はじめに
戦国時代、織田信長の家臣といえば柴田勝家や羽柴秀吉の名が真っ先に思い浮かぶでしょう。
しかし、信長が最も信頼し「友であり、兄弟である」とまで評した武将がいたことをご存じでしょうか。
その名は丹羽長秀。
「米五郎左」という愛称で呼ばれ、米のように「毎日の食事に欠かせない存在」として織田政権を支え続けた実務型武将です。
安土城という史上空前の巨城建設を3年で完成させ、若狭国主として初の国持大名となり、本能寺の変後は豊臣政権樹立に貢献した長秀。
その多彩な才能と誠実な人柄は、激動の戦国時代において稀有な輝きを放っていました。
本記事では、この「縁の下の力持ち」とも呼ぶべき名宿老の生涯を、史実に基づいて紐解いていきます。

目次
- 信長に仕えた若き日々
- 織田家臣初の国持大名へ
- 安土城築城の総責任者
- 本能寺の変と冷静な判断
- 清須会議での重要な選択
- 豊臣政権下での晩年
- 歴史が伝える長秀の人物像
1. 信長に仕えた若き日々
丹羽長秀は天文4年(1535年)、尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。
天文19年(1550年)頃、15歳前後で織田信長に仕え始めます。
長秀が信長から深い信頼を得ていたことは、「長秀」という名前そのものが証明しています。
「長」の字は信長から賜った偏諱(主君が家臣に自分の名の一字を与えること)で、同様の例は金森長近のみという特例でした。
これは信長の長秀に対する格別の信頼を示すものといえるでしょう。
永禄4年(1561年)以降の美濃斉藤氏攻略戦で武功を重ねた長秀は、次第に信長の側近として地位を確立していきます。
当時、織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評が流行しました。
「米五郎左」とは長秀を指し、米のように地味ではあるものの日々の生活に欠かせない存在、つまりどのような任務でもこなす万能の実務能力を表現したものです。
2. 織田家臣初の国持大名へ
天正元年(1573年)、織田軍は越前の朝倉義景を討ち、若狭守護武田氏も滅ぼしました。
この功績により、長秀は若狭国(現在の福井県南西部、約10万石)を与えられます。
これは織田家臣として初めて一国を領有する国持大名となった画期的な出来事でした。
長秀は領国経営においても卓越した手腕を発揮します。
入部直後の1573年9月、小浜の長源寺や若狭彦神社に禁制(戦乱での狼藉を禁じる命令書)を発給し、動揺していた地域社会に秩序をもたらしました。
さらに注目すべきは、検地(土地調査)への着手です。
長秀は領内の田畑面積や石高を測量して把握し、年貢量や知行配分の基準を定める行政改革に取り組みました。
これは後の太閤検地に先駆ける先進的な施策といえます。
若狭では旧守護代家臣たちの独立性を一定程度認めつつも、長秀自身が国全体の治安維持や物流統制の主導権を握る巧みな統治を行いました。
その結果、特筆すべき一揆や反乱も起きず、安定した領国運営が実現されています。
3. 安土城築城の総責任者
天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖東岸の安土山に新城の築城を命じ、長秀を総奉行(最高責任者)に任命しました。
これは日本の城郭史に残る一大プロジェクトとなります。
長秀は職人集団の統率、物資調達、工程管理のすべてを統括する役割を担いました。
大工棟梁には岡部又右衛門、石垣築造には近江坂本の穴太衆という専門技術者を配置し、美濃や山田の山中から材木を伐採して琵琶湖の水運で輸送する兵站網を構築しています。
『信長公記』によれば、巨石運搬では「昼夜、山も谷も動かんばかり」の熱気で1万人を動員したと伝えられます。
天主は望楼型5重6階地下1階、高さ約32mという前例のない規模で、天正7年(1579年)5月に完成しました。
わずか3年強という短期間での完成は、長秀の優れたプロジェクトマネジメント能力の証といえるでしょう。
築城完成後、長秀は褒美として村田珠光旧蔵の「珠光茶碗」を信長より下賜されました。
この安土城建設の成功により、長秀の実務家としての評価は不動のものとなります。
4. 本能寺の変と冷静な判断
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発しました。
このとき長秀は四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将として大坂に滞在中でした。
総大将は織田信孝(信長三男)で、派遣軍は約14,000人の規模でしたが、変報により計画は中止となります。
変報到達後、派遣軍は混乱して瓦解しました。
ここで長秀が示したのは、冷静な状況判断です。
まず明智光秀の娘婿である津田信澄を大坂・野田城で攻撃して自刃させ、背後の不安要素を排除しました。
次に長秀は、少数の兵で無謀な行動を取るのではなく、中国地方から戻ってくる羽柴秀吉の到着を待つという現実的な選択をします。
6月12日に摂津富田で秀吉軍と合流し、翌13日の山崎の戦いでは約3,000の兵を率いて右翼に配置されました。
