大谷吉継ー義に生きた豊臣政権の実務家と関ヶ原の悲劇

目次

はじめに

関ヶ原の戦いで石田三成とともに散った武将・大谷吉継。
「病を押して友のために戦った悲劇の武将」として知られていますが、実はその人物像には多くの謎と誤解が存在します。
私たちが「史実」だと信じていた茶碗の逸話は、実は後世の創作かもしれません。
本記事では、一次史料に基づいて大谷吉継の実像に迫ります。
豊臣秀吉が「百万の兵を指揮させてみたい」と称賛した、卓越した実務能力を持つ武将の真の姿とは何だったのでしょうか。

目次

  1. 大谷吉継とは誰か
  2. 「茶碗の逸話」は本当か
  3. 吉継を苦しめた病の実態
  4. 敦賀城主としての手腕
  5. 朝鮮出兵での兵站管理
  6. 関ヶ原への決断
  7. 関ヶ原での最期
  8. 参考文献

大谷吉継とは誰か

大谷吉継は、永禄年間(1560年代)に生まれ、若い頃から豊臣秀吉に仕えた武将です。
天正13年(1585年)頃に従五位下刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」の名で知られるようになりました。

吉継の最大の特徴は、武将でありながら極めて高度な実務能力を持っていた点です。
賤ヶ岳の戦いでは先懸衆として参戦する一方、九州征伐や朝鮮出兵では兵站奉行として補給・輸送を統括しました。
秀吉が「百万の軍勢を指揮させてみたい」と称賛したのは、こうした大規模な組織運営能力を評価してのことでした。

天正17年(1589年)頃、吉継は敦賀城主に任命されます。
敦賀は日本海交易の要港であり、北国から畿内への物資輸送の中継拠点として戦略的に重要な場所でした。
領国の石高は資料によって異なりますが、おおむね2万余石から5万石程度だったと考えられています。

「茶碗の逸話」は本当か

大谷吉継と石田三成の友情を象徴する「茶碗の逸話」をご存じでしょうか。
秀吉主催の茶会で、吉継の顔から膿が茶碗に落ちた際、周囲が躊躇する中、三成だけがそれを飲み干したという感動的な話です。

しかし、この逸話には重大な疑義があります。
調査によれば、同時代の書状や日記には一切記録がなく、江戸時代中期頃までの軍記物にも記載がありません。

確認できる最古の出典は、明治44年(1911年)に出版された福本日南著『英雄論』ですが、ここで茶を飲み干したのは石田三成ではなく、豊臣秀吉なのです。
さらに遡ると、明和7年(1770年)成立の『菅氏世譜』に類似の逸話があり、ここでは黒田如水・長政親子が病気の家臣・菅正利の飲んだ酒を飲み干したとされています。

つまり、この逸話は黒田家や秀吉の徳を示すために存在した先行説話が、明治期以降に三成と吉継の友情物語として再構成された可能性が極めて高いのです。

吉継を苦しめた病の実態

吉継が重い病気を患っていたことは、確実な史実です。
文禄3年(1594年)10月1日付の直江兼続宛書状には「眼病を患っているため、通常の花押ではなく印判を使用する」との記述があります。
これは、吉継が視力障害を伴う進行性の疾患を抱えていた証拠です。

天正14年(1586年)2月の『顕如上人貝塚御座所日記』には「悪瘡」、『本願寺日記』には「癩病(ハンセン病)」との記載があります。
ただし、病名を現代医学的に断定することは不可能で、ハンセン病説のほか、重度の梅毒やその他の皮膚・眼科疾患の可能性も指摘されています。

関ヶ原の戦いの頃には、吉継は失明状態で歩行も困難になっていました。
それでも秀吉から重用され続け、激務をこなしていたことは、彼の能力がいかに卓越していたかを物語っています。

敦賀城主としての手腕

敦賀城主となった吉継は、この地の地理的優位性を最大限に活用する都市計画と商業政策を展開しました。

城下町の整備では、笙ノ川・児屋ノ川を境界として「川西」「川中」「川東」の三町に再編成しました。
防衛機能を強化するため、城門付近の道路を意図的に入り組んだ構造にし、敵の直進を阻む設計を施しています。

商業政策では、敦賀の有力商人(道川氏など)に地子(土地税)や諸役、櫂役(船税)の免除特権を付与しました。
その代わりに、朝鮮出兵時の物資調達や船舶提供、輸送業務への協力を義務付けたのです。
これは「特権と奉仕の交換」に基づく、きわめて合理的な政策でした。

天正20年(1592年)2月、川船座の頭分・道川兵衛三郎に対し、間口19間・奥行10間の地子・諸役免除と船3艘の役免除という特権を付与しました
。この廻船商人ネットワークは、文禄3年(1594年)に秋田から伏見城用材「太閤板」を輸送するなど、大規模プロジェクトにも活用されています。

