はじめに
一夜にして領国を失い、極寒の山中を逃げ延びた戦国大名が、わずか10年後に故郷の城主として復活する──。
まるでドラマのような展開ですが、これは実際に起きた歴史です。
宮崎県日南市にあった飫肥藩の初代藩主・伊東祐兵の人生は、戦国時代の敗者がいかにして勝者へと転じたかを示す、希望に満ちた物語といえるでしょう。
島津氏との戦いに敗れ、すべてを失った伊東氏が、豊臣秀吉や徳川家康という時代の転換点を巧みに利用して再興を果たした戦略には、現代にも通じる教訓が詰まっています。

目次
- 日向の名門・伊東氏の栄光と転落
- 「伊東崩れ」──一夜にして失われた領国
- 極寒の逃避行と流浪の日々
- 秀吉への仕官という転機
- 九州平定で果たした「先導役」の功績
- 11年ぶりの飫肥城復帰
- 関ヶ原での冷静な判断
- 280年続いた飫肥藩の基礎
- まとめ
1. 日向の名門・伊東氏の栄光と転落
伊東氏は藤原南家の流れをくむ武家で、鎌倉時代に伊豆国から日向国(現在の宮崎県)へ移り住みました。
戦国時代には「日向四十八城」と呼ばれる城郭網を築き、日向国の大半を支配する有力大名へと成長します。
11代当主の伊東義祐は、1564年に将軍家御相伴衆に列せられ、従三位という地方大名としては異例の位階を得るなど、最盛期を迎えていました。
しかし、栄華は長くは続きませんでした。
1572年6月14日、木崎原の戦いで運命が暗転します。
島津義弘率いるわずか約300の軍勢が、伊東祐安(義祐の甥)が率いる約3,000の大軍を「釣り野伏せ」という偽装退却戦術で撃破したのです。
この戦いで伊東氏は総大将をはじめ多数の主要武将を失い、「九州の桶狭間」とも称される大敗を喫しました。
2. 「伊東崩れ」─ 一夜にして失われた領国
木崎原の敗戦から5年後の1577年12月、さらなる悲劇が伊東氏を襲います。
島津義久の大規模侵攻により、伊東氏の重臣たちが次々と寝返ったのです。
特に衝撃的だったのは、筆頭家老の落合兼朝までもが島津方に降ったことでした。
12月9日、もはや抵抗の術を失った伊東義祐は、本拠の佐土原城を放棄して豊後国(現在の大分県)への脱出を決断します。
これが「伊東崩れ」と呼ばれる事件で、48城の城郭網と家臣団組織が一夜にして瓦解しました。
かつて日向国の大半を支配した大名権力が、完全に消滅した瞬間でした。
3. 極寒の逃避行と流浪の日々
伊東義祐と三男の祐兵は、裏切った家臣の城を避けて西回りの山岳ルートを選択し、米良山中から高千穂を経て豊後を目指しました。
脱出が行われたのは12月の厳冬期、猛吹雪の中でした。
出発時には120~150名いた一行でしたが、山中での凍死、崖からの転落、進めなくなった者の自害、追撃する島津軍や山賊の襲撃により次々と脱落していきます。
豊後の大友宗麟のもとに到着できたのは、わずか約80名でした。
この難民行列には、後に天正遣欧少年使節の一員として知られる8歳の伊東マンショ(祐兵の甥)も含まれていました。
豊後に逃れた伊東氏を大友宗麟は庇護しますが、1578年11月12日の耳川の戦いで大友軍が島津軍に大敗したため、武力による領地回復の望みは絶たれます。
父の義祐は伊予国へ渡り、祐兵は別行動をとって次の機会を待つことになりました。
4. 秀吉への仕官という転機
流浪の中で伊東祐兵は、次の時代を見据えた行動をとります。
1582年、播磨国において大和郡山伊東氏の伊東長実(祐兵の従兄弟)の仲介により、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)への仕官を果たしたのです。
同年6月の山崎の戦いで祐兵は武功を挙げ、秀吉から特別の槍を与えられ、河内国丹南郡に500石の所領を得ました。
これにより、祐兵は秀吉直臣としての地位を確立し、領地回復への道筋が開かれることになります。
ここで重要なのは、祐兵が単に生き延びるだけでなく、「上昇する権力」である秀吉に仕えることを選択した戦略的判断です。
5. 九州平定で果たした「先導役」の功績
1586年7月、豊臣秀吉は島津氏の勢力拡大を理由に九州征伐を開始しました。
この大規模作戦で、伊東祐兵には決定的な役割が与えられます。
秀吉は九州侵攻を二方向から展開し、東路軍は豊臣秀長(秀吉の弟)が豊後・日向を経て大隅へ進む経路でした。
祐兵は東路軍の「先導役」に任命され、黒田孝高(官兵衛)の指揮下に入ります。
祐兵の貢献は多岐にわたりました。
第一に、山岳地帯が多く城郭配置が複雑な日向において、旧領主であった祐兵の地理的知識は進軍計画に不可欠でした。
第二に、島津氏の支配下にあった元伊東家臣への働きかけです。
第三に、実戦での軍功で、1586年10月の宇留津城攻めや1587年4月17日の根白坂の戦いで戦功を挙げました。
根白坂の戦いは九州平定における最大の激戦で、島津軍を撃退した決定的勝利となりました。
1587年5月8日、島津義久は薩摩川内で秀吉に降伏し、九州平定は完了します。
6. 11年ぶりの飫肥城復帰
1587年6月7日、秀吉は箱崎八幡宮で「九州国分」を発表し、伊東祐兵には日向国臼杵郡・宮崎郡・諸県郡、および肥後国八代郡の一部が与えられ、合計2,024町の所領を得ました。