織田信孝隊と共同で明智軍の側面を攻撃し、池田恒興隊の奇襲と連動して明智光秀本隊を撃破します。
戦闘は午後4時頃に開始され、約1時間半で決着がつきました。
長秀の慎重かつ的確な対応により、無用な消耗を避けつつ勝利に貢献できたのです。
5. 清須会議での重要な選択
天正10年(1582年)6月27日、尾張国清洲城で織田家後継者と遺領配分を決定する会議が開催されました。
出席した宿老は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名です。
会議では後継者をめぐり、柴田勝家が推す織田信孝と、羽柴秀吉が推す三法師(織田信忠嫡男・当時3歳)が対立しました。
長秀は池田恒興とともに秀吉に同調し、三法師を支持します。
この選択には複数の理由が考えられます。
同じ実務型武将として秀吉の合理性を評価したこと、領国(若狭・近江)が勝家の北陸と秀吉の近畿の間に位置しており地政学的に秀吉と結ぶ方が有利だったことなどです。
結果として三法師が後継者に決定し、長秀は若狭国を安堵されたほか、近江国高島郡・滋賀郡(約15万石)を加増されました。
また、三男・千丸を羽柴秀長へ養子に出し、秀吉と縁戚関係を構築しています。
6. 豊臣政権下での晩年
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家に勝利すると、長秀は越前国および加賀国江沼郡・能美郡を与えられました。
直轄領は約60万石と推定され、居城を越前国北ノ庄城に移します。
越前においても長秀は統治能力を発揮しました。
天正12年(1584年)夏には配下の検地奉行を動員して越前一国の検地を実施し、「今度縄打(土地丈量)を遂げ」との記述が残る知行宛行状を発給しています。
この越前検地では「1反1石8斗代」という極めて高率な生産量見積もりが適用され、総石高を大幅に引き上げました。このデータは後の慶長3年(1598年)における越前国高49万9411石の基礎数値として継承されており、太閤検地の先行事例となっています。
天正13年(1585年)4月、長秀は越前国北ノ庄城で死去しました。
享年51歳。
死因は「積聚(寄生虫病)」と呼ばれる病で、後世には腹中の虫を取り出したという壮絶な伝説も生まれましたが、医学的には胃癌または寄生症による病死と考えられています。
7. 歴史が伝える長秀の人物像
丹羽長秀の最大の特徴は、その万能性にあります。
軍事司令官、築城奉行、外交官、占領地行政官という異なる役割を、状況に応じて高水準で遂行しました。
長秀の人柄は謙虚で温厚、主君に誠実で決して裏切らないことで知られていました。
信長も長秀を「最も頼りになる家臣」として寵愛し、自らの愛刀や名物茶器と肩を並べて長秀の名を歌に読み込むほどのお気に入りだったといいます。
興味深いのは、羽柴秀吉の「羽柴」という姓が、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」を組み合わせたものとする説です。
秀吉は織田家中で尊敬する先輩の名から新たな苗字を創作することで、両者との協調を図ろうとしたと考えられています。
武断派の多い織田家臣団の中で、高度な行政手腕を持つテクノクラートとして機能した長秀。
その存在は、織田から豊臣への政権移行を円滑化させた「バッファー(緩衝材)」としての役割を果たしました。
長秀亡き後、嫡子長重が跡を継ぎましたが、所領は大幅に削減されます。
しかし改易は免れ、丹羽家は江戸時代まで大名家として存続することに成功しました。
これも長秀が晩年まで一族の存続に腐心し、秀吉との協調路線を崩さなかった結果といえるでしょう。
「米」のように目立たないが欠かせない存在として織田政権を支え続けた丹羽長秀。
その生涯は、歴史の表舞台に立つスター武将とは異なる、しかし組織運営において真に重要な「実務の達人」の姿を今に伝えています。
参考文献
- 功刀俊宏・柴裕之編『丹羽長秀文書集』戦国史研究会史料集4、2016年
- 福井県文書館『福井県史 通史編3 近世一』福井県、1994年
- 松浦義則「戦国末期若狭支配の動向」『福井県文書館研究紀要』17号、2020年
- 太田牛一『信長公記』(東京大学史料編纂所所蔵)
- Jurgis S.A. Elisonas & Jeroen P. Lamers訳『The Chronicle of Lord Nobunaga』Brill、2011年
- Mary Elizabeth Berry『Hideyoshi』Harvard University Press、1982年
- Mark Karl Erdmann”Azuchi Castle: Architectural Innovation and Political Legitimacy”Harvard University博士論文、2016年
- 名古屋刀剣博物館「丹羽長秀と愛刀」https://www.meihaku.jp/
- 福井県「福井の戦国歴史秘話」37号
- 文化庁「安土城跡 解説」文化遺産オンライン、2019年

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