はじめに
「山法師」と呼ばれた武装した僧侶たち――彼らは神輿を担いで京都に押し寄せ、時の権力者さえも恐れさせました。平安時代後期の白河法皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師」を「意のままにならないもの」として嘆いたと伝えられています。
なぜ、本来は祈りと学問の場であるはずの寺院が、巨大な武装集団を抱えるようになったのでしょうか。
そして、その力はどのように日本の歴史を動かし、やがて終焉を迎えたのでしょうか。
本記事では、延暦寺の僧兵について、その誕生から織田信長による焼き討ちまでの約600年の歴史を分かりやすく解説します。
目次
- 延暦寺の成り立ちと経済基盤
- 僧兵はなぜ生まれたのか
- 「強訴」という政治手段
- 荘園経営と僧兵の実態
- 織田信長による焼き討ち
- おわりに
1. 延暦寺の成り立ちと経済基盤
延暦寺は788年(延暦7年)、最澄(さいちょう)によって比叡山に創建されました。
平安京の北東、いわゆる「鬼門」に位置することから、都を守護する重要な寺院として朝廷の厚い保護を受けます。
平安時代中期以降、延暦寺の性格は大きく変わっていきます。
皇族や貴族から多くの荘園(私有地)が寄進され、その経済力は飛躍的に拡大しました。
現在確認されているだけでも285ヶ所以上、実際にはそれ以上の荘園を全国に保有していたと考えられています。
これらの荘園は近江(現在の滋賀県)を中心に、北陸、山陰、九州にまで広がっていました。
延暦寺の経済活動は荘園経営だけではありません。
日吉大社と共同で高利貸し業も営んでおり、年利48~72%(月利4~6%)という高い利率で米や金銭を貸し付けていました。
京都の土倉(金融業者)の80%が延暦寺・日吉大社グループによって支配されていたという記録もあります。
平安時代後期には、住山僧約3000人、3800以上の建物が約20平方キロメートルの比叡山に散在し、全国に370もの末寺を持つ、まさに巨大な宗教組織へと成長していました。
2. 僧兵はなぜ生まれたのか
なぜ宗教施設が武装する必要があったのでしょうか。その理由は主に二つあります。
第一に、荘園の防衛です。
全国に散らばる荘園は、盗賊や地方の国司(役人)、他の権力者からの侵害に常にさらされていました。
これらの権益を守るためには、実力による自衛が不可欠だったのです。
また、高利貸し業においても、武装した取立人による強制的な債権回収が行われており、1370年には延暦寺の取立人が公家の家に押し入ることを禁じる法令が出されるほどでした。
第二に、寺院内部の対立です。
10世紀、延暦寺内部で円仁派と円珍派の激しい対立が起こりました。
993年(正暦4年)、円珍派約1000人が比叡山から追放され、山麓の園城寺(三井寺)に移ります。
この分裂により、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)は互いに武力衝突を繰り返すようになります。
延暦寺は園城寺を大規模に7回、小規模なものを含めると50回以上も焼き討ちしたという記録が残っています。
こうした状況の中、970年頃に延暦寺の武装集団が本格的に組織化されました。
「僧兵」という呼び方は江戸時代以降に定着したもので、当時は「悪僧」「衆徒」「大衆」「山法師」などと呼ばれていました。
「悪」は「強い」「勇猛な」という意味です。
僧兵の構成は多様でした。
上層には学侶と呼ばれる高位の僧侶がおり、中下層には堂衆(寺内雑務担当)、衆徒(武装した僧侶)、そして日吉大社の神人(じにん、神社職員で荘園管理や徴税を担当)などが含まれていました。
3. 「強訴」という政治手段
延暦寺の僧兵が最も力を発揮したのが「強訴(ごうそ)」です。
これは、日吉大社の神輿を担いで武装集団が京都へ押し寄せ、朝廷や幕府に要求を突きつける行為でした。
神輿を用いることが、この行動を特別なものにしました。
単なる武装集団による抗議ではなく、神の意志を奉じた神聖な行進となるため、朝廷や幕府の兵が実力で阻止しようとすれば、神輿を傷つけ神罰を招くことになります。
為政者にとって、神輿への攻撃は自らの正統性を失いかねない危険な行為でした。
初めて神輿が入京したのは1095年(嘉保2年)のことです。
美濃守・源義綱による延暦寺領への介入に抗議し、その流罪を要求しました。
朝廷は武士に防御を命じ、衝突で僧侶が射殺される事態となりましたが、最終的に義綱は解任され、防御を指揮した武士は4年後に流罪となります。
この出来事は、神威を背景とした強訴の有効性を証明することになりました。
981年から1549年までの約600年間で、約240回もの強訴が記録されています。
特に院政時代(110年間)に60数回、鎌倉時代(150年間)に約100回と集中しており、権力闘争に寺社勢力が深く関与していたことが分かります。
この状況を象徴するのが、白河法皇の言葉です。「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」――当時の最高権力者でさえ、延暦寺の僧兵を制御できなかったのです。
4. 荘園経営と僧兵の実態
僧兵の活動は、派手な強訴だけではありませんでした。
むしろ、日常的には全国の荘園を管理し、年貢を徴収し、境界紛争を解決するという、地道な活動が中心でした。
鎌倉時代の「葛川与伊香立庄相論絵図」という史料は、延暦寺の統治能力を示す貴重な記録です。
これは延暦寺の末寺である無動寺の所領、葛川と伊香立庄という隣接する荘園間の境界紛争を記録したもので、鎌倉時代だけで少なくとも6回も紛争が繰り返されました。
驚くべきことに、延暦寺は自らの領地で国家に代わる統治機能を発揮していました。
絵図には山林の境界線が詳細に描かれ、利用権が細かく色分け・注記されています。
紛争が激化すると、上部組織が介入して「和与(わよ)」という和解命令を発給し、紛争を裁定していたのです。
つまり、延暦寺は領土を持ち、軍事力・警察力を保持し、立法・司法・行政機能までをも担う、一種の「国家内国家」だったのです。
僧兵の日常生活も興味深いものでした。
彼らは常時武装していたわけではなく、平時は仏道修行と寺務を行い、必要時に戦闘集団として編成されました。
しかし、日常的に剣術・弓術の訓練を行い、「職業軍僧」としての側面も持っていました。
主な武器は薙刀で、その他に太刀、弓矢、槍を使用し、侍と同様の大鎧を着用していました。
5.織田信長による焼き討ち
戦国時代に入ると、延暦寺はその戦略的立地と軍事力から、ますます重要な政治的・軍事的存在となります。
しかし、それは同時に、天下統一を目指す織田信長との運命的な対立をもたらしました。
1570年(元亀元年)、信長との戦いに敗れた浅井長政・朝倉義景の連合軍を比叡山内に匿い、軍事拠点を提供したことで、延暦寺と信長の対立は決定的となります。
背景には、1569年に信長が延暦寺領を横領したことへの反発もありました。
信長は延暦寺に「味方になれば寺領を返還する」と提案しましたが、延暦寺はこれを拒否します。
再三の警告を無視されたと判断した信長は、比叡山の完全な無力化を決意しました。
1571年9月12日(旧暦、新暦では9月30日頃)、明智光秀や佐久間信盛らが率いる約30000の軍勢が比叡山を完全に包囲し、総攻撃を開始します。
根本中堂や日吉大社をはじめとする堂塔伽藍に火が放たれ、延暦寺の武装勢力は壊滅しました。
死者数については史料により異なります。『信長公記』では3000~4000人とされ、同時代のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録では約1500人とされています。
近年の考古学調査では、山全体が焼き尽くされたとするほどの広範囲な焼失の痕跡は確認されておらず、伝統的な史料の数字は誇張されている可能性が指摘されています。
多くの僧は坂本に居住しており、また施設の多くは焼討ち以前に廃絶していた可能性もあります。
重要なのは、この事件が単なる宗教施設への攻撃ではなかったという点です。
朝廷が公式な抗議を行った記録が見当たらないことから、信長の行動は、国家に反逆する敵対的な政治・軍事勢力の殲滅という、軍事行動として認識されていた可能性があります。
これは、旧来の荘園制に根ざした宗教的権力と、新たな中央集権的統一を目指す武家権力との、最終的な衝突だったのです。
6. おわりに
1584年(天正12年)、豊臣秀吉が延暦寺の再建を許可しましたが、条件として僧兵を置かないことが明示されました。1642年(寛永19年)には天海大僧正の尽力により根本中堂が再建され、江戸幕府の統制下で延暦寺は復興します。
しかし、かつての政治力・軍事力を取り戻すことは二度とありませんでした。
延暦寺の僧兵制度は、約600年にわたって日本の政治・経済・社会に大きな影響を与えました。
国家鎮護の聖域として創建された寺院が、経済的利害と政治的野心によって世俗的な権力へと変貌を遂げた過程は、宗教と権力の複雑な関係を示す貴重な事例です。
織田信長による焼き討ちは、この長きにわたる寺社勢力の時代に終止符を打つ象徴的な出来事でした。
それは、新たな支配者が独立した武装宗教勢力の存在を許容しないという、時代の転換を明確に告げるものでした。
この事件を経て、日本は宗教と軍事の分離を決定づけ、近世的な中央集権体制への道を歩み始めたのです。
現在の比叡山延暦寺は、世界文化遺産として、純粋な学問と信仰の山として多くの参拝者を迎えています。
しかし、その数世紀にわたる興亡の歴史は、宗教的権威が世俗の力と結びついた際に生み出される強大なエネルギーと、その必然的な結末を、私たちに静かに語りかけているのです。
参考文献
- 一次史料『中右記』藤原宗忠著、平安時代後期、宮内庁書陵部所蔵
- 一次史料『兵範記』平信範著、平安時代末期、東京大学史料編纂所
- 一次史料『玉葉』九条兼実著、平安時代末期~鎌倉時代初期、東京大学史料編纂所
- 公的資料『大日本史料』東京大学史料編纂所編纂、1901年~継続刊行中
- 一次史料 良源『二十六箇条起請』970年、宮内庁書陵部所蔵
- Mikael S. Adolphson『The Teeth and Claws of the Buddha: Monastic Warriors and Sōhei in Japanese History』University of Hawaiʻi Press, 2007
- Mikael S. Adolphson『The Gates of Power: Monks, Courtiers, and Warriors in Premodern Japan』University of Hawaiʻi Press, 2000
- Neil McMullin『Buddhism and the State in Sixteenth-Century Japan』Princeton University Press, 1984
- 成瀬龍夫『比叡山の僧兵たち―鎮護国家仏教が生んだ武力の正当化』サンライズ出版、2018年
- 滋賀県教育委員会編『延暦寺発掘調査報告書』全3巻、滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会、1980-1982年
- 滋賀県文化財保護課・古川史隆『近江の城めぐり 第31回 延暦寺』2020年
- 福井県近代史編纂室『福井県史 通史編2』1971年
- Wikipedia「強訴」項目、「僧兵」項目、「延暦寺」項目

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