島左近ー「三成に過ぎたるもの」と謳われた名将の真実

目次

はじめに

「治部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」——この有名な落首を、あなたは聞いたことがあるでしょうか。
関ヶ原の戦いで石田三成とともに敗れた武将、島左近。
江戸時代の講談や軍記物では「鬼左近」として恐れられ、主君のために命を投げ出した忠臣として描かれてきました。しかし、実際の島左近はどのような人物だったのでしょうか。
同時代の確実な史料から浮かび上がるのは、単なる忠義の武士ではなく、自らの価値を理解し、戦略的にキャリアを築いた「プロフェッショナル」の姿です。
本記事では、伝説と史実を分けながら、島左近の実像に迫ります。

目次

  1. 大和の土豪から戦国の名将へ
  2. 筒井家での活躍と戦略的離反
  3. 運命の出会い:石田三成との主従関係
  4. 関ヶ原前夜:杭瀬川の奇襲作戦
  5. 関ヶ原本戦と最期の謎
  6. 後世に残された伝説と評価

大和の土豪から戦国の名将へ

島左近(本名:清興)は、天文9年(1540年)頃、大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡平群町周辺)に生まれたとされます。
島氏は鎌倉時代末期から平群谷一帯で活動してきた在地領主でした。

左近の同時代史料における確実な初登場は、天正5年(1577年)4月22日に春日大社へ奉納した石造灯籠です。
「春日社奉寄進 嶋左近丞清興」と刻まれたこの灯籠は現存しており、「清興」という実名を確認できる最古の物的証拠となっています。

筒井家での活躍と戦略的離反

左近は大和の戦国大名・筒井順慶に仕え、松倉右近とともに「筒井の右近左近」として知られる重臣となりました。
天正11年(1583年)の『多聞院日記』には、伊賀での戦いで負傷した記録があり、筒井家臣としての活動が確認できます。
天正12年(1584年)の順慶の葬送では、「五番 幡嶋左近殿」として行列に参加しました。

しかし、順慶の死後、養子の筒井定次が家督を継ぐと状況は変わります。
天正16年(1588年)2月、左近は筒井家を離反し、奈良興福寺の持宝院に身を寄せました。
離反の理由として、天正14年(1586年)の水利争いで定次が中坊秀祐に有利な裁定を下したことが指摘されています。

ここで注目すべきは、左近が地位を捨てて浪人となった判断です。
これは自身の能力に確固たる自信を持ち、特定の主君に依存せずとも生存可能であるという「市場価値」の認識があったことを示しています。

運命の出会い:石田三成との主従関係

石田三成への仕官を示す最古の同時代史料は、天正18年(1590年)5月25日付の「石田三成書状」です。
佐竹義宣との外交交渉で使者として島左近の名が登場します。
さらに同年7月には、左近自筆の書状2通が東京大学史料編纂所によって発見されました。
常陸国の大掾清幹の帰属問題について交渉を行っており、三成の下で対外交渉の要職を担っていたことが明らかです。

「三成が4万石の知行のうち半分の2万石を左近に与えた」という有名な逸話は、『常山紀談』(1739-1770年成立)が主要な出典であり、同時代史料では確認されません。
関ヶ原の戦いから約150年後に成立した逸話集の記述であり、史実としては未確認です。

ただし、天正20年(1592年)の『多聞院日記』には左近の妻が佐和山城に居住していた記録があり、石田家への仕官は確実です。
慶長元年から3年(1596-1598年)頃の石田三成判物では、年貢収納にあたり「島左近・山田上野・四岡帯刀」に命じたと記載されており、左近が軍事面のみならず内政実務にも携わっていたことが分かります。

左近は1595年には佐和山城下に長さ約540メートル、幅約5メートルの木橋「百間橋」を架け、領内の検地も担当しました。
これは武勇だけでなく、土木や行政にも通じた実務家としての能力を示しています。

関ヶ原前夜:杭瀬川の奇襲作戦

慶長5年(1600年)9月14日、関ヶ原の本戦前日に杭瀬川の戦いが行われました。
徳川家康が美濃赤坂に到着して西軍に動揺が広がる中、島左近は士気回復のため奇襲攻撃を進言します。

左近は蒲生郷舎らとともに約500人を率い、杭瀬川に伏兵を配置しました。
まず一部の部隊を囮として刈田で東軍を挑発し、中村一栄隊・有馬豊氏隊を誘引します。
深追いしてきた敵を伏兵で包囲し撃破、中村家老・野一色頼母を討ち取りました。
この小規模ながら西軍の勝利は、動揺していた西軍全体に「家康軍、恐るるに足らず」という自信を植え付けました。

関ヶ原本戦と最期の謎

9月15日の関ヶ原本戦において、左近は石田隊の先鋒として笹尾山の前面に堅固な陣地を構築しました。
拒馬(馬防柵)と竹矢来を二重三重に巡らせ、黒田長政、田中吉政、細川忠興といった東軍の主力部隊を一手に引き受けます。

