はじめに
豊臣秀吉の天下統一によって、多くの武将たちが新たな領地を与えられました。
その中で、蜂須賀家政という28歳の若き武将は、阿波国(現在の徳島県)を治めることになります。
彼はわずか数年の間に、戦乱で荒れた土地を安定した統治体制へと変貌させました。
徳島城の築城、効率的な土地調査、商業都市の建設――。
現代でも参考になる、スピーディーで戦略的な経営手腕とは?
この記事では、蜂須賀家政がどのようにして徳島藩280年の基盤を築いたのか、その秘密に迫ります。

目次
- 蜂須賀家政の阿波国入国
- 戦略的な城下町づくり
- 徹底した土地調査で基盤固め
- 水運を活かした経済発展
- 関ヶ原の乱を乗り越えて
- 徳島藩280年の礎
- まとめ
1. 蜂須賀家政の阿波国入国
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐が完了しました。
それまで阿波国を支配していた長宗我部元親が降伏し、秀吉は功績のあった武将たちに新たな領地を分け与えます。
このとき、蜂須賀家政は28歳という若さで阿波国約17万5,000石を任されました。
父・蜂須賀正勝(小六)は秀吉の側近として著名でしたが、高齢を理由に辞退し、代わりに息子の家政が領主となったのです。
しかし、阿波国は決して安定した土地ではありませんでした。
長年の戦乱で荒廃し、山間部には旧勢力の土豪たちが根強く残っていました。
新参者の家政にとって、この不安定な土地をどう統治するかが最大の課題だったのです。
2. 戦略的な城下町づくり
家政が最初に着手したのは、統治の拠点となる城の建設でした。
当初は旧勢力の拠点だった一宮城に入りましたが、家政は山間部のこの城では阿波全域を効率的に治められないと判断します。
そこで選んだのが、吉野川河口のデルタ地帯にある「渭津(いのつ)」という場所でした。
豊臣秀吉も「猪山(いのやま)がよかろう」と築城を指示したと伝わります。
この立地には明確な戦略がありました。
第一に、吉野川水系を利用した水運の便です。
内陸部から物資を集め、大坂や京都などの大消費地へ輸送するには最適の場所でした。
第二に、河川に囲まれた地形は防衛上も有利でした。
家政は人心一新を図るため、この地を「徳島」と改名します。
天正14年(1586年)、わずか約1年という驚異的なスピードで徳島城が完成しました。
この迅速な建設を可能にしたのは、旧勢力の勝瑞城や一宮城の資材を転用するという合理的な判断でした。
石垣には地元の緑色片岩(阿波の青石)を使用し、雨に濡れると青く輝く独特の美しさを持つ城として知られるようになります。
城の完成と同時に、家政は計画的な城下町づくりを開始しました。
「徳島で商売をする者には屋敷地を与える」という大胆な優遇策を打ち出し、商人や職人を積極的に招きました。
特に有名なのが、堺の豪商・千利休の甥である魚屋道通を招いたことです。
武家屋敷を城の近くに、商人街を河川沿いに、寺町を外縁部に配置するという、機能的な都市設計が行われたのです。
3. 徹底した土地調査で基盤固め
新しい領主にとって、領内の実態把握は統治の基本です。
家政は入国直後から段階的に検地(土地調査)を実施しました。
天正13年(1585年)12月には、早くも検地の具体的な規則を定めた「検地条々」を発布しています。
測量結果を台帳に記録し、年貢の負担を明確化することで、領民の不安を和らげる狙いがありました。
そして天正17年(1589年)、豊臣秀吉の全国統一基準に基づく太閤検地が本格的に実施されます。
統一された測量単位(1間=約191cm)、京枡による容積測定、土地の等級分け(上・中・下・下々)という徹底したシステムでした。
この検地により、武士と農民の身分分離(兵農分離)も進められ、近世的な支配体制の土台が築かれたのです。
ただし、山間部では強い抵抗に遭いました。
天正13年(1585年)8月、祖谷山などの土豪たちが一揆を起こします。
彼らは検地により従来の権益を失うことを恐れたのです。
家政は武力鎮圧と懐柔策を巧みに使い分け、天正18年(1590年)には一応の平定を達成しました。
完全な支配確立は元和3年(1617年)の刀狩実施まで32年を要しましたが、この粘り強い対応が後の安定につながります。
4. 水運を活かした経済発展
家政の統治は、単なる年貢徴収にとどまりませんでした。