祐兵が最も望んだのは、祖父・義祐が1568年に島津氏から奪取した飫肥城でした。
同年8月、秀吉は飫肥城を伊東祐兵に与える決定を下しますが、飫肥城を守備していた島津家臣の上原尚近が引き渡しを拒否し、約1年間籠城します。
島津義久の説得により、上原は1588年6月に退去しました。
1588年5月、伊東祐兵は11年ぶりに飫肥城へ入城します。
この復帰は1577年の「伊東崩れ」で失ったすべてを取り戻したわけではありませんが、伊東氏が大名として再び日向に根を下ろすことを意味しました。
同年8月には宮崎郡・那珂郡の1,736町が追加され、所領は合計約3,760町となります。
1594年の文禄検地により、伊東祐兵の所領は正式に36,000石と確定されました。
これは付与当初から開墾事業により約8,000石増加していました。1599年頃の記録では石高は57,000石に達しており、飫肥藩は中堅大名としての地位を確立します。
7. 関ヶ原での冷静な判断
1600年の関ヶ原の戦いで、伊東祐兵は大坂の屋敷で重病に伏していました。
西軍(石田三成方)は祐兵に忠誠の証を求め、祐兵は形式上西軍に属する姿勢を示して約30名の兵を大津城の戦いに派遣します。
しかし、祐兵は密かに、黒田孝高(九州平定時の上司)を介して徳川家康と秘密裏に協議し、東軍支持を約束していました。
祐兵は嫡子の伊東祐慶(当時11~12歳)と筆頭家老の稲津重政を密かに飫肥へ帰還させ、九州での軍事行動の準備を命じます。
関ヶ原本戦が9月15日に行われた際、伊東軍は九州で独自の作戦を展開し、稲津重政が実質的指揮をとって3,000の兵を率いて日向国の宮崎城を攻撃しました。
徳川家康は、伊東氏が九州において東軍として行動したことを認め、その功績を評価します。
8. 280年続いた飫肥藩の基礎
関ヶ原後、伊東祐兵は東軍への転換が功を奏し、所領安堵の約束を得ました。
しかし、祐兵自身は1600年11月に大坂で病死します(享年41~42歳)。
家督は嫡子の伊東祐慶が継承しました。
1617年5月26日、2代将軍・徳川秀忠は伊東祐慶に対して飫肥藩57,000石の朱印状を発給します。
これは元和年間における全国的な所領確認の一環で、大坂の陣終結後の措置でした。
この朱印状により、飫肥藩は徳川幕府の正式な藩として確定します。
その後、1636年に3代藩主が弟に3,000石、1657年に4代藩主が弟に3,000石を分知した結果、飫肥藩の石高は51,000石となり、この数値が明治維新まで維持されました。
飫肥藩は初代から14代にわたり280年以上、伊東氏が統治を続けます。
江戸時代を通じて国替え(転封)は一度もなく、これは大名家としては極めて珍しい安定性でした。
まとめ
伊東祐兵の生涯は、戦国時代末期から江戸時代初期への激動期における一大名の生存戦略を示す典型例です。
1577年の「伊東崩れ」で文字通りすべてを失い、厳冬の逃亡で命からがら豊後へ逃れた祐兵が、わずか10年後に飫肥城主として復帰できたのは、単なる幸運ではありません。
祐兵の成功には三つの要素がありました。
第一に、「時機を見極める能力」です。
豊臣秀吉という上昇する権力に仕官し、九州平定では不可欠な先導役として価値を提供しました。
第二に、「情報の価値の理解」です。
日向の地理情報や旧家臣のネットワークは、秀吉の軍事作戦にとって代替不可能でした。
第三に、「実行を躊躇しない決断力」です。
関ヶ原では西軍の監視下から嫡子を脱出させ、東軍として行動するという大胆な作戦を実行しました。
飫肥藩の成立と280年にわたる存続は、戦国の敗者が勝者へと転換する可能性を示す歴史的事例として、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれます。
参考文献
一次史料
- 『日向記』落合兼朝著、宮崎県史叢書版(1999年3月)、国立国会図書館所蔵、CiNii ID: BA40813835
- 『寛政重脩諸家譜』第5輯、幕府編纂、国民図書(1923年)、pp.675-677
- 『日向纂記』平部嶠南著(1885年)、巻10-12、国立国会図書館デジタルコレクション PID:766744
- 『飫肥藩分限帳』飫肥藩作成、江戸時代、国立国会図書館デジタルコレクション PID:9769363
- 『薩藩旧記雑録』島津氏編纂、鹿児島県史料
二次史料
- 『宮崎県史 史料編 中世1・中世2・近世1-6』宮崎県編(1989年3月-)、全31巻32冊、宮崎県文書センター発行
- 『戦国人名辞典』高柳光寿・松平年一編、吉川弘文館(1981年)、p.22
- 『戦国期日向伊東氏の支配領域──『日向記』卜翁本所収「分国中城主揃事」の基礎的考察──』宮崎県総合博物館研究紀要 第44号(2024年3月31日)、pp.94-118
- 『飫肥藩家老・伊東氏家譜書「藤枝伝」』宮崎県文化講座研究紀要 第36号、宮崎県立図書館(2009年)、pp.35-57、CiNii ID: 40017126085
- 『日南市中心市街地活性化基本計画』日南市(2012年)、pp.21-22

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