はじめに
1358年、北フランスの農村地帯で突如として炎が上がりました。
農民たちが武器を手に、次々と貴族の館を襲撃したのです。
この反乱は「ジャックリーの乱」と呼ばれ、わずか1か月余りで鎮圧されましたが、その衝撃は中世ヨーロッパ社会を揺るがしました。
なぜ農民たちは立ち上がったのでしょうか。
そして、この反乱が残した教訓とは何だったのでしょうか。
百年戦争と黒死病という二重の危機に見舞われた14世紀フランスで起きた、農民たちの絶望的な抵抗の物語をひも解いていきます。
目次
- ジャックリーの乱とは
- 反乱の背景―封建制度の崩壊
- 蜂起の発端と拡大
- 指導者ギヨーム・カルと農民軍の組織化
- 貴族側の反撃―階級を超えた連帯
- 反乱の終焉と残酷な報復
- 歴史が教えること
1. ジャックリーの乱とは
ジャックリーの乱は、1358年5月から6月にかけて北フランスで発生した大規模な農民反乱です。
「ジャックリー」という名称は、貴族が農民を蔑んで呼んだ「ジャック・ボノム(お人好しのジャック)」に由来します。
この呼び名には、「いくら搾取しても文句を言わない愚かな者」という侮蔑的な意味が込められていました。
反乱はパリ北方約50キロメートルのサン=ルー=デセラン村から始まり、瞬く間にピカルディー、シャンパーニュ、イル=ド=フランス地方全域に広がりました。
農民たちは貴族の館を襲撃し、約150もの城館を破壊したと伝えられています。
2. 反乱の背景―封建制度の崩壊
ポワティエの敗北が招いた危機
1356年9月19日のポワティエの戦いで、フランス軍はイングランド軍に壊滅的な敗北を喫しました。
フランス王ジャン2世自身が捕虜となり、身代金として300万エキュ(現在価値で数十億円相当)という天文学的な金額が要求されました。
中世の封建制度は、農民が領主に税や労働を提供する代わりに、領主が軍事的保護を提供するという相互義務で成り立っていました。
しかし、貴族たちは戦場で無様な敗北を重ねながらも、身代金調達や城塞修復のために農民への課税を強化したのです。
二重の苦境―傭兵団の跋扈
さらに悪いことに、休戦によって職を失った傭兵たちが「ルティエ」と呼ばれる武装盗賊団を結成し、農村を荒らし回りました。
農民たちは外敵からも、そして本来守ってくれるはずの領主からも保護されないという二重の苦境に立たされたのです。
同時代の年代記作家ジャン・ド・ヴェネットは「領主は農民を保護せず、むしろ敵のごとく攻撃した」と記録しています。
封建契約の根幹が完全に崩壊していたことがわかります。
決定的な引き金―コンピエーニュ勅令
1358年5月、王太子シャルル(後のシャルル5世)は、戦略的要衝の城砦修復を命じる勅令を発布しました。
しかし、その労働と費用負担は、すでに困窮していた農民に転嫁されました。
「自分たちを守らなかった城砦を、自分たちの労働で再建し、そこから再び自分たちを搾取する貴族を養え」という命令は、農民の忍耐の限界を超えさせました。
3. 蜂起の発端と拡大
1358年5月28日、サン=ルー=デセラン村で農民と貴族の部隊が衝突しました。
近隣騎士の館を襲撃した農民たちは、騎士とその家族を殺害し、館に火を放ちました。
この最初の襲撃で9名の貴族が命を落としました。
蜂起は教会の鐘を合図に瞬く間に広がりました。
農民たちのスローガンは明確でした。
「すべての貴族を倒せ!貴族こそがフランスの裏切り者だ!」
彼らの攻撃は計画的でした。
貴族の身体だけでなく、封建支配の拠点である城館と、法的根拠となる記録文書を徹底的に破壊したのです。
これは単なる怨恨による暴力ではなく、封建支配構造そのものを無力化しようとする革命的な意図を含んでいました。
4. 指導者ギヨーム・カルと農民軍の組織化
混乱の中、メロ村出身のギヨーム・カルという人物が指導者として浮上しました。
『四代ヴァロワ年代記』は彼を「知識と弁舌に優れ、容姿端麗な男」と描写しています。
カルは比較的裕福な農民で、単なる暴徒の頭目ではなく、一定の指導力を持つ人物でした。
当初は指揮を拒否したものの、仲間からの強い要請を受けて承諾したと伝えられています。
軍事的組織化への努力
カルは約4,000~5,000人の農民軍を組織化しました。
注目すべきは、彼が農民たちを単なる暴徒ではなく、軍隊として編成しようとした点です。
年代記によれば、農民軍は「前面に弓兵」「2,000人ずつの歩兵2大隊」「600騎の騎兵」を配置し、「整然たる陣形」で戦闘に臨んだとされます。
これは従来の「無秩序な暴徒」というイメージを覆す事実です。
パリとの連携
カルは自軍の弱点を理解していました。
重騎兵と正規訓練に欠ける農民軍だけでは、貴族の騎士団に対抗できません。
そこで彼は、パリで王権に対抗していたエティエンヌ・マルセルと同盟を結びました。
1358年6月9日、マルセルは公式にジャックリーへの支援を表明し、約800~1,000名のパリ市民軍を派遣しました。
しかし、この同盟は最終的に農民側にとって致命的な結果をもたらすことになります。
5. 貴族側の反撃―階級を超えた連帯
モーの戦い―歴史の皮肉
1358年6月9日、モーの市場城塞には王太子妃ジャンヌ・ド・ブルボンをはじめ、約300名の貴婦人たちが避難していました。
この城塞を農民軍とパリ市民軍が包囲したとき、驚くべき事態が起こりました。
百年戦争で敵対関係にあったはずの英仏両国の貴族が、共同で救援に駆けつけたのです。
フォワ伯ガストン・フェビュスとイングランド側のビュッシュ伯ジャン・ド・グライイは、プロイセンでの十字軍から帰還中でした。
彼らは「農民という卑しい身分の者が、高貴な婦人を脅かす」という事態を前に、国家間の対立を超越した「騎士道」に基づく階級的連帯を優先しました。
