伊達政宗ー史実と伝説を分ける、戦国最後の野心家

目次

はじめに

「独眼竜」の異名で知られる伊達政宗。
死装束での謁見、母による毒殺未遂、忍者集団の運用——彼にまつわる劇的な逸話は、時代劇やゲームを通じて多くの人々を魅了してきました。
しかし、最新の史料研究により、これらの有名なエピソードの多くが江戸時代以降の創作であることが明らかになっています。
本記事では、一次史料に基づいて政宗の真の姿に迫ります。
天下統一という夢を諦め、東北地方での最大版図確保という現実的戦略に転換した政宗の冷徹な判断力、壮大な外交プロジェクト、そして膨大な文書による統治の実態をご紹介します。

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伊達政宗ー史実と伝説を見極める。東北の覇者の真の姿|hiro はじめに 「もう20年早く生まれていれば、天下を取れたのに」 伊達政宗について語られるとき、必ずと言っていいほど出てくるこの言葉があります。 永禄10年(1567年)に奥州...

目次

  1. 遅れてきた英雄:時代が許さなかった天下の夢
  2. 若き当主の試練:摺上原の戦いと最大版図の達成
  3. 天下人との対峙:小田原参陣の真相
  4. 家中の混乱:母と弟をめぐる謎
  5. 世界を見据えた野心:慶長遣欧使節の挑戦
  6. 地方政権の確立:仙台藩62万石の繁栄
  7. 伝説の検証:「独眼竜」も「黒脛巾組」も後世の創作
  8. おわりに

遅れてきた英雄:時代が許さなかった天下の夢

永禄10年(1567年)、伊達政宗は出羽国または陸奥国米沢で誕生しました。
この年、中央では織田信長がすでに美濃攻略を進めており、天下統一への道を歩み始めていました。
政宗が18歳で家督を継いだ天正12年(1584年)には、本能寺の変を経て豊臣秀吉が覇権を確立しつつある時期でした。

つまり、政宗は「遅れてきた英雄」だったのです。
彼が成人し、戦国大名として頭角を現した頃には、すでに天下統一というゲームは終盤を迎えていました。
この時代的制約こそが、政宗の生涯を決定的に規定することになります。

若き当主の試練:摺上原の戦いと最大版図の達成

天正17年(1589年)6月5日、23歳の政宗は摺上原の戦いで蘆名義広を破り、会津を制圧しました。
これにより奥州約114万石の版図を確立し、政宗は奥州随一の戦国大名となったのです。

しかし、この勝利が皮肉にも政宗の運命を変えることになります。
豊臣秀吉は天正16年(1588年)に私戦を禁じる「惣無事令」を発令しており、政宗の蘆名攻撃はこれに違反していました。
秀吉は問責使を派遣し、同時に佐竹義重・上杉景勝に政宗討伐を命じます。

この時点で政宗は重大な決断を迫られました。
天下統一という不可能な目標を追い続けるのか、それとも豊臣政権下での東北地方における最大版図の確保という現実的戦略に転換するのか。政宗は後者を選びました。

天下人との対峙:小田原参陣の真相

天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐に対する政宗の対応は、彼の政治的危機管理能力を示す重要事例です。
秀吉の関東出陣は3月1日でしたが、政宗の到着は6月5日と約2ヶ月遅れました。

遅延の理由は複数ありました。
家中の内紛処理(弟・小次郎問題)、北条領の通過が困難だったため越後・信濃・甲斐を経由する大迂回ルートを選択せざるを得なかったことなどです。

ここで有名な「死装束での謁見」の逸話が登場します。
しかし、これは史実ではありません。
伊達氏研究の第一人者である小林清治が1959年に『乙夜之書物』に「政宗が死装束で秀吉の前に出た」との記述があると発表しましたが、近年の研究で『乙夜之書物』にはそのような記述が存在しないことが判明しています。

実際の謁見記録によれば、6月9日の謁見時、政宗は「水引で髪を一束に結び、異風の姿」で秀吉の前に現れたとありますが、白装束や死装束という記述はありません。
この劇的な逸話は、江戸時代以降に創作されたものなのです。

結果として、政宗は会津郡、岩瀬郡、安積郡を没収され、約114万石から約72万石に減封されましたが、死罪・改易は免れました。

家中の混乱:母と弟をめぐる謎

政宗の母・義姫による毒殺未遂事件と弟・小次郎の処刑については、『貞山公治家記録』(1703年編纂)に記述があります。
しかし、この事件も一次史料での裏付けがありません。

平成6年(1994年)に発見された文禄3年(1594年)11月27日付の虎哉和尚書状には、義姫の出奔は『治家記録』の記述より4年後であることが記されています。
さらに、事件後とされる期間に政宗から義姫宛の書状が7通以上現存し、内容は親子の情愛に満ちており、殺害未遂のわだかまりが全く見られません。

元仙台市博物館館長の佐藤憲一氏は、この事件が政宗と母による「狂言」(偽装)ではないかとの見解を示しています。
小田原参陣という伊達家存亡の重大局面を前に、万が一政宗に何かあっても伊達家が存続できるよう、弟を安全な場所に逃がすための策だった可能性があります。

