鍋島直茂─智略と外交で築いた佐賀藩の礎

目次

はじめに

戦国時代、多くの武将が力ずくで天下を狙う中、一人の男は刀ではなく知恵で歴史を変えました。
鍋島直茂─彼は主君を失う絶体絶命の危機から組織を救い、30年かけて家臣の身分から一国の主へと昇り詰めた稀有な戦国武将です。
「佐賀の桶狭間」と呼ばれる劇的な勝利、朝鮮から連れ帰った陶工による有田焼の誕生、そして血を流さずに成し遂げた政権交代。
直茂の生涯は、武力だけでは生き残れなかった戦国の真実を私たちに教えてくれます。

note(ノート)
鍋島直茂の生涯ー智略で主家を救い、時代を生き抜いた武将|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 戦国の世を生き抜くには、武勇だけでは足りません。 時には智謀を、時には外交手腕を、そして時には冷徹な決断力を必要としました。 肥前国(現在の佐賀県)の鍋...

目次

  1. 今山の戦い─九死に一生の大逆転劇(1570年)
  2. 沖田畷の惨敗と冷静な危機管理(1584年)
  3. 豊臣秀吉との独自のパイプ構築
  4. 血を流さない政権交代─30年の既成事実化
  5. 有田焼の創始─陶工招聘による産業基盤
  6. 治水事業─成富茂安の登用と領国経営
  7. 関ヶ原での巧みな生存戦略(1600年)
  8. おわりに
  9. 参考文献

1. 今山の戦い─九死に一生の大逆転劇(1570年)

元亀元年(1570年)8月、北九州の覇者・大友宗麟が龍造寺氏の居城・佐嘉城を6万とも8万ともいわれる大軍で包囲しました。
絶体絶命の状況で、家臣の鍋島直茂(当時の名は信生)が献策したのは、わずか500の精鋭による敵本陣への夜襲という大胆不敵な作戦でした。

家中の多くは無謀だと反対しましたが、主君・龍造寺隆信の母である慶誾尼(けいぎんに)が「女であっても敵中に斬り込む」と叫んだことで、決死の作戦は実行に移されます。
8月19日夜、直茂は17騎で城を抜け出し、途中で合流した兵を加えて500〜800名の部隊を編成しました。

未明、直茂隊は今山の敵本陣背後から突入します。
鉄砲を撃ちかけながら「寝返った者が出た」という虚報を流すと、大友軍は混乱して同士討ちを始めました。
この隙に直茂の配下である成松信勝らが総大将・大友親貞を討ち取ることに成功します。
総大将を失った大友軍は総崩れとなり、約2,000名の戦死者を出して撤退しました。

この勝利により龍造寺氏は危機を脱し、直茂の名は一躍轟きます。
戦後、直茂は敵の家紋である「杏葉」を取り入れた「鍋島花杏葉」を家紋とし、この功績を後世に刻みました。
この戦いは後に「佐賀の桶狭間」と称されることになります。

2. 沖田畷の惨敗と冷静な危機管理(1584年)

天正12年(1584年)3月、主君・龍造寺隆信は有馬氏討伐のため島原半島へ出陣しました。
直茂は慎重な持久戦を進言しましたが、圧倒的な兵力差を信じる隆信はこれを退けます。

沖田畷(おきたなわて)での戦いで、島津・有馬連合軍の巧みな戦術の前に龍造寺軍は大敗を喫し、隆信は討ち死にしてしまいました。
主君の死を知った直茂は一度は殉死を決意しますが、家臣たちに「今ここで直茂様を失えば龍造寺家は滅びます」と諫められ、思い留まります。

直茂は即座に残存兵力をまとめ、島津軍の追撃を振り切って柳川城まで撤退しました。
さらに、敵から送られてきた隆信の首級の返還を断固として拒否します。
「名門龍造寺家に降伏の二文字はない」という毅然とした態度を示すことで、惨敗にもかかわらず有利な講和条件を引き出すことに成功しました。

この冷静かつ非情な判断により、龍造寺家は完全消滅を免れ、直茂は事実上の指導者として組織を再建する道を開いたのです。

3. 豊臣秀吉との独自のパイプ構築

直茂の先見性を示すのが、天下人との直接的な関係構築です。
天正10年(1582年)7月11日付の秀吉書状により、龍造寺隆信存命中から直茂が秀吉と密かに通じていたことが判明しています。
直茂は長崎で入手した「南蛮帽子」を秀吉に贈呈するなど、西洋文物への関心を通じて天下人との絆を深めていました。

天正15年(1587年)の九州征伐で、秀吉は龍造寺政家(隆信の嫡男)に7郡30万9,902石を安堵する一方、直茂・勝茂父子には別途4万4,500石を与え、龍造寺家の国政代行者として直茂を公認しました。
秀吉は直茂を「天下の三陪臣」(小早川隆景、直江兼続と並称)と評価し、その外交能力と軍事的才能を高く買っていたのです。

