【歴史の転換点】アヴィニョン捕囚とは?教皇がローマを離れた68年間の真実

目次

はじめに

中世ヨーロッパにおいて、ローマ教皇は精神的な最高権威として君臨していました。
しかし、14世紀、その教皇がローマを離れ、フランスの小都市アヴィニョンに移り住むという前代未聞の事態が発生します。
この「アヴィニョン捕囚」と呼ばれる時期は、教皇の権威が大きく揺らぎ、やがてキリスト教世界を分裂させる大事件へとつながっていきました。
なぜ教皇はローマを離れたのか、そしてこの出来事が後世に与えた影響とは何だったのでしょうか。
本記事では、中世ヨーロッパの権力闘争と宗教改革への道を決定づけた68年間の物語を、わかりやすく解説します。

目次

  1. アヴィニョン捕囚とは何か
  2. 事件の発端:教皇とフランス王の対立
  3. アヴィニョンへの移転とその背景
  4. 7人のフランス人教皇たち
  5. 「バビロン捕囚」という批判
  6. ローマへの帰還とカタリナの役割
  7. 大分裂(シスマ)への道
  8. アヴィニョン捕囚が残した歴史的影響
  9. おわりに

1. アヴィニョン捕囚とは何か

アヴィニョン捕囚とは、1309年から1377年までの68年間、ローマ教皇がローマを離れ、南フランスのアヴィニョンに居住し続けた時期を指します。
この間、7人の教皇が全員フランス人として選出され、教皇庁の中枢もフランス人によって占められました。

この出来事は、イタリアの詩人ペトラルカによって「アヴィニョン捕囚」と名付けられました。
これは紀元前6世紀にユダヤ人がバビロンに連行された故事になぞらえたもので、教皇がフランス王権に「捕らわれている」という批判的な意味を込めた呼称です。

2. 事件の発端:教皇とフランス王の対立

物語は1303年の「アナーニ事件」から始まります。
当時の教皇ボニファティウス8世は、フランス王フィリップ4世と激しく対立していました。
争点は聖職者への課税権でした。
王は戦費調達のため教会財産への課税を求めましたが、教皇はこれを拒否します。

教皇は1302年、勅書『ウナム・サンクタム』を発布し、「すべての人間の救済のためにローマ教皇に服従することが必要である」と宣言して、教皇至上主義を明確にしました。
これに激怒したフィリップ4世は、側近のギヨーム・ド・ノガレに命じて教皇を襲撃させます。

86歳の老教皇は、故郷アナーニの宮殿で逮捕・監禁されました。
3日後に地元住民によって解放されましたが、この屈辱的事件の直後、1303年10月11日に死去します。
この事件は、世俗権力が教皇に対して物理的な強制力を行使できることを示し、中世教皇権威の象徴的な崩壊を意味しました。

3. アヴィニョンへの移転とその背景

短命の後継者ベネディクトゥス11世の死後、1305年にフランス人のベルトラン・ド・ゴがクレメンス5世として教皇に選出されました。
彼は即位後もローマには向かわず、1309年に教皇庁をアヴィニョンへ正式に移転させます。

この決定には複数の理由がありました。
第一に、ローマではコロンナ家とオルシーニ家などの貴族派閥が激しく争い、教皇の身の安全が保証されない状況でした。
第二に、フランス王の強い圧力がありました。
第三に、南フランスのプロヴァンス地方は比較的平和で、地理的にも神聖ローマ帝国とフランス王国の境界に位置する戦略的要地でした。

当時のアヴィニョンは人口4千から6千人程度の小都市でしたが、技術的にはフランス王国の領土外であり、隣接する教皇領に近接していました。
1348年、教皇クレメンス6世はナポリ女王からアヴィニョン市を8万フロリン金貨で購入し、1791年のフランス革命まで教皇領として維持されることになります。

4. 7人のフランス人教皇たち

アヴィニョン時代の教皇は全員がフランス人でした。
クレメンス5世に続き、ヨハネス22世は教皇庁の官僚機構を大規模に再編成します。
彼は中央集権的な財政システムを確立し、予期税、初年度収入税、十分の一税などの新税を導入しました。

ベネディクトゥス12世は1335年に教皇宮殿の建設を開始します。
クレメンス6世がこれを拡張し、最終的に総床面積15,000平方メートルに達する、中世西ヨーロッパ最大規模のゴシック様式宮殿が完成しました。
8つの高塔と厚い城壁を備えた要塞化建築は、教皇庁の富と権力を誇示するものでした。

しかし、この富の蓄積が新たな批判を生みます。
アヴィニョン期の7教皇が任命した枢機卿134名のうち、111名(約83%)がフランス人であり、教皇庁の意思決定機構がフランス勢力に支配されていたことは明白でした。