開戦直後から猛攻に晒されましたが、左近は巧みな指揮で敵の突撃を幾度も跳ね返しました。
しかし、戦闘開始から約90分後、黒田長政隊の鉄砲隊による銃撃を受け負傷します。
『黒田家譜』は「要地をとり、旗正々として少しも撓まず…大音をあげて下知しける声、雷霆のごとく陣中に響き」と左近の奮戦を記録しています。

島左近の最期について、同時代に最も近い『慶長年中卜斎記』は「島左近、行方不知。子供、打ち死に候なり」と記録しています。
息子の島信勝は藤堂玄蕃と組み打ちの末に討死しましたが、左近本人の遺体・首級は発見されませんでした。

後世の史料は諸説を伝えます。
戦死説として『戸川家伝承』は戸川達安が討ち取ったとし、久能山東照宮には「伝・島左近の兜」が奉納されています。
一方、生存説として『石田軍記』『古今武家衰退記』は関ヶ原後に京都に潜伏し、寛永9年(1632年)に没したとします。
京都・立本寺教法院には左近の位牌・過去帳があり、「寛永9年6月26日没」と記載されています。
2024年6月には京都芸術大学による発掘調査が実施されましたが、左近本人かの確定には至っていません。

「三成を逃がすために自ら盾となって突撃した」という逸話は、同時代史料では確認されません。
小早川秀秋の裏切り後に再出陣して突撃したという記述は『常山紀談』にありますが、「三成を逃がすため」という動機付けは後世の小説・創作物による脚色と考えられます。

後世に残された伝説と評価

島左近の英雄像は、主として江戸時代中期以降の軍記物・逸話集によって形成されました。
『関原始末記』(1656年)、『武功雑記』(1696年頃)、『関原軍記大成』(1713年)、『常山紀談』(1739-1770年)などが編纂され、関ヶ原から50年以上経過した時期のものです。

「三成に過ぎたるもの」という有名な俗謡の文献上の初出は『古今武家盛衰記』(1751-1764年成立)であり、関ヶ原の戦いから約150年後に成立した逸話集です。
同時代史料には一切確認されません。

左近の血脈は意外な形で継承されました。
娘の一人は徳川家の兵法指南役となる柳生兵庫助利厳の側室となり、二人の間に生まれた柳生連也斎厳包は尾張柳生家の天才剣士として名を馳せます。
また、左近の娘の子と伝えられる島道悦忠次は、江戸時代初期に治水家として活躍し、中津川(淀川水系)の治水事業に功績を残しました。
大阪の教興寺には彼の墓とともに「島左近之墓」と刻まれた供養塔が存在します。

島左近の実像は、同時代史料によって断片的にのみ確認されます。
天正5年から慶長5年にかけて、大和の在地領主から筒井家臣、そして石田三成の重臣へと転身した人物として、その存在は確かです。
しかし「三成に過ぎたるもの」「鬼左近」という評価や、劇的な最期の場面は、江戸時代の軍記物による後世の創作であり、史実と伝説を峻別することが学術的に求められています。

まとめ

島左近は、単なる「忠義の武士」という枠に収まらない人物でした。
主君に見切りをつけて浪人となり、自身の価値を最大化できる新たな雇用主を選び取った戦略的なキャリア形成は、近代的ともいえる先駆例です。
石田三成という優秀だが軍事的正当性を欠くテクノクラートに対し、左近は「武名のブランド」と「実戦指揮能力」を提供しました。

検証可能な史実の断片においては「敗軍の将」に過ぎませんが、その断片を繋ぎ合わせることで、激動の時代を戦略的かつ情熱的に生き抜いた、稀代の「軍事エグゼクティブ」の姿が浮かび上がります。
関ヶ原における彼の最期は、西軍という組織の「精神的支柱」としての役割を完遂するものでした。
伝説と史実を分けながら、島左近という人物の真実に迫ることは、戦国時代を生きた武士たちの多様な生き方を理解する一助となるでしょう。

参考文献

  1. 『多聞院日記』興福寺多聞院僧侶、1478-1618年、国立国会図書館蔵(角川書店版1967年刊)
  2. 「順慶陽舜房法印葬送次第目録」筒井家、1584年、大和郡山市関連史料
  3. 花ヶ前盛明『島左近のすべて』新人物往来社、2001年
  4. 「石田三成書状(東義久宛)」石田三成、1590年5月25日、秋田藩家蔵文書(秋田県立図書館)
  5. 「島左近自筆書状(2通)」島左近、1590年7月、東京大学史料編纂所(2016年発見)
  6. 「石田三成判物」石田三成、1596-1598年頃、2008年発見・太田浩司論考参照
  7. 湯浅常山『常山紀談』1770年完成、国立国会図書館デジタルコレクション
  8. 宮川忍斎『関原軍記大成』1713年、各図書館所蔵
  9. 板坂卜斎『慶長年中卜斎記』1644年以前、国立公文書館・各大学図書館
  10. 『古今武家盛衰記』不詳、1751-1764年頃、各図書館所蔵
  11. 平群町観光協会公式サイト「へぐり戦国時代トップ – 嶋左近と椿井城」
  12. 岐阜県公式観光サイト「杭瀬川古戦場」
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