吉野川流域の地理的特性に着目し、商品作物としての阿波藍の生産を奨励したのです。
阿波藍は藍染めの原料で、軽量かつ高付加価値な商品でした。
徳島城下の港から水運と海運を利用して畿内の大消費地へ容易に輸送できるため、「戦略的商品」として最適でした。後に寛永2年(1625年)には藍方役所が設置され、流通統制が行われるようになります。
城下町には新町川沿いに多数の船着場(雁木)が整備され、商業活動が活発化しました。
参勤交代も御座船で大坂まで水上移動するなど、河口デルタ地帯の地理的優位性が最大限に活用されたのです。
貞享2年(1685年)頃には城下町整備が完了し、町人人口は2万5,590人に達しました。
明治27年(1894年)には人口約6万5千人を数え、全国11位の都市規模となります。家政が築いた「水の都」としての基盤は、近代まで繁栄をもたらしたのです。
5. 関ヶ原の乱を乗り越えて
慶長5年(1600年)、家政は最大の政治的危機を迎えます。
関ヶ原の戦いです。
豊臣恩顧の大名だった家政は、巧みな戦略でこの危機を乗り切りました。
家政自身は出家して高野山に入り、阿波国を豊臣秀頼に返上する形を取ります。
一方で、嫡男の至鎮(よししげ)は徳川家康の養女を妻に迎えていた縁もあり、東軍(徳川方)として参戦させたのです。
この両属戦略は成功しました。
戦後、徳川家康は至鎮の功績を認め、阿波国の旧領を安堵します。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣でも至鎮は活躍し、淡路国7万石余が加増されました。
最終的な石高は25万7,000石となり、四国最大の大名家としての地位を確立したのです。
6. 徳島藩280年の礎
元和4年(1618年)、初代藩主・至鎮は「御壁書二十三箇条」を制定し、藩政の基本法令を確立します。
寛永15年(1638年)に家政が81歳で死去すると、阿波九城制(重臣を国内9城に配置した軍事体制)も廃止され、近世大名としての藩政体制が完成しました。
家政が築いた統治基盤――徳島城と城下町、検地による実態把握、阿波藍による経済力、水運を活かした商業発展――は、明治4年(1871年)の廃藩置県まで286年間、徳島藩の安定をもたらしました。
蜂須賀家は14代にわたり同地を治め、四国を代表する雄藩として幕末を迎えます。
7. まとめ
蜂須賀家政が阿波入国からわずか数年で実現した統治基盤の確立は、現代の経営にも通じる戦略性を持っています。
立地の徹底分析(水運の利を活かせる徳島)、迅速なインフラ整備(1年での築城)、実態把握の重要性(検地による石高確定)、商業と物流の重視(阿波藍の奨励と水運整備)、そして危機管理能力(関ヶ原での両属戦略)――。これらは、不安定な時代に新しい組織を安定させるための普遍的な原則でもあります。
28歳の若き武将が築いた徳島藩の礎は、280年という長期安定の実現へとつながりました。
歴史から学べる教訓は、時代を超えて私たちに多くの示唆を与えてくれます。
参考文献
一次史料・公的機関資料
- 「矢野百姓中検地条々」興禅寺文書(天正13年12月11日付)
- 豊臣秀吉朱印状写(天正13年8月4日付、毛利博物館蔵)
- 徳島市公式ウェブサイト「とくしまヒストリー」シリーズ
- 徳島県ホームページ「歴史」
- 徳島市立徳島城博物館 特別展図録『蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮 —二五万石の礎—』(2010年)
- 徳島県立図書館デジタル資料『近世社会を創出した文書・検地帳』(第25回特別展図録、2018年)
- 国文学研究資料館所蔵「阿波国徳島蜂須賀家文書」
二次資料
- 『日本歴史地名大系 37 徳島県の地名』(平凡社、2000年)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「蜂須賀家政」項(小学館、1994年)
- 国土交通省「蜂須賀家と阿波踊り」観光資源多言語解説データベース(2020年)
- Wikipedia「蜂須賀家政」「徳島藩」
- SamuraiWiki “Hachisuka Iemasa” および “Tokushima Domain”

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