5. 「アヴィニョン捕囚」という批判

イタリア人文主義者フランチェスコ・ペトラルカは、1340年代の書簡で教皇庁を「西のバビロン」と表現しました。
彼は豪華な宮殿と贅沢な生活に耽る教皇たちを激しく批判し、「太陽はその旅において、この荒々しいローヌ河畔のこの場所ほど醜悪なものを見ることはない」とまで断じます。

この批判の背景には、効率的すぎる徴税システムへの反発がありました。
ヨーロッパ各地の聖職者や信徒から見れば、教皇庁は「ローマの普遍的牧者」から「アヴィニョンの効率的なフランス人徴税機関」へと変貌したように映ったのです。

6. ローマへの帰還とカタリナの役割

1370年代、教皇庁をローマへ帰還させようとする運動が高まります。
シエナの聖女カタリナは、1375年から1378年にかけて教皇グレゴリウス11世へ14通の書簡を送り、ローマ帰還を懇願しました。
「来てください、来てください。あなたを呼ぶ神の意志に抵抗してはなりません」という彼女の情熱的な言葉は、教皇の心を動かします。

1376年9月13日、グレゴリウス11世はアヴィニョンを出発し、3ヶ月半の旅程を経て1377年1月17日にローマへ到着しました。
68年間のアヴィニョン時代は終結します。しかし、教皇は翌1378年3月27日、48歳でローマにて死去しました。

7. 大分裂(シスマ)への道

グレゴリウス11世の死後、ローマ市民は「ローマ人か、少なくともイタリア人の教皇」を要求して暴徒化します。
圧力を受けた枢機卿団は、イタリア人のウルバヌス6世を選出しました。

しかし、新教皇は暴君的な性格を示し、フランス人枢機卿団と激しく対立します。
彼らは選挙が群衆の脅迫によって無効であると主張し、1378年9月20日に対立教皇クレメンス7世を選出してアヴィニョンへ帰還しました。

こうしてキリスト教世界は39年間(1378-1417年)、2人の教皇によって分裂します。
最終的に1417年のコンスタンツ公会議で統一されますが、この大分裂は教皇権威の絶対性を永久に失墜させました。

8. アヴィニョン捕囚が残した歴史的影響

アヴィニョン捕囚と大分裂は、16世紀の宗教改革への道を準備しました。
複数の教皇が並立したことは、教皇制度の不可謬性に対する信頼を根本的に損ないます。
マルティン・ルターが1517年に批判した免罪符制度は、まさにアヴィニョン時代に大規模化したものでした。

教皇の精神的・宗教的権威が深刻に損なわれた結果、「公会議至上主義」運動が台頭し、教皇よりも公会議が最高権威を持つという理論が発展します。
中世教皇制は、権力の絶対性を主張しながらも世俗権力に屈服し、もはや回復不能な権威の危機に陥りました。

おわりに

アヴィニョン捕囚は、教皇権威の失墜という単純な物語ではありません。
むしろ教皇庁が行政的・財政的に最も洗練された時期でもありました。
しかし、その効率的な統治能力が、かえって教皇の普遍的な精神的権威を損なう結果となったのです。

この68年間は、中世キリスト教世界の終焉と近代ヨーロッパの幕開けを象徴する転換点でした。
フランス王権の圧力、イタリアの政情不安、教会内部の腐敗、そして改革を求める声の高まり——これらすべてが複雑に絡み合い、やがて宗教改革という大変革へとつながっていくのです。


参考文献

一次資料

  • Petrarch, Francesco. “Liber sine nomine” (無名の書), 1340-1353年頃
  • Catherine of Siena. “Letters to Pope Gregory XI” (教皇グレゴリウス11世への書簡), 1375-1378年
  • “Vox in excelso” (高き所からの声) – 教皇クレメンス5世勅書, 1312年3月22日

二次資料

  • Rollo-Koster, Joëlle. “Avignon and Its Papacy, 1309-1417: Popes, Institutions, and Society.” Rowman & Littlefield, 2015.
  • Falkeid, Unn. “The Avignon Papacy Contested: An Intellectual History from Dante to Catherine of Siena.” Harvard University Press, 2017.
  • Menache, Sophia. “Clement V.” Cambridge University Press, 1998 (2012年再版).
  • “The Cambridge History of the Papacy, Volume 2.” Cambridge University Press, 2025.
  • Mollat, Guillaume. “The Popes at Avignon, 1305-1378.” Thomas Nelson社, 1963年英訳版.

オンライン資料

  • Encyclopedia Britannica: “Avignon papacy”
  • Catholic Encyclopedia (New Advent): “Pope Clement V”
  • EWTN: “Council of Vienne”
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