はじめに
戦国時代、信濃の小さな領主が、徳川家康率いる大軍を二度も撃退したことをご存じでしょうか。
真田昌幸という武将は、圧倒的な兵力差を覆し、巧みな外交と地形を活かした戦術で、乱世を生き抜きました。
わずか半年で5度も従属先を変えながら独立大名へと成り上がり、豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評された昌幸の生涯は、小が大を制する知恵の結晶です。
本記事では、史料に基づきながら、真田昌幸の外交戦略と軍事的才能の実像に迫ります。

目次
- 真田昌幸の生涯と時代背景
- 武田家滅亡後の生存戦略
- 第一次上田合戦:地形を活かした勝利
- 豊臣政権下での巧みな外交
- 犬伏の別れと家名存続の選択
- 第二次上田合戦:秀忠軍を足止め
- 九度山での配流生活
- 上田城の防御設計
- おわりに
真田昌幸の生涯と時代背景
真田昌幸は天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として信濃国小県郡に生まれました。
7歳で武田信玄の人質となり、信玄の奥近習衆として仕えます。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで兄二人が戦死したため、昌幸は真田家の家督を継ぎました。
この時代は、織田信長が天下統一を進める一方、武田家が滅亡へと向かう激動期でした。
小領主である真田家にとって、生き残るには時々の勝者に付くしかない厳しい状況だったのです。
武田家滅亡後の生存戦略
天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により武田家が滅亡します。
昌幸は一時、織田家臣の滝川一益の配下となりました。
しかし同年6月、本能寺の変で織田政権が崩壊すると、旧武田領は徳川・北条・上杉による争奪戦の場となります。
この混乱期に昌幸が見せた行動は驚くべきものでした。
わずか半年の間に、北条→織田→上杉→北条→徳川と5度も従属先を変更したのです。現代の感覚では「裏切り」と映るかもしれません。
しかし近年の研究では、大勢力に挟まれた小領主の合理的な生存戦略として評価されています。
この頻繁な去就変更により、昌幸は小県・沼田・吾妻の領地を確保し、小領主から独立大名へと成長しました。
第一次上田合戦:地形を活かした勝利
天正12年(1584年)、徳川家康と北条氏政が同盟を結びます。
その和睦条件として「真田の沼田領を北条に譲渡する」ことが定められました。
翌年4月、家康は昌幸に沼田領の引き渡しを命じます。
しかし昌幸はこれを拒絶しました。「沼田は徳川から拝領した領地ではなく、自ら切り取った領地である」という主張です。
この沼田城は、かつて武田勝頼の命で昌幸が調略・攻略した経緯があり、主張には一定の根拠がありました。
昌幸の拒絶に怒った家康は、天正13年閏8月2日、鳥居元忠・大久保忠世らに約7,000の兵を率いさせて上田城を攻めさせます。対する真田軍はわずか1,200~2,000程度でした。
圧倒的不利な状況で、昌幸はどう戦ったのでしょうか。
彼は上田城と周辺の地形を最大限に活用しました。
まず囮部隊約200を神川に配置し、徳川先鋒と接触後、恐れをなして退却するように見せかけます。
誘い込まれた徳川軍が城の二の丸まで侵入したところで、城門上から丸太を落とし、弓・鉄砲で集中射撃を開始しました。
城下町には「千鳥掛けの柵」という互い違いの柵を配置して退却路を遮断します。
さらに農兵約3,000に紙製の旗を立てさせ、伏兵が多数いるように誤認させました。
そして神川上流の堰を切って増水させ、撤退する徳川軍に多数の溺死者を出させたのです。
徳川軍の死傷者数は史料により異なりますが、徳川方の記録である『三河物語』でさえ大損害を認めており、真田軍の勝利は確実です。
豊臣政権下での巧みな外交
第一次上田合戦での勝利後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従しました。
これにより徳川の直接的な脅威を排除します。
一方で、長男の信之(当時は信幸)は、徳川重臣・本多忠勝の娘を家康の養女として正室に迎えました。
この婚姻政策は重要です。
次男の信繁(幸村)は大谷吉継の娘を妻とすることで豊臣奉行衆との繋がりを強めました。
つまり真田家は、昌幸・信繁ライン(豊臣・上杉・奉行衆)と信之ライン(徳川・譜代大名)という二重の外交パイプを構築したのです。
天正14年(1586年)、秀吉に臣従した上杉景勝らに対し、昌幸のみが上洛を拒否しました。
秀吉は家康に昌幸成敗を命じますが、この際に石田三成・増田長盛が上杉景勝宛に発した書状で、昌幸を「表裏比興の者」と記しています。
「比興」は現代の「卑怯」とは異なり、「くわせもの」「老獪」という意味です。
武将としての才覚への称賛と警戒を含む表現であり、これは一次資料で確認できる数少ない昌幸の人物評価となっています。
犬伏の別れと家名存続の選択
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに先立ち、真田家は重大な決断を迫られます。
7月30日、石田三成と大谷吉継から昌幸宛に家康打倒の挙兵を知らせる密書が届きました。
昌幸にとって、三成や大谷吉継は姻戚関係や豊臣政権下での庇護者でした