4. 血を流さない政権交代─30年の既成事実化

龍造寺から鍋島への権力移譲は、武力による簒奪ではなく、30年にわたる段階的なプロセスでした。
沖田畷後の合議で、龍造寺一門と宿老たちは「この危機を乗り切れる者は直茂のほかにいない」として、領国支配を直茂に委ねることを決定します。

慶長12年(1607年)、名目上の当主だった龍造寺高房と政家が相次いで死去し、龍造寺本家は実質的に断絶しました。翌慶長13年には龍造寺一門が直茂・勝茂への忠誠起請文を提出し、慶長18年(1613年)には幕府から佐賀藩35万7,000石の所領安堵朱印状が正式交付されます。

直茂は自らの藩主就任を辞退し、息子・勝茂を初代藩主として立て、自身は「藩祖」として後見役に徹しました。
主家への遠慮と実権掌握を両立させたこの政治姿勢は、幕末まで藩の統治理念に影響を与えることになります。

5. 有田焼の創始─陶工招聘による産業基盤

文禄・慶長の役(1592-1598年)から帰還する際、直茂は道案内や食糧供出に協力した朝鮮人陶工らを領内に定住させました。
その中の一人、李参平(金ヶ江三兵衛)は、元和2年(1616年)頃に有田泉山で磁石鉱を発見し、日本初の磁器「有田焼」を創始しました。

直茂は藩として有田焼の窯業を保護・育成し、後に寛永5年(1628年)には岩谷川内に藩窯が創設されます。
これが後の「鍋島焼」として、将軍家や諸大名への贈答用高級品を生産することになりました。
藩は皿山代官所を設置して職人を保護・育成し、製品の品質管理と専売制を実施することで、莫大な利益を確保しました。

1650年にはオランダ東インド会社が有田磁器を購入し、1659年以降は中東・東南アジア・ヨーロッパへの大量輸出が開始されます。
直茂の先見性は、単なる伝統工芸ではなく輸出産業としての基盤を作り上げた点にあります。

6. 治水事業─成富茂安の登用と領国経営

直茂のもう一つの功績は、治水・干拓の専門家である成富茂安の重用です。
茂安が手がけた土木事業は堤防・井樋・用水路など100箇所以上に及びます。

中でも「石井樋」は日本最古の取水施設とされ、嘉瀬川から多布施川への水量を調節する三門構造、突堤による土砂沈殿機構を組み合わせた総合的な治水システムでした。
石井樋は約350年間稼働し、佐賀平野を豊かな穀倉地帯へと変貌させました。

筑後川の千栗堤は、独自の工法により築造以来一度も決壊していません。
直茂が当面の軍事費よりも領国の経済基盤となるインフラ整備を優先した判断は、江戸時代を通じた藩財政の安定に大きく寄与したのです。

7. 関ヶ原での巧みな生存戦略(1600年)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、息子・勝茂は当初西軍に参加しました。
しかし直茂の判断で、勝茂は本戦前に戦線を離脱します。
伝承によれば、直茂は銀子500貫で米を買い占め、その目録を徳川秀忠に送付することで「鍋島家に敵意なし」との意思表示を行ったとされます。

関ヶ原本戦後、直茂は家康の命により西軍諸将の居城攻撃に転じ、久留米城や柳川城を攻略しました。
この軍功により、黒田長政らの仲裁を経て家康の信頼を勝ち取り、本領35万7,000石を安堵されたのです。

8.おわりに

元和4年(1618年)6月3日、鍋島直茂は佐賀で生涯を閉じました。
享年は史料により79歳または81歳とされています。

直茂の生涯は、武力ではなく智略と外交によって権力を掌握した稀有な事例です。
今山の戦いでの奇襲戦術、沖田畷後の冷静な危機管理、豊臣・徳川両政権との巧みな関係構築、そして血を流さない政権交代─これらすべてが、戦国時代を生き抜くための高度な戦略でした。

さらに有田焼創始による産業基盤の構築、成富茂安を登用した治水事業による領国経営の強化など、直茂は単なる武将ではなく、優れた統治者としての資質を備えていました。
直茂が築いた基盤の上に、佐賀藩は幕末には西洋式軍制や反射炉建設など近代化の先駆となり、明治維新において薩長土肥の一角を占めることになるのです。


9.参考文献

一次史料

  • 鍋島直茂宛て豊臣秀吉書状(天正10年7月11日付)、公益財団法人鍋島報效会所蔵
  • 鍋島家文庫(鍋島直泰氏寄託)、佐賀県立図書館寄託
  • 葉隠(山本本)、山本常朝口述・田代陣基筆録、1716年、公益財団法人鍋島報效会徴古館所蔵

二次史料

  • 藤野保編『佐賀藩の総合研究』吉川弘文館、1981年
  • 藤野保編『続 佐賀藩の総合研究』吉川弘文館、1987年
  • 有田町史編纂委員会『有田町史 陶業編Ⅰ』ぎょうせい、1985年
  • 佐賀県『佐賀県土地改良史』

公的史料

  • 『大和町史』大和町教育委員会編、1975年
  • 小城鍋島文庫、佐賀大学附属図書館
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