はじめに
「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた男、斎藤道三。
油売りから戦国大名へと成り上がった伝説は、多くの人の心を捉えてきました。
しかし、この華々しい物語には大きな誤解があったのです。
1973年に発見された古文書によって、道三の「国盗り」は一代ではなく、父子二代にわたる壮大なプロジェクトだったことが明らかになりました。
謀略と実力で既存の秩序を覆し、ついには一国の主となった道三。
その手法は残酷で冷徹でしたが、同時に経済改革や都市計画といった先進的な施策も実行していました。
本記事では、戦国時代を象徴する「下剋上」の実像に迫ります。

目次
- 父子二代で成し遂げた野望
- 名前を変えて階段を上る
- 稲葉山城と経済改革
- 織田信長という「投資先」
- 下剋上の代償
- 道三が遺したもの
1. 父子二代で成し遂げた野望
斎藤道三の「国盗り」は、実は父の代から始まっていました。
道三の父・長井新左衛門尉は、京都の僧侶から還俗し、美濃に下向した人物です。
商業活動で資本を蓄積した後、美濃守護代の家臣である長井長弘に仕官しました。
父は着実に実績を積み、やがて「長井」の名を名乗るほどに出世します。
そして1530年頃、主君・長井長弘を越前の土岐政頼との内通を口実に殺害し、長井家の実権を掌握しました。
この時点で既に、下剋上の第一段階は完了していたのです。
1533年頃、父の死後に家督を継いだのが道三本人でした。
道三は父が築いた基盤を引き継ぎ、さらに大胆な策略を重ねていきます。
この「父子二代説」を明らかにしたのが、近江の六角承禎が1560年に記した「六角承禎条書写」という史料です。
この発見によって、江戸時代から語り継がれてきた「一代での成り上がり」という物語は修正を余儀なくされました。
2. 名前を変えて階段を上る
道三の権力掌握の過程で特徴的なのが、段階的な「名跡継承」です。
彼は出世の段階に応じて、戦略的に名前を変えていきました。
最初は「長井規秀」として父の地位を継承します。
1533年には長井景弘との連署で文書を発給していますが、翌年以降は景弘の名が史料から消え、道三の単独発給となります。
景弘が失脚または変死したと推測されますが、この経緯も道三の謀略であった可能性が高いでしょう。
次の転機は1538年でした。美濃守護代の斎藤利良が病死すると、道三はその名跡を継いで「斎藤新九郎利政」と改名しました。
これは単なる改名ではありません。
当時の社会では、名前は法的・社会的ステータスを保証する「ブランド」そのものでした。道
三は由緒ある「斎藤」という看板を手に入れることで、支配の正当性を獲得したのです。
しかし、このような手法には副作用もありました。
道三は実力で成り上がった人物であり、伝統的な血統による権威を持ちません。
家臣団の中には表向き従いつつも、内心では「商人の子」と軽蔑する者も少なくなかったと考えられます。
3. 稲葉山城と経済改革
道三の革新性は、軍事力だけでなく経済政策にも表れています。
1539年、道三は稲葉山城の大改築に着手しました。
山頂に堅固な城を築く一方、麓の井ノ口に計画的な城下町を造成したのです。
特筆すべきは、道三が「楽市楽座」という先進的な経済政策を実施したことです。
既存の商工業者の独占権(座)を廃止し、自由な商取引を認めました。
この政策は一般に織田信長の業績として知られていますが、実は道三が先駆けて実行していたのです。
楽市政策によって井ノ口には各地から商人が集まり、美濃随一の商業都市へと発展しました。
経済的繁栄は莫大な富をもたらし、道三は自前の常備兵を養える財力を蓄えます。
当時の戦国大名が在地武士団に依存していたのに対し、道三は独立した軍事力を持つことで、より強固な支配体制を築くことができました。
道三はまた、城下に伊奈波神社を移転させるなど、宗教的な求心力の統合にも配慮しています。
軍事・経済・宗教を一体化させた都市設計は、当時としては画期的なものでした。
4. 織田信長という「投資先」
道三の慧眼を示すエピソードとして有名なのが、1553年の聖徳寺での織田信長との会見です。
当時の信長は「大うつけ(大馬鹿者)」と評され、奇抜な服装や行動で周囲を呆れさせていました。
道三は信長を笑い者にしようと、家臣700〜800人を正装させて待ち構えます。