実際、東京都あきる野市の大悲願寺所蔵の『金色山過去帳』には、第15代住職「法印秀雄」が「伊達大膳大夫輝宗の二男、陸奥守政宗の舎弟也」と記録され、寛永19年(1642年)7月26日まで生存していたことが記されています。小次郎は処刑されず、出家して生き延びた可能性が高いのです。

世界を見据えた野心:慶長遣欧使節の挑戦

政宗の最も野心的なプロジェクトが、慶長18年(1613年)10月28日に開始された慶長遣欧使節です。
慶長16年(1611年)12月2日に発生した慶長大地震(死者1,783~5,000人)の復興資金獲得、メキシコとの直接貿易ルート開拓、宣教師招致を目的としていました。

政宗は船大工800人、鍛冶700人、雑役3,000人を動員してわずか45日間でサン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長を正使、フランシスコ会宣教師ソテロを副使として約180名の使節団を派遣しました。

慶長20年(1615年)11月3日、支倉常長はローマ教皇パウロ5世に謁見し、政宗親書2通(日本語・ラテン語、絹装金箔)を提出しました。
教皇は常長ら9名にローマ市民権・騎士位・貴族称号を授与しましたが、通商協定は不成立に終わります。

失敗の最大要因は、慶長19年(1614年)1月に幕府が禁教令を発令したことでした。
使節が出帆してわずか3ヶ月後に日本国内の状況が逆転し、迫害情報がスペイン・ローマに先行して到達してしまったのです。

元和6年(1620年)9月22日、使節団は7年間の航海を終えて帰国しましたが、わずか2日後の9月24日に仙台藩が禁教令を発令しました。
支倉常長は1621年または1622年に病死し、寛永17年(1640年)には長男常頼が切腹させられています。

地方政権の確立:仙台藩62万石の繁栄

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、政宗は徳川家康の東軍に属し、上杉景勝の抑えとして東北で活動しました。
戦後、家康から会津追加を期待しましたが実現せず、しかし慶長6年(1601年)に仙台への移転を許可され、仙台城築城を開始します。

政宗は仙台藩62万石の初代藩主として江戸時代を通じて東北最大の地方政権を確立しました。
公称は62万石ですが、新田開発により実質的には約100万石の財政基盤を築いたとされています。

伝説の検証:「独眼竜」も「黒脛巾組」も後世の創作

政宗に関する劇的な逸話の多くは江戸時代以降の創作です。

「独眼竜」の呼称は生前に使用された記録がなく、江戸後期の天保元年(1830年)に儒学者・頼山陽が漢詩で中国唐代の武将・李克用の異名を政宗に当てはめたのが最初です。
眼帯着用の記録も同時代史料に存在せず、昭和17年(1942年)の映画『独眼竜政宗』が最初で、昭和62年(1987年)のNHK大河ドラマで広く定着しました。

政宗が組織したとされる忍者集団「黒脛巾組」も、明和7年(1770年)の軍記物『伊達秘鑑』が唯一の詳細な記述で、仙台藩正史や一次史料に記載がありません。

おわりに

寛永13年(1636年)5月24日、政宗は江戸桜田上屋敷で70年の生涯を閉じました。
天下統一という夢を諦め、東北地方での最大版図確保という現実的目標に転換した政宗の判断は、伊達家の270年間の存続を保証し、明治維新まで東北最大の藩として繁栄する基礎となりました。

伊達政宗の実像は、劇的な伝説の主人公ではなく、時代の制約を冷静に認識し、可能な範囲で最大の成果を追求した現実主義的な政治家であり、文書による統治を重視した知的な戦国大名でした。
政宗の特徴は、約1,260点もの自筆書状を残した「筆武将」であることです。
同時代の他の戦国大名と比較すると、織田信長3通、豊臣秀吉130通、徳川家康約30通であり、政宗の突出した量が分かります。
伊達家文書は約11,300通が保管され、うち1,046通が令和2年(2020年)に重要文化財に指定されました。
仙台市博物館所蔵の伊達家文書を中核とする一次史料群により、史実と創作の峻別が進んでいます。
私たちは今、江戸時代の講談や小説が作り上げた虚像ではなく、史料に基づく政宗の真の姿を知ることができるのです。


参考文献

  • 仙台市博物館所蔵『伊達家文書』
  • 小林清治『伊達政宗』吉川弘文館、1959年
  • 佐藤憲一『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』吉川弘文館、2020年
  • 佐藤憲一「伊達政宗と母義姫―毒殺未遂事件と弟殺害について―」『市史せんだい』第27号、仙台市博物館、2017年
  • 五野井隆史『支倉常長』吉川弘文館(人物叢書)、2003年
  • 垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2014年
  • 『仙台市史 資料編10-13 伊達政宗文書』全4巻、仙台市史編さん委員会
  • 東京大学史料編纂所『大日本古文書 伊達家文書』全10巻
  • 大悲願寺『金色山過去帳』(東京都指定文化財)
  • 渡邊大門「小田原に遅参した伊達政宗は、死を覚悟して死装束で豊臣秀吉に面会したのか」Yahoo!ニュース、2023年
  • 萩原大輔『異聞 本能寺の変』八木書店、2022年
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