小西行長-信仰と外交に生きた戦国のキリシタン大名

目次

はじめに

関ヶ原の戦いで敗れた武将が、武士の誇りである切腹を拒否した―。
この一見「臆病」とも映る行動の裏には、命を賭してでも守り抜いた信仰がありました。
豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵の先鋒として活躍しながら、裏では平和を模索する二重外交を展開した小西行長。
彼の生涯は、戦国の荒波の中で信念を貫いた一人の人間の物語です。
商人の家に生まれながら武将となり、キリシタン大名として福祉事業に尽力し、最期は信仰のために武士道に背いた―。
矛盾に満ちた彼の人生を追います。

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小西行長―信仰と現実主義の狭間に生きたキリシタン大名|hiro | ゆる歴史かわら版 はじめに 戦国時代の終わりから安土桃山時代にかけて、一人の武将が信仰と現実の間で苦悩し続けました。 小西行長―堺の商人の家に生まれ、やがて肥後の大名へと昇りつめた...

目次

  1. 商人から武将へ-堺に生まれたキリシタン
  2. 朝鮮出兵の先鋒として-電撃戦と講和への転換
  3. 二重欺瞞の外交-平和への苦肉の策
  4. キリシタン大名としての社会事業-慈悲と破壊の両面性
  5. 加藤清正との対立-武断派と文治派の相克
  6. 関ヶ原の敗北と信仰の貫徹-切腹を拒んだ最期

1. 商人から武将へ-堺に生まれたキリシタン

小西行長は1558年頃、泉州堺の薬種商・小西隆佐の次男として京都に生まれました。
父の隆佐はフランシスコ・ザビエルとも接点を持ち、1560年頃に洗礼を受けた熱心なキリシタンでした。
行長は幼い頃からキリスト教の影響下で育ち、青年期に洗礼を受けて「ドン・アゴスチーニョ(アウグスティヌス)」の洗礼名を授かります。

商人の家に生まれた行長でしたが、備前の宇喜多直家に仕官した後、その才覚を豊臣秀吉に見出されて直臣となりました。
秀吉のもとで「水軍奉行」として海上交通を監督する役割を担い、瀬戸内海の制海権確保や兵站輸送で手腕を発揮します。
商人出身ならではの実務能力と交渉力、そしてキリスト教のネットワークを背景に、行長は急速に出世していきました。

1588年、肥後国人一揆の鎮圧などの功績により、行長は肥後国南半の領主となります。
石高については資料により14.6万石から24万石まで幅がありますが、宇土城を居城とし、天草諸島も含む水軍の要衝を任されました。
ただし北半は加藤清正に与えられ、ここから二人の対立が始まります。

2. 朝鮮出兵の先鋒として-電撃戦と講和への転換

1592年、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、行長は対馬の宗義智とともに第一軍約1万8千人を率いて先鋒を務めました。
4月に釜山に上陸した行長軍は破竹の勢いで北上し、わずか3週間後の5月には漢城(現ソウル)を占領します。
加藤清正と先陣の功を競いながら、さらに平壌まで進撃する快進撃でした。

しかし、戦況は次第に膠着します。
補給線が伸び切り、物資が欠乏する中、明(中国)が救援に参戦すると、日本軍は平壌を奪われて漢城まで撤退を余儀なくされました。
1593年1月の平壌城の戦いで行長軍は甚大な被害を受け、ここで行長は「明征服は不可能」と悟ります。

現場の惨状を知る行長は、石田三成と連携して早期講和を模索し始めました。
武力での決着が見込めない以上、外交による事態収拾しか道はないと判断したのです。

3. 二重欺瞞の外交-平和への苦肉の策

1593年、行長は明の使節・沈惟敬と接触し、歴史に残る「二重欺瞞外交」を展開します。
問題の本質は、日明双方の世界観が根本的に相容れないことにありました。
明は中華帝国として周辺国を「臣下」とみなす冊封体制を前提とし、秀吉は逆に明を屈服させたという認識でした。

この矛盾を解決するため、行長と沈惟敬は双方の君主を欺く策に出ます。
明には秀吉が降伏を願う偽の文書(関白降表)を提出し、秀吉には「明が降伏して和議を求めてきた」と虚偽の報告をしたのです。
行長の狙いは、双方の面子を保ちながら無益な戦争を終わらせることでした。

しかし、1596年、明の使節が大坂城で秀吉に謁見した際、明皇帝の詔書が秀吉を「日本国王」に封じる内容であることが判明します。
これは秀吉を明の臣下とする意味であり、領土割譲などの条件は一切含まれていませんでした。
激怒した秀吉は行長に死罪を宣告しましたが、前田利家や淀殿らの執り成しで命を救われました。
ただし、名誉挽回のため1597年の慶長の役に再出陣することを命じられます。

4. キリシタン大名としての社会事業-慈悲と破壊の両面性

行長はキリシタン大名として、領内で積極的な布教活動と社会福祉事業を展開しました。
天草地域では人口約3万人中約2万3千人がキリシタンとなり、教会約30箇所、神父・修道士60人余りが活動する一大キリスト教圏が形成されました。

社会事業では特筆すべき功績を残しています。
1586年には大坂にハンセン病患者のための病院を建設し、路傍を彷徨っていた患者たちに手厚い治療を施しました。
孤児救済にも注力、毎年100石の米を拠出して孤児院「根引きの子部屋」を運営し、戦乱で親を失った子どもたちを保護・養育しました。
これらの施設では宗教を問わず受け入れが行われ、1603年頃までに千人以上が洗礼を受けたと伝えられます。

一方で、行長の宗教政策には厳しい側面もありました。
領内の寺社破壊については史料により見解が分かれますが、宇土城の築城に際して仏教寺院や神社の石材を石垣に転用した考古学的証拠が発掘されています。
ただし、これが純粋な宗教的動機によるものか、反豊臣勢力の粛清という政治的理由によるものかは、現在も議論が続いています。

5. 加藤清正との対立-武断派と文治派の相克

肥後を二分して統治することになった行長と加藤清正は、宗教・戦略・価値観のあらゆる面で対立しました。
キリシタンの行長に対し、清正は熱心な日蓮宗信者です。
朝鮮出兵でも、外交・講和を重視する行長と、武功を追求する清正では戦略が真っ向から対立しました。

清正は咸鏡道で朝鮮二王子を捕獲し、さらに豆満江近辺まで侵攻する積極策を取ったのに対し、行長は明との講和交渉を主導します。
文禄元年9月の清正の注進状では「行長が攻略する平安道では治安に不安がある」と直接批判しており、帰国後も相互に讒言合戦を展開しました。

この対立は、豊臣政権内の「武断派」(清正ら武功派)と「文治派」(行長・三成ら吏僚派)の派閥抗争へと発展し、やがて関ヶ原の東軍・西軍の対立構造につながっていきます。

6. 関ヶ原の敗北と信仰の貫徹-切腹を拒んだ最期

1600年、石田三成が徳川家康に対して挙兵すると、行長は西軍に参加しました。
朝鮮出兵で苦楽を共にした三成への義理、宿敵・清正が東軍に属したこと、そして旧主・宇喜多家への恩義など、複合的な理由からの決断でした。

9月15日の関ヶ原本戦で、行長隊は北天満山に約4千から6千の兵で布陣し、田中吉政・筒井定次隊と交戦します。
しかし、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなり、行長は伊吹山中へ敗走しました。

9月19日、逃げ切れないと悟った行長は、地元の庄屋に自ら正体を明かして捕縛されることを選びます。武士であれば切腹を勧められる場面でしたが、行長はこれを拒否しました。カトリック教義では自殺は大罪とされており、行長は最後まで信仰を貫いたのです。

10月1日、京都六条河原で石田三成・安国寺恵瓊とともに斬首されます。
処刑の際、行長はポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを3度頭上に掲げた後、首を打たれました。武士社会からは「臆病」と嘲られましたが、彼は「武士」である前に「信徒」として死ぬことを選んだのです。
遺体はイエズス会宣教師に引き取られ、カトリック式で葬られたとされますが、埋葬地は今も不明です。


おわりに

小西行長の生涯は、戦国という時代の複雑さを体現しています。
商人から武将へ、水軍指揮官から外交官へ、そして福祉事業家から殉教者へ――。
彼の選択は時に矛盾し、時に誤解され、時に非難されました。
しかし、一貫していたのは、キリスト教への揺るぎない信仰でした。
武士の名誉よりも神への信を選んだその最期は、まさに信念に生き信念に死した人生の結末だったといえるでしょう。

参考文献

  • 鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像』八木書店、2010年
  • ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』全12巻、中公文庫、2000年
  • レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史(上巻)』岩波文庫、1938年
  • 『朝鮮王朝実録・宣祖実録』韓国国史編纂委員会データベース
  • 『イエズス会日本年報』村上直次郎・柳谷武夫訳、雄松堂、1969年
  • 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館、1995年
  • 『新宇土市史』通史編第二巻、宇土市教育委員会、2007年
  • 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』56号、2013年
  • 関西・大阪21世紀協会「第43話 小西行長」『なにわ大坂をつくった100人』Webマガジン
  • 刀剣ワールド「西軍 小西行長」名古屋刀剣博物館
  • 中島紀子「日本におけるキリシタンの社会事業(1549–1614)」大阪市立大学家政学部紀要 第21巻、1974年
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