。加えて徳川との過去の遺恨もあり、家康の覇権確立は真田家の自立性を脅かすものと認識していました。
7月下旬、下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で父子三人が密談を行います。
その結果、昌幸と信繁は西軍へ、信之は東軍へと分かれることになりました。
これが有名な「犬伏の別れ」です。
通説では「どちらが勝っても真田の家系が残る」計算された決断とされます。
しかし、この「計算」を裏付ける同時代の一次資料は確認されていません。
信之はすでに徳川家康の養女を妻としており、東軍以外の選択肢は現実的ではなかったという指摘もあります。
それでも結果として、この選択が真田家の存続を可能にしたことは間違いありません。
第二次上田合戦:秀忠軍を足止め
慶長5年9月、徳川秀忠は約38,000の大軍を率いて中山道を西進しました。
9月3日、昌幸は「降伏する」と偽装交渉を行い時間を稼ぎます。
そして9月4日に態度を豹変させて籠城を宣言しました。
対する真田軍は約2,500〜3,000程度です。昌幸は上田城の地形を最大限に活用しました。
南側は千曲川の分流「尼ヶ淵」に面した断崖で天然の要害、北・西側は矢出川を引き込んだ巨大な堀(百間堀)で防御します。
東側は湿地帯に城下町を配置して緩衝地帯としました。
戦闘は刈田(稲刈り)を起因とする小競り合いが中心でしたが、秀忠軍は約5日間から1週間、上田城攻略に手間取りました。
9月8日に家康から上洛命令が届き、秀忠は9月9日に撤収して西へ転進します。
結果として秀忠は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、9月20日に大津で家康と合流しましたが面会を拒否されました。真田軍の抵抗が巨大組織の連携を物理的に遮断したのです。
九度山での配流生活
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、昌幸と信繁は慶長5年12月13日、上田城を発ち高野山へ配流となります。
女人禁制と寒さのため、高野山山麓の九度山(和歌山県九度山町)に移動しました。
配流生活は困窮を極めました。幕府からの扶持はなく、生活費は国元の信之からの送金に依存します。
昌幸が信之に宛てた書状には、「加州(加賀)様の焼酎」を送ってくれるよう懇願する記述があり、物質的欠乏が窺えます。
それでも信之は表立って父と交流することは憚られながらも、裏では頻繁に物資や金銭を送り続けました。
真田家は「徳川方(信之)」と「豊臣方(昌幸・信繁)」に物理的に分断されながらも、精神的・経済的には「一つの家」として機能し続けたのです。
慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は九度山にて病没しました。
享年65歳。赦免は叶いませんでした。
その後、信繁は慶長19〜20年(1614〜1615年)の大坂の陣で豊臣方として奮戦し、真田の名を歴史に刻みます。
上田城の防御設計
上田城は天正11年(1583年)に築城が開始されました。
当初は徳川家康の援助を受けましたが、後に上杉景勝の支援で完成します。
別名「尼ヶ淵城」と呼ばれ、千曲川の河岸段丘上に位置しました。
南側は高さ約10メートルの垂直な段丘崖が天然の要害となります。
北側・西側は矢出沢川を引き込み総構えとし、東側には蛭沢川と湿地帯を配置して大軍の侵攻を困難にしました。
神川は東側を流れ、堰を切って増水させる戦術に活用されます。
城下町の設計でも、北東の鬼門方角にあった海禅寺を移転して城の守りとし、北国街道を整備して商業地を形成しました。
防御と流通の機能を兼ね備えた計画的な都市設計だったのです。
関ヶ原の戦後、上田城は徳川によって破却されました。
現在の遺構は仙石氏による再建(寛永3年/1626年以降)です。
おわりに
真田昌幸の生涯は、小国の限界を正確な情勢分析と徹底したリアリズムで突破した稀有な事例です。
圧倒的な兵力差を地形の活用で覆し、複雑な外交関係を巧みに操りながら、真田家を存続させました。
「表裏比興の者」という評価は、昌幸の老獪さを物語ります。
しかしそれは、過酷な戦国の世を生き抜くために必要な知恵でした。現代を生きる私たちも、限られた資源で最大の成果を上げる昌幸の戦略から、多くを学べるのではないでしょうか。
参考文献
- 『真田家文書』381通(真田宝物館所蔵、長野県宝)
- 石田三成・増田長盛連署上杉景勝宛書状(1586年、上杉家文書)
- 『信州地域史料アーカイブ「秀吉と真田」』上田市立博物館/ADEAC、2011年
- 真田信幸書状(第一次上田合戦戦果報告、1585年、真田宝物館所蔵)
- 『三河物語』大久保彦左衛門、寛永年間
- 黒田基樹『真田昌幸』小学館、2015年
- 平山優『真田信繁』PHP新書、2016年
- 平山優・黒田基樹・丸島和洋他編『戦国遺文 真田氏編』(全3巻)東京堂出版、2018-2020年
- 『国史跡上田城跡石垣解体修復工事報告書』上田市教育委員会、平成21年
- 保柳康一・村越直美「真田氏繁栄の基盤となった地質と地形をめぐる」『堆積学研究』76巻2号、2018年

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