功を立てます。
秀吉から「日本無双の勇将」との感状を受け、同僚の加藤清正からも「日本一の勇者」と称えられました。
5. 関ヶ原での「義」の選択
1600年、関ヶ原の戦いを前に、宗茂は重大な決断を迫られます。
徳川家康は宗茂に東軍への参加を促し、莫大な恩賞を約束しました。
家臣団からも東軍参加の進言がありましたが、宗茂は断固として拒否します。
「秀吉公の恩義を忘れて徳川殿に味方するくらいなら、命を絶った方がよい」
彼にとって、自分を陪臣から独立大名へ引き上げてくれた秀吉への恩義は、何よりも重いものでした。
宗茂は西軍に参加し、大津城攻めで戦果を挙げますが、関ヶ原本戦には間に合いませんでした。
西軍の敗北により、宗茂は13万2000石の領地を失い、改易処分となります。
6. 浪人時代の品格
領地を失った宗茂は浪人となりますが、その品格を失うことはありませんでした。
加藤清正や前田利長から仕官の誘いを受けましたが、容易には応じません。
京都での困窮生活の中でも、宗茂は剣術(タイ捨流免許皆伝)、弓術(日置流)などの武芸を磨き続け、茶道や能楽にも通じる文化人としての素養を高めました。
興味深いのは、かつての敵将たちが宗茂を支援したことです。
加藤清正は宗茂を客分として迎え、島津義弘も援助を申し出ています。
これは、宗茂が戦場での敵対者に対しても遺恨を残さない振る舞いをしていたことを示しています。
7. 徳川家への仕官と奇跡の旧領復帰
1603年、本多忠勝の強い推挙により、宗茂は徳川家に召し出されます。
5000石の御書院番頭(将軍親衛隊長格)という破格の待遇でした。
1606年には陸奥棚倉1万石で大名に復帰し、その後3万石まで加増されます。
そして1620年、奇跡が起こります。
筑後柳川藩主・田中忠政が嗣子なく死去し、宗茂は旧領である柳川10万9200石(資料により10万9600石)への再封を命じられたのです。
関ヶ原で西軍に属して改易された大名が旧領に復帰した例は、日本史上、立花宗茂ただ一人です。
8. 統治者としての宗茂
柳川藩主として復帰した宗茂は、優れた統治者としての顔も見せます。
治水工事を指揮し、干拓事業により約2000町(約2000ヘクタール)の農地を造成。
これにより藩の経済基盤が強化されました。
晩年、軍法を問われた宗茂は次のように答えています。
「特別な軍法は用いない。常に兵士を公平に扱い、慈悲を与え、法に背く者は法に従って対処する。そうすれば戦いの際、みな一命を投げ出して力戦してくれる」
1637年、70歳を超えた宗茂は島原の乱に出陣し、松平信綱の軍事顧問として活躍。
「武神再来」と称賛されました。1643年1月15日(旧暦1642年11月25日)、江戸柳原の藩邸にて76歳で死去。
遺骸は筑後柳川の福厳寺に葬られました。
立花宗茂の生涯は、武勇だけでなく、義を貫く姿勢と品格が、時代を超えて人々から敬愛される理由を教えてくれます。
関ヶ原での「敗北」すら、最終的には彼の人生における勝利へと転じたのです。
参考文献
- 立花家文書(国指定重要文化財)立花家史料館蔵・柳川古文書館寄託
- 大友家文書(国指定重要文化財)立花家史料館蔵・柳川古文書館寄託
- 『明良洪範』続篇 真田増誉著(享保年間)
- 『名将言行録』岡谷繁実編(1869年)
- 『徳川実紀』徳川幕府編纂(1809-1849年)
- 『柳川市史通史編「近世大名立花家」』中野等・穴井綾香著(2012年)
- Kenneth M. Swope, “A Dragon’s Head and a Serpent’s Tail” (2009年)
- 『立花宗茂(人物叢書)』中野等著
- 柳川市公式資料「柳川再封と治水・干拓事業」
- 文化遺産オンライン「立花家文書」解説

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