これは「階級」と「国家」のどちらが優先されるかという、中世社会の本質を示す重要な出来事でした。
重武装の騎士たちの突撃により、装備に劣る農民軍は一方的に殲滅されました。
モーの町は2週間にわたって燃え続け、反乱に協力した市民も虐殺されました。
6. 反乱の終焉と残酷な報復
メロの戦いとカルの処刑
モーでの敗北の報が伝わる中、カル率いる本隊はメロの高地に布陣していました。
対するはナバラ王シャルル2世(「悪王」の異名を持つ)が率いる貴族連合軍です。
1358年6月10日、シャルルは正面攻撃を避け、策略を用いました。
彼はカルに「休戦交渉」を申し入れ、使者を送りました。
当時の騎士道では、交渉のための使者には「安全通行権」が保証されるのが常識でしたが、貴族たちは「農民相手に騎士道のルールを守る必要はない」と判断したのです。
カルは約束を信じて単身で貴族陣営に赴きましたが、即座に捕縛されました。
指揮官を失った農民軍は混乱に陥り、壊滅的な打撃を受けました。
カルはクレルモンに連行され、拷問の後に斬首されました。
一部の伝承では、「王」を自称したことへの皮肉として、赤熱した鉄の冠を被せられたとも言われますが、これは確証されていません。
白色テロ―組織的な報復虐殺
反乱鎮圧後、貴族による組織的な報復が始まりました。
これを現代の歴史家は「カウンター・ジャックリー(反ジャックリー)」と呼びます。
貴族たちは軍隊を率いて村々を巡り、反乱に参加したか否かを問わず、農民を「見せしめ」として虐殺しました。
推定10,000~20,000人の農民が殺害され、多くの村が廃村となりました。
ある家族は、単に「貴族の主人になりたい」と言ったという噂だけで親族が絞首刑にされたと記録されています。
この無差別な暴力は、単なる復讐を超えた政治的な「恐怖支配」の再徹底でした。
恩赦と法的収束
1358年8月10日、王太子は恩赦令を発布しました。
これは農民を殺し尽くせば税収基盤が失われるという現実的判断と、貴族の私的制裁を王権の司法権下に置くという政治的意図がありました。
しかし、刑事訴追は停止されたものの、損害賠償を求める民事訴訟は数十年にわたって継続しました。
反乱地域には重い罰金が課され、農民の大量流出を招きました。
7. 歴史が教えること
年代記と史実のギャップ
長らく、ジャックリーの乱はフロワサールの年代記によって「理性を欠いた獣のような農民による無差別殺戮」として描かれてきました。
しかし、近年の研究は大きく異なる実態を明らかにしています。
2021年のジャスティン・ファーンハーバー=ベイカーの研究は、恩赦状から488名の参加者を特定し、多くが職人、小地主、下級官吏、一部聖職者であったことを示しました。
また、反乱中に殺害された貴族は「20名未満と女性1名」に過ぎず、年代記の残虐描写は誇張であったことが判明しています。
封建契約の意味
ジャックリーの乱は、封建制度における「相互義務」という原則が崩壊したときに何が起こるかを示す歴史的教訓です。
農民たちは「いくら搾取してもよい愚か者」ではなく、不当な支配に対して抵抗する政治的主体でした。
しかし同時に、この反乱は中世社会における階級的連帯の強固さも示しました。
英仏の貴族が国家間の対立を超えて協力したという事実は、当時の社会構造の本質を物語っています。
長期的な影響
ジャックリーの乱の後、北フランスでは長期間にわたって大規模な農民反乱が起こりませんでした。
貴族による徹底した恐怖支配が、農民の心に深い傷を残したのです。
ボーヴェ地方と周辺地域は数十年にわたって経済的に疲弊し、社会関係は硬直化しました。
しかし、この反乱の記憶は消えることなく、後世のフランス革命期にも参照される歴史的先例となりました。
参考文献
- Firnhaber-Baker, Justine. The Jacquerie of 1358: A French Peasants’ Revolt. Oxford University Press, 2021.
- Firnhaber-Baker, Justine. “The Social Constituency of the Jacquerie Revolt of 1358.” Speculum 95, no. 3 (2020): 689-715.
- Froissart, Jean. Chroniques de Jean Froissart (1369-1395頃). 校訂:Siméon Luce他, 1869-1975.
- Jean le Bel. Chronique de Jean le Bel (1352-1361). 校訂:Jules Viard・Eugène Déprez, 1904-1905.
- Jean de Venette. The Chronicle of Jean de Venette (1359-1368頃). 英訳:Jean Birdsall, 編:Richard A. Newhall, 1953.
- Chronique des quatre premiers Valois (1327-1393). 校訂:Siméon Luce, 1862.
- Luce, Siméon. Histoire de la Jacquerie d’après des documents inédits. 第2版, 1894.
- 千葉治男「ジャックリーの乱」『世界大百科事典』平凡社, 1998年.
- フランス国立公文書館所蔵 Lettres de rémission(恩赦状), AN JJ 86-90, 1358-1360.
- Encyclopædia Britannica, “Jacquerie.” 2023年版.

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