「三国一の臆病者」と罵られ、すべてを失った男が、再び大名の座に返り咲いた――。
戦国時代、一度の失敗で全てを失うことは珍しくありませんでした。
しかし、領地を没収され、浪人にまで身を落としながら、再び大名として復活を遂げた武将は極めて稀です。
仙石秀久という人物は、まさにその稀有な存在でした。
豊臣秀吉の最古参家臣として15万石余りまで出世しながら、一度の判断ミスで全てを失い、高野山へ追放。
しかし、彼はそこで終わりませんでした。
「鈴鳴りの武者」として命がけの奮戦で汚名を返上し、異例の大名復帰を果たしたのです。
失敗から学び、再起を果たした仙石秀久の生涯を、史実に基づいて紐解いていきます。
目次
- 美濃の土豪から秀吉の腹心へ
- 破竹の出世―淡路・讃岐の大名に
- 戸次川の大敗―「三国一の臆病者」の汚名
- 高野山追放から再起の道へ
- 「鈴鳴りの武者」として名誉挽回
- 徳川の世を生き抜いた晩年
- まとめ

1. 美濃の土豪から秀吉の腹心へ
仙石秀久は天文21年(1552年)、美濃国加茂郡黒岩村(現在の岐阜県坂祝町)で生まれました。
父・仙石久盛は斎藤氏に仕える土豪でしたが、秀久は四男だったため、本来なら家督を継ぐ立場にはありませんでした。
しかし、兄たちが相次いで廃嫡や死去したため、養子に出されていた秀久が急遽呼び戻され、仙石家を継ぐことになります。
これが彼の人生の転機となりました。
永禄7年(1564年)頃、わずか13歳の秀久は織田信長に仕官し、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の配下に配属されます。当時の秀吉は、譜代の家臣を持たない新参の武将でした。
秀久は由緒ある武士階級出身として、野武士や農民上がりの兵が多かった初期羽柴軍団の中で重宝されたのです。
姉川の戦い(1570年)では武功を挙げ、天正2年(1574年)には近江野洲郡に1,000石を与えられて一領主となりました。
武勇を武器に、秀久は異例のスピード出世を遂げていきます。
2. 破竹の出世―淡路・讃岐の大名に
秀吉が天下人への道を歩み始めると、秀久の地位もそれに比例して急上昇しました。
天正6年(1578年)からの三木城攻略戦で功績を挙げた秀久は、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞で淡路国洲本城5万石の大名に取り立てられます。
30歳そこそこでの大名昇格は、当時としては異例の出世でした。
さらに天正13年(1585年)の四国征伐では、長宗我部氏の討伐に参加。
戦後の論功行賞で讃岐国10万石を与えられ、さらに十河氏領2万石を預かることになります。
実質的には約13万石を支配する有力大名へと成長したのです。
土豪の四男に過ぎなかった秀久が、わずか20年余りで一国一城の主になった背景には、秀吉の絶大な信頼がありました。
瀬戸内海の要衝を任されたことからも、軍事的にも政治的にも重要な存在だったことが分かります。
3. 戸次川の大敗―「三国一の臆病者」の汚名
しかし、順風満帆だった秀久のキャリアは、天正14年(1586年)に暗転します。
豊臣秀吉による九州征伐が始まり、秀久は四国勢の先遣隊を率いる「軍監」(総指揮官)に任命されました。
配下には長宗我部元親・信親父子、十河存保らがいましたが、つい1年前まで敵として戦っていた関係で、指揮系統には深刻な問題がありました。
12月12日、豊後国の戸次川(現在の大野川)で運命の戦いが起こります。
秀吉は「本隊が到着するまで持久戦に徹するように」と明確に命じていました。
軍議でも長宗我部元親は慎重論を主張しましたが、秀久は「敵は小勢」と過小評価し、功名心から渡河攻撃を強行したのです。
結果は惨敗でした。
島津家久の得意戦術「釣り野伏せ」にまんまと嵌り、豊臣軍は壊滅的打撃を受けます。
長宗我部信親(22歳)と十河存保が討ち死にし、死傷者は2,300名以上に上りました。
さらに秀久は、軍監としての責任を放棄して敗残兵をまとめることもせず、わずか20名の家臣だけを連れて讃岐へ逃げ帰ってしまいます。
この独断専行と敵前逃亡は、秀吉の激怒を買いました。
天正15年(1587年)、秀久は讃岐国を没収され(改易)、高野山へ追放されます。
当時の落書には「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と痛烈に皮肉られ、武将としての名誉は地に落ちたのです。