ところが信長は、三間半(約6.4メートル)の朱槍500本、弓・鉄砲500挺を率いる供回り700〜800人を従え、虎革・豹革の半袴という異形の出で立ちで現れました。
会見後の帰路、家臣が「どう見ても信長は馬鹿者でしたな」と言うと、道三はこう答えたといいます。
「無念なことだ。この山城(道三自身)の子供たちは、あのたわけの門外に馬を繋ぐ(家臣になる)ことになるだろう」
道三は信長の本質を見抜いていました。
血縁や家格よりも実力や将来性を冷徹に評価する選球眼―それは道三自身が実力で成り上がった者だからこそ持ち得た視点だったのでしょう。
1549年、道三は娘の濃姫(帰蝶)を信長に嫁がせ、織田家との同盟を結んでいました。
この政略結婚は、南方の軍事的脅威を排除するとともに、将来への「投資」でもあったのです。
5. 下剋上の代償
道三の下剋上は、やがて彼自身に跳ね返ってきます。
最大の脅威となったのが、実子である斎藤義龍でした。
道三は義龍を後継者としながらも、弟の孫四郎や喜平次を溺愛していました。
義龍は自分が父の傀儡に過ぎず、いずれ弟に家督を奪われるのではないかという疑心暗鬼に駆られます。
1555年11月、義龍は病と偽って弟二人を稲葉山城に呼び寄せ、殺害しました。
さらに「范可(はんか)」と改名します。
これは中国・唐代に父王を殺めた故事の人物名であり、明白な宣戦布告でした。
ここで重要なのは、美濃国内のほとんどの武将が義龍側についたという事実です。
西美濃三人衆と呼ばれた稲葉良通、氏家直元、安藤守就らは、もともと土岐氏の家臣でした。
彼らは道三が守護・土岐頼芸を追放したことを内心では不信に思っており、義龍に「不忠者・道三を成敗する」という大義名分が与えられると、こぞって義龍側に加担したのです。
1556年4月20日、長良川河畔で決戦が行われました。
道三軍はわずか2,500〜2,700人、対する義龍軍は17,000人を超える圧倒的兵力差でした。
道三は奮戦しましたが、多勢に無勢。
ついに討ち取られ、享年63歳(または53歳)でこの世を去りました。
この数字は、道三が実力で国を奪取しながらも、家臣団の「心からの心服」を得られなかったことを如実に示しています。
下剋上の成功は、同時に統治の脆弱性をもたらしたのです。
6. 道三が遺したもの
しかし道三は、ただでは死にませんでした。
決戦の直前、道三は織田信長に宛てて「美濃国譲り状」を送ったとされます。
これは「美濃一国を織田信長に任せる」という内容で、義龍の正統性を否定し、信長に美濃侵攻の法的根拠を与えるものでした。
この譲り状の真偽については議論がありますが、道三の遺言状にその存在が記されており、歴史的事実として認められています。
道三は自らの敗北を予見しつつ、信長という「投資先」に最後の布石を打ったのです。
実際、道三の死から11年後の1567年、織田信長は稲葉山城を攻略し、美濃を平定しました。
信長は城と城下町の名を「岐阜」と改め、天下布武の本拠地としました。
道三が築いた経済基盤、都市設計、商業ネットワークは、そのまま信長に継承され、天下統一事業の土台となったのです。
道三の生涯は、実力主義による「下剋上」の可能性と限界を示しています。
伝統的な秩序を破壊して成り上がった者は、新たな正統性を確立することに苦しみます。
しかし同時に、道三が実践した「経済と軍事の融合」「実力本位の人材評価」という思想は、彼自身の死を超えて戦国時代を動かす原動力となりました。
「美濃の蝮」という異名は、実は近代の小説で生まれた創作です。
しかし道三が見せた冷徹な合理主義と、その光と影は、今なお私たちに多くの示唆を与え続けているのです。
参考文献
- 六角承禎条目写(春日家文書)、草津市所蔵、1560年
- 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興―戦国美濃の下克上』戎光祥出版、2015年
- 木下聡『斎藤氏四代―人天を守護し、仏想を伝えず』ミネルヴァ書房、2020年
- 太田牛一『信長公記』角川文庫版(奥野高広・岩沢愿彦校注)、1969年
- 岐阜県『岐阜県史 史料編 古代・中世四』1973年
- 岐阜市歴史博物館だより No.121、2025年
- 草津市「六角承禎条目写」解説資料、2020年
- 松田亮『斎藤道三文書之研究』私家版、1974年

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