朝鮮出兵での兵站管理

文禄元年(1592年)の朝鮮出兵において、吉継は石田三成、増田長盛らとともに「船奉行」に任命され、渡海作戦の根幹となる輸送・補給任務を指揮しました。

管理した物資は膨大でした。
兵糧米は30万石規模、5千石から1万石単位の米、数千石単位の大豆(馬飼料)の緊急輸送を指令しています。
さらに火薬、鉛、鉄砲、陣地構築用の鋤・鍬、船の装備品に至るまで、細部にわたる調達を行いました。

輸送の遅延に対しては「責任者を成敗する」という厳しい罰則規定を設け、船頭には積荷の全責任を負わせる請負制を採用して、紛失や横領を防ぐシステムを構築しました。

文禄2年(1593年)6月の晋州城攻防戦には1,535人を率いて参加し、晋州城攻略に貢献しています。
また、明との講和交渉にも関与し、明使を伴って帰国して秀吉との面会を実現させるなど、外交面でも活躍しました。

関ヶ原への決断

慶長5年(1600年)7月、吉継は徳川家康の会津征伐に参加するため、3,000の兵を率いて敦賀を出発しました。
美濃国垂井に到達した際、佐和山城の石田三成から使者が訪れます。

三成と会った吉継は、3度にわたって挙兵中止を進言しました。
「家康に勝つ見込みが薄い」「お主(三成)には人望がないため、諸大名は味方しない」と冷徹に分析したのです。
しかし、三成の決意は固く、吉継は7月11日に佐和山城に入り、西軍への参加を決断しました。

なぜ吉継は「勝ち目なし」と理解していながら西軍に加わったのでしょうか。
豊臣政権の奉行として家康への権力集中を危惧したこと、長年苦楽をともにした三成への信頼、そして友の窮地を見捨てることへの恥辱感が、実利的な勝敗予測を上回ったと考えられます。

関ヶ原での最期

慶長5年9月15日、関ヶ原の戦場で、吉継は約5,700名の兵を率い、山中村藤川台に布陣しました。
この位置は、松尾山に陣取った小早川秀秋の真正面にあたります。
吉継は当初から小早川の裏切りを想定し、その抑えとして機能する配置を選んだのです。

この時期、吉継の病状は極期に達しており、自力での歩行や騎乗は不可能でした。
浅葱色の絹の袋に顔を入れ、四方が開いた輿に乗り、近習の兵士に担がせて指揮を執ったと記録されています。
視界が不自由な中、聴覚と伝令報告を頼りに部隊を統率する異例の指揮官でした。

正午頃、小早川秀秋隊が東軍に寝返り大谷隊を攻撃すると、吉継は直属兵600で迎撃し、小早川隊を2~3度、約500メートル押し戻しました。
しかし、側面を固めていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保ら4隊も東軍に寝返り、大谷隊は前面・側面・背後の三方向から攻撃を受けて壊滅しました。

戦局の崩壊を悟った吉継は、近習・湯浅隆貞(五助)に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」「敵に首を渡すな」と命じました。
五助は介錯を務め、首を戦場から離れた場所に地中深く埋めました。

首を埋め終わった五助は、藤堂高虎配下の藤堂高刑に捕捉されます。
五助は「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘してほしい」と懇願し、その約束を得て討たれました。藤堂高刑は約束を守り、徳川家康から詰問されても吉継の首の在処を明かしませんでした。
家康はその姿勢に感心して槍と刀を与えたといいます。

こうして大谷吉継は、慶長5年9月15日(1600年10月21日)、関ヶ原の露と消えたのです。


大谷吉継は、実務官僚としての卓越した能力と、義を貫く武士の精神を併せ持つ、戦国時代の転換期を象徴する人物でした。
茶碗の逸話が創作であったとしても、長年ともに働いた三成との信頼関係は史実であり、勝ち目のない戦いに身を投じた決断は、後世の人々に深い感銘を与え続けています。

参考文献

  1. 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社、2015年
  2. 外岡慎一郎「大谷吉継年譜と若干の考察 付・関係文書目録(稿)」『敦賀市立博物館研究紀要』30号、2016年
  3. 外岡慎一郎「乱世に義を貫く─名将大谷吉継の実像」敦賀市立博物館講演録、2017年
  4. 『国史大辞典』「大谷吉継」項目、吉川弘文館、1979-1997年
  5. 黒田基樹「真田信繁と大谷吉継、そして越前松平家」駿河台大学(福井県文書館)、2018年
  6. 『慶長見聞書』松平文庫所蔵、慶安4年(1651年)
  7. 板坂卜斎『慶長年中卜斎記』慶長4-5年(1600-1601年)
  8. 岐阜関ケ原古戦場記念館「関ヶ原古戦場」解説、2020年
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA



reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次