4. 高野山追放から再起の道へ
大名の座を剥奪された秀久は、高野山で約3~4年間の隠遁生活を送ります。
しかし、彼は諦めませんでした。
「このまま終われない」―秀久は己の不明を悔い、恥を忍んで復権の機会を虎視眈々と待ち続けます。
特に注目すべきは、徳川家康との接触です。
家康は秀久に「今は耐えて時節を待つように」と助言し、密かに支援していたとされています。
興味深いことに、秀久の後任として讃岐国を治めた尾藤知宣も、翌年に慎重すぎる采配で秀吉の怒りを買って処断されています。
秀久はこの状況にも望みを繋いでいたのかもしれません。
5. 「鈴鳴りの武者」として名誉挽回
天正18年(1590年)、ついに好機が訪れます。
豊臣秀吉による小田原北条氏討伐が始まったのです。
秀久は徳川家康の取り成しを得て、「陣借り」(浪人が自費で参戦する形態)として戦場に馳せ参じました。
旧臣約20名を率いての参戦でしたが、秀久の覚悟は並大抵のものではありませんでした。
山中城攻めでは先陣を務め、小田原城攻略では最難関の虎口(城の主要出入口)を真っ先に占拠する抜群の武功を立てます。
特に有名なのが、「鈴鳴りの武者」の異名です。
秀久は糟尾付きの金色の兜に、陣羽織の全面に多数の鈴を縫い付けて戦場を駆け回りました。
動くたびに鈴の音が響き渡り、敵味方の耳目を集めたのです。
この派手な装束と命がけの奮戦は、秀吉の目に留まります。
小田原攻め終結後、秀久の戦功を高く評価した秀吉は罪を許し、信濃国小諸5万石を与えて大名に復帰させました。
一度主君に見放されながらも、自力で汚名を返上して大名に再登用されたのは、戦国時代でも極めて稀な復活劇でした。
6. 徳川の世を生き抜いた晩年
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀久は重要な選択を迫られます。
豊臣恩顧の大名でありながら、小田原での恩義を重んじ、東軍(徳川方)に味方する道を選んだのです。
秀久は徳川秀忠軍に従って上田城攻めに参加しましたが、真田昌幸の巧みな防御により苦戦します。
秀忠が関ヶ原本戦に遅参するという失態を犯した際、秀久は間に立って弁明に努めたとされています。
戦後、外様大名でありながら秀久は「準譜代大名」として特別な厚遇を受けました。
参勤交代時には妻子同伴が許されるなど、異例の待遇だったのです。
小諸藩主として、秀久は城下町建設や産業育成に尽力します。
慶長17年(1612年)に完成した小諸城大手門は、質実剛健な意匠で現在も重要文化財として残っており、彼の統治手腕を今に伝えています。
名産の蕎麦切りを普及させるなど民政にも工夫を凝らし、領民から「仙石さん」と親しまれました。
慶長19年(1614年)5月6日、秀久は江戸から小諸への帰国途上、武蔵国鴻巣で病を得て没します。
享年63歳。大坂の陣を目前にした、波乱に富んだ生涯の幕切れでした。
まとめ
仙石秀久の生涯は、失敗と再起の物語です。
一度の判断ミスで全てを失い、「三国一の臆病者」という汚名を着せられながらも、彼は決して諦めませんでした。
高野山での隠遁生活を耐え忍び、命がけの奮戦で信頼を取り戻し、ついには大名として返り咲いたのです。
戸次川の敗戦は確かに秀久の重大な失策でした。
しかし、その後の行動が彼の真価を示しています。
失敗から学び、謙虚に時を待ち、再び立ち上がる勇気――それこそが、仙石秀久という人物の本質だったのかもしれません。
小諸に残る大手門は、失敗を乗り越えて領国経営に励んだ秀久の姿を、今も静かに物語っています。
参考文献
- 『改選仙石家譜』仙石家編(江戸期編纂)上田市立博物館所蔵
- 豊臣秀吉・秀久間書状(天正期)上田市立博物館所蔵
- 『フロイス日本史』ルイス・フロイス著/松田毅一訳、中央公論社、2000年
- 『豊薩軍記』大分県立資料館蔵
- 『シリーズ藩物語 小諸藩』塩川友衛、現代書館、2007年
- 『長宗我部元親・盛親』平井上総、ミネルヴァ書房、2016年
- 『徳川実紀』江戸幕府編纂
- 『The Samurai Sourcebook』Stephen Turnbull, Cassell & Co., 1998
- 小諸市公式サイト「懐古園の歴史」
- 一般社団法人こもろ観光局「仙石秀久(小諸藩初代藩主)」解